第8話

 八月十日。職員の大塚さんに「お母さんから電話だよ」と呼び出されたのは本当に突然のことだった。

「もしもし……?」

 ぎこちなく、それでいて小さな声で受話器の向こうに話しかける。返ってきた言葉は同じくぎこちない「もしもし」だった。

「えっと、久しぶり」

 ちょっとだけよそよそしい感じの挨拶にお母さんはなんて思っただろうか? 気にしたかな? それとも全然気にしてない? どっちでもいいけど。

 それから少しだけ施設の生活について話した。って言っても聞かれたことに短く答えただけだけど。寮のみんなはいい人だよ。門限と就寝時間が決まってるよ。ゲームはできるよ。ご飯は出るからコンビニのご飯の味は忘れちゃった。とか。

 お母さんは聞くだけ聞いてどれにも「そうなんだね」と相槌を打っただけで特に自分のことは話さなかった。

 電話の終わりぎわ、お母さんは「来月あたり」と切り出す。

「来月あたりね、面会の予定立っててみましょうって児相と話が出てて、それで電話の許可も出たの。面会は多分、九月のどこかの土曜日になりそう」

 面会――。

 数ヶ月前のボクはかなり待ち望んでいたことだったはずなのに、今はなぜだかそんなにはしゃいだりする感じじゃない。

「うん。わかった」

 施設の生活のこととかいろいろ聞いてきたけど、本当に伝えたかったのは面会のことだけだったのか、お母さんはそれを話し終えると「じゃあね」と電話を切った。



 ***



 九月十五日。先月の電話の数週間後に面会の正式な予定を報されて、事前に聞いていたとおり九月の土曜日に会えることになった。

 今日がその面会日なわけだけど、ボクは朝からなんとも言えない落ち着きのなさで、朝四時に目が覚めてしまったり、箸立てに手の甲をぶつけて箸をまき散らしてしまったり、ご飯にかけようとしたふりかけを何を思ったかお味噌汁に入れてしまったり……。ゼンくんや珍しく朝から起きていたヒノデくんにはもちろん、普段かなりぼーっとしているランくんにすら心配されてしまう始末。

「具合悪いのか?」

 ヒノデくんがボクの顔をのぞき込む。すごく気にかけてくれていることが表情からわかる。

「大丈夫。ちょっと……いや、かなりぼーっとしちゃってるだけだから」

 不器用な苦笑を浮かべてそう言えばヒノデくんは「なんかあったら迷わず頼れよ」とボクの目を見て言った。



 ***



 心ここにあらずのまま迎えた午前十時。ボクは玄関の前でゲームをやりながらお母さんを待っていた。

 今日という日を待ち望んでいた数ヶ月前のボクに「今はあんまり楽しみじゃない」なんて言ったらどんな顔をするだろうか。

 寮の前の駐車場に車が入ってきた音が聞こえた。玄関から外を覗けばタクシーが一台施設に入ってきたところだった。きっとあの中にお母さんが乗っている。

 ボクは立ち上がって職員さんに「お母さん来たみたい」と言いに行った。今日の当番の職員は玄関前でボクと一緒にお母さんを出迎える準備をする。

 タクシーから降りてきたのはちょっとだけ身なりに気を遣ったんだろうなぁってなんとなくわかる服装をした母で、別に適当な服でもいいのになんて思いながら慣れない様子できょろきょろあたりを見渡すその人に手を振った。

「おはようございます」

 職員が母に挨拶をした。母も深くお辞儀をしてそれに応対する。ふたりが軽く会話をしているのをなんとなく聞き流しながら「ゲームしまってくる」と言い残して自室に行く。

 部屋にヒノデくんの姿はなかった。多分珍しく体を起こして食堂でみんなとお喋りでもしているんだろう。

 ちょっとだけヒノデくんと喋りたかったな、なんて思いながら、ボクは母の待つ玄関へ再び足を向けた。



 ***



 ボクたちは母が乗ってきたタクシーにそのまま乗り込んで街の方を目指す。田舎らしい風景が徐々に都会らしさを帯びてきて、建物の高さや交通量も変わってくる。

「どこ行くの?」

「ゲームを買いに行こうと思って。宙はゲームが好きでしょう?」

 ボクは目を輝かせる。たしか一時保護される前くらいに好きなゲームの新作が発売されたはずだからそれを買ってもらおうかなとか、それとも中古ゲームを二本くらい買ってもらっちゃおうかな……とか、想像するだけでうきうきした。

