第9話

 十月二十日土曜日。「午後に監査が来るから部屋を片付けておくように」と言われたのはみんなで朝ご飯を食べている最中だった。

 監査と聞いて一番に声を上げたのはランくんだった。彼は隣のテーブルに座る職員へ「監査って午後何時!?」と聞いている。声には動揺が滲んでいた。

「多分午後二時くらいかな」

「二時ならギリ間に合うかな!? いや、無理かもしれん! どうしよう!?」

 困惑気味にランくんはバッとゼンくんの方を向く。しかし「俺は部屋違うから助けられないよ」とすぐさまはしごを外される。

「えぇん……ヨリトくーん……たすけて……」

 今度は同室のヨリトくんにすがりついたが「俺は日頃から綺麗にしとけって言ってたよね?」と笑みを向けられて半泣きになっている。

「監査ってそんなに怖いものなの? 部屋が汚いと罰則があったり……?」

 ボクは素朴な疑問を投げかける。それに答えたのはヒノデくんだった。

「別に怖くはないぞ? ただ監査官が二人くらい来て各部屋を軽く見てまわるだけだからな。でもあまり生活環境が良くないと指導が入ったりするからそれを避けるためにみんな頑張ろうねって感じ」

「なるほど。それでランくんの部屋ってどんな感じなの?」

 ランくんは黙った。重苦しくとにかく深く深く黙る。代わりに答えたのはゼンくんだった。

「荒れ果てた魔窟って感じ」

「荒れ果てた魔窟……? そんな洞窟のダンジョン名みたいなことある?」

 すでにボクの脳内ではボス部屋みたいな禍々しい風景が思い起こされていた。

「ま、魔窟ではないし……荒れ果ててはいるけど……」

 ランくんの言葉は非常に弱々しい。

「とにかく急いで部屋の片付けしなきゃ……!」

 ランくんは大慌てで朝食をかき込むとお茶で流し込んで食器を片しに行った。



 ***



 隣の六室からガサガサゴソゴソと紙をかき分けたりビニール袋の擦れるような音が壁を抜けて七室まで聞こえてくる。ランくんがお片付けを頑張っている音だ。

 ガサゴソ音を聞きながら、そういえばランくんの実家はやばめのゴミ屋敷だったって言ってたなぁなんてふと思い出す。この前聞いた話だとランくんのお母さんが片付けられないひとってふうに語られていたけれど、きっとランくん自身もかなりお片付けが苦手なのだろう。

 ボクはロフトベッドを降りて六室に様子を見に行った。他室に入るのは規則で禁止されているけれど扉の前から窺うくらいなら怒られはしないだろう。

 ボクは開け放たれた六室の扉から中をのぞき込む。

「ランくん?」

「なに」

 彼はこちらを見ずにぶっきらぼうに言葉を返す。言葉の端々には焦燥が滲んでいた。彼の目の前に置かれた勉強机の上は空きペットボトルとかお菓子の空き箱とか、学校の配布物っぽい紙とか、かなりの物で溢れかえっていた。

 足下に置かれた四割ほど中身が埋まったゴミ袋を見て、まだまだ先は長そうだと察する。

「えっと、大丈夫……?」

「これが大丈夫に見える!?」

 こちらを振り向いた彼の目は涙で潤んでいた。

 愚問だった。聞くまでもなく全然大丈夫じゃなさそうなんだから発言する前に気がつくべきだった。

「あぁもう……ほんとやだ……! 片付けできないし、物はすぐなくすし、忘れ物も多いし」

 半泣きで自分への苛立ちをこぼす様子はとてもとても苦しそう。

「字もろくに読めないし、書けないし、内容頭に入ってこないし。無駄に音が聞こえるくせに会話は聞き取れないし、毎日ちゃんと薬飲んでるのに……」

 彼は手に持ったプリントをくしゃくしゃにしてゴミ袋に入れようとする。ボクは慌ててそれを止めた。

「ランくん! それ三者面談の申込用紙だよ。職員に渡そう?」

「……うん、わかった」

 彼は手元のプリントをロフトベッドの上に放る。ベッドの上には教科書やゲーム機があげられており今現在の大事な物(というか捨てちゃいけない物)の待避所がそこらしいことが見て取れた。