「宙はほんとうにゲームが好きね」

「うん!」

 お母さんはどこかほっとしているように見えた。何に安堵したのかはわからないからそれはボクの思い違いかもしれないけど。

 ゲームや漫画が置いてあるお店に到着したボクとお母さんは一緒に店内を見て回った。

「ゲーム売り場はあっちだって」

 お母さんが指さした方へボクはずんずんと進んでいく。

 一つ一つ、気になるタイトルを手に取って値段を確認して、新作のゲームはやっぱり高いな……とか、あ、このゲームもいつの間にか新作が出てたんだ……とか、このゲームたしかランくんも持ってたから通信できるかも……とか、いろいろ考えながら物色する。

 とてもとても迷った末にボクはランくんと通信できるソフトを手に取った。

 お母さんに「これがほしい」と伝える。すると一個でいいの? と聞かれる。その意味がうまくくみ取れなくて、ボクは一瞬ぽかんとする。

「もう一個買ってもいいよ」

「え!? でも……」

「施設に入ってから買ってあげらなれてないから。もう一本くらいならお金あるし」

 お母さんは鞄の中から封筒を取り出す。銀行の名前が書かれた真新しいそれから察するに今日の面会前にわざわざお金を下ろしてきたのだろう。

 ボクは頭の中でぐるぐると思考を巡らせた。お母さんは買って良いって言っている。でもゲームソフトなんてそんなに一度に何本も買ってもらうもんじゃない。だけど買ってくれるならほしい。でもでもそんなに一気買ってもらっても積んじゃうだけだと思う……。

「…………やっぱり一個でいい」

「どうして?」

「面会はまたできるんでしょ? 別のソフトはそのとき買ってもらえばいいかなって」

 お母さんはちょっと寂しそうに「そう……」とだけ言ってボクからゲームソフトを受け取るとレジでお会計を済ます。

「ほんとうに一個でいいの?」

 もう一度ボクに問うお母さんに「うん」と頷いて返す。そうすれば「じゃあ次の面会のときもゲーム屋さん来ようね」と母は言った。



 ***



 ゲームを買ってもらって、お昼ご飯にハンバーガーを食べて、新しい洋服も買ってもらった。洋服を買うときにあれもこれもとカゴに入れるお母さんに「そんなに買わなくていいよ」って言うとそのたび寂しさとか哀しさを含んだような顔をするものだから、ボクも強く言えなくて、結構な量を買ってもらってしまった。

「秋服は春服と兼用できるものがほとんどだから多く買っても問題ないでしょう?」

「とはいっても買いすぎじゃないかな?」

 洋服が入った大きな紙袋二つを一個ずつ手に提げてボクは寮に帰る。そこへ丁度食堂におやつを取りに行っていたらしいヒノデくんとランくんが通りかかる。

「あ、ソラおかえり!」

「ただいま~」

 ヒノデくんはボクのお母さんに軽く会釈をしてランくんにも「挨拶しなさい」と促す。ランくんは言われたとおり素直に「こんにちはー」とヒノデくんと同じように会釈をする。

 ボクはお母さんに彼らを紹介するため「同じ寮の――」と言いかけて口が止まる。

 彼らはボクにとってのなんだろう? 家族? 友達? それともとても仲が良い他人?