「なぁこのプリントは捨てていいかな? ダメなやつかな?」

 差し出されたものは半年前のものだったから、ボクは「半年前のものは捨てて大丈夫だと思うよ」と伝えた。

 彼はまた一枚プリントを手に取ると「これは?」とボクに見せる。その様子がなんだか見ていられなくて、ボクはそっと提案した。

「プリントの仕分け手伝うよ」

「いいの?」

「うん。結構な量があるけど日付の古いものとか献立表とか、いかにもいらないものはすぐにわかるからパパッと捨てちゃおう」

「うん、ありがとう……」

 彼は鼻をすすりながらお礼を言うとボクへごっそりプリントを手渡した。



 ***



「俺ね、健常者じゃないから出来ないことたくさんあって、片付けができないのもそのせいなんだと思う。たぶんお母さんからの遺伝だから一生治らないとも思う」

 手洗い場でペットボトルを洗浄しながら彼はぽつりと呟いた。

「苦手が多いから特学に入れられてるし」

 そう語る彼はとても悔しそうだった。

「でもランくんは他の特学の子とはちょっと違うよね。なんていうか、言い方がアレだけど普通の子と変わらないっていうか……」

「それな。なんかね、発達障害をいくつか持ってるけど知的障害はギリギリないらしい」

 だからより一層特別支援学級に入れられていることがコンプレックスなのだと彼はまた泣きそうな顔をした。

「ディスなんちゃらって病気で文字がわからないこと以外はちょっとだめなヤツ程度だと思ってるんだけど、やっぱりその病気が一番問題らしくて。なんていうか、まいっちゃうよね。中途半端な障害背負って損ばっかりして」

 ランくんは「あーあ」と投げやりな声をあげて頭を掻きむしったかと思えばきれいにしたペットボトルを空きペットボトル用のゴミ箱に放り投げた。八つ当たりのように投げつけられたペットボトルはコンッと音を立ててゴミ箱に収まる。それを見て少しは気を良くしたのか、ランくんの表情はいくらか軽くなったように思えた。

 外すことなく次々にゴミ箱へペットボトルを投げ入れる彼は手先がとても器用なように思う。ボクもランくんを真似て洗ったばかりのペットボトルをゴミ箱に投げてみたけど普通に外してしまった。

 ゴミ箱のふちに当たって床に落ちたペットボトルを拾い上げ改めて捨てる。その動作の中で思ったことをなんとなく口に出してみた。

「ランくんは苦手がいっぱいあるけど、それをちゃんと受け止めてどうにかしようと努力しているところすごいよ。きっとランくんみたいに頭が良くて障害があるひとはそれで病んで自暴自棄になっちゃうことだってあると思うけど、ランくんはそうはなってない」

「でも、俺は、やっぱりどう努力したってソラやゼンたちみたいな健常者にはなれないよ」

「それでも普通のひとに近づこうと努力して、今日だってちゃんと監査のためにお片付けしてるじゃん」

 彼は一度、山になったペットボトル専用のゴミ箱を見て、またボクに視線を戻す。

「おれ、普通っぽく見える?」

「見える!」

 ボクのはっきりした返事を耳に入れた彼は「そっか」と安心しきった笑みを浮かべる。

「一緒にゴミを捨てに行こう。それでヨリトくんに確認してもらってOKをもらったらミッションコンプリートだ」

「うん!」

 ランくんは七割ほど埋まったゴミ袋を結わいて担ぐ。「重くない?」って聞いたら「全然!」と袋を振り回しながら答えてくれた。

 その笑顔はとても無邪気で、もっといっぱい彼が笑顔になれたらいいなって心の底から願わずにいられなくなる。

 片付けが苦手で、物忘れとなくしものが多くて、文字の読み書きが不得意で、他にもたくさん苦手があるけれど、素直で一生懸命な彼がどうかずっと笑顔でいられますように。

 

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