 ボクが固まっている間にお母さんは「同じ寮の子なのね。宙がお世話になってます」と少し困り顔で微笑んで、そしてそのまま二人に問いかけるように「あの、宙は、みんなと仲良く良い子にできてますか?」とこぼす。

 ランくんは首を傾げて「仲良いし良い子っすよ?」となんでもないように答える。ヒノデくんもそれに頷いて「はい。俺同じ部屋ですけどいつも良い子で優しい子ですよ。真面目ですし」とにこやかに言った。母はまた困り顔で微笑むと「そうですか」と言って会話を終える。

 それから寮にちゃんと戻って、大荷物を見た職員さんに買った物を報告して「次はもうちょっとお買い物は控えめに」と注意を受けた後お母さんはまたタクシーで帰っていった。

「ソラは」

 自室で今日買ってもらった服たちを畳んでしまっているとヒノデくんがベッドの上から声をかけてくる。

「実家だと良い子じゃなかったのか?」

「どうしてそう思うの?」

 質問に質問で返すと「なんとなく?」と曖昧な返答が寄越される。

「…………わかんない。お母さんも含めて他人と関わることがあんまりなかったから。でも『この場面良い子だったなぁ』って思う部分より『この場面悪い子だったなぁ』って思う部分の方が多かったから、多分悪い子だったと思うよ」

「お母さんは他人なんだな」

 ヒノデくんが言っている意味が理解できず、ボクは「え?」と聞き返す。

「親御さんに俺とランを紹介するときなんて紹介しようか迷ってただろ?」

「……なんだ、伝わっちゃってたんだ」

「まぁ俺そのあたり察しがいいので」

「…………お母さんは他人だよ。最低限の物を買い与えてくれる他人」

「ソラがそう言うならそうなんだろうな」

「多分だけど、昔のボクならヒノデくんのこともランくんのことも他人って言えたと思う」

「今はきっぱりそう言えないのか」

「言えない。関わりが深すぎる。寮のみんなのことボクは友達以上だとは思ってる。でも家族と同等かそれ以上か、もしくは以下かってなるとわからないんだ。っていうか、家族ってなんだかわからない。お母さんはご飯を買うお金もゲームを買うお金もくれたけど一緒に食卓を囲んだり遊んだりすることはなかったし、会話もほとんどなかった。どこかで誰かが決めた家族とは違う。お母さんと比べたら寮のみんなの方がよほど他が決めた家族をやってる」

 俯いてヒノデくんの方を見れないままボクは胸の内をこぼす。

「でも、お母さんにみんなのこと『ボクの家族』って紹介したら、そうしたらお母さんはどうなっちゃうんだろうって思ったら言えなかった」

「そっか。おまえは本当に優しい子なんだなぁ」

 ボクの後頭部にヒノデくんの誠実そうな声が当たる。

「それでいいんだよ。おまえが考えて『言った』ことも『言えなかった』ことも『わからなかった』ことも、それを肯定するやつがいても否定するやつはここにはいないんだから」

「否定されなければそのままでもいいってことはないよ。肯定されてもダメなものはダメ」

「そうかな? 本当に大事なのは『肯定されようとダメなものはダメ』ってことじゃなくて『否定されても己を許したり、そのままを認められる』ことだと思うよ、俺はね」

 そこまで言ってヒノデくんは「まぁ禅問答はこれにて終了ってことで!」と話を打ち切る。

「ソラ、服しまい終わった? じゃあおいで。甘い紅茶でも飲もう。頭使ったし喋って喉も乾いただろ?」

 ロフトベッドのはしごを下りてきて部屋の出入り口を開けてこちらへ手招きをする彼はボクを見つめながら口を開く。

「俺も家族とか、よくわからん。っていうかここに住んでるやつは大体そう」

 そしてくしゃりと笑いながら

「それでもおまえらみたいな家族がいたら最高だって思って暮らしてると思うし、そうであってほしいって願っちゃうと思うんだよなぁ」

 そう言って眼鏡の奥の目を細めた彼はボクの脳にただ眩しく鮮明に焼き付けられた。



一覧に戻る