第7話
八月八日。夏休みの雰囲気にもすっかり慣れたころ。昼食後、ボクはゼンくんと一緒に食堂のテーブルで宿題に励む。進みは上々だけどボクは小学四年生くらいから学校に行っておらず、施設に入って中学校に入学するまでずっと不登校だったから夏休みの宿題自体がかなり久しぶりで、そのなかなかの大変さに結構嫌になったりもした。
「ちょっと休むか……」
そう言ってゼンくんが大きく伸びをする。ボクもシャーペンを置いて息を吐きながらずっと俯いていて凝り固まった首を回してほぐす。
「なんか、体動かしたいよな……」
ぼそりと呟いたゼンくんは窓の外の晴天に目を向ける。視界に広がるのは雲一つない眩しい青空。やけに高く見える空をふたり揃ってぼーっと眺める。
日を浴びていると廊下からとたとたと小走りをする足音が届く。ボクたちは視線を空から足音の方へ。
ガラスの張られた引き戸の奥になにやらヘンテコな格好をしたランくんが見えた。足音の正体である彼はガラスの向こうからボクたちを見るとやっと見つけたというような笑みを浮かべてガラガラと引き戸を開ける。
「ゼン! ソラ! プール! 行こ!」
頭には水泳ゴーグル、体にはラップタオルを巻いてもう準備万端といった様子のランくんは大きな声でボクたちにそう言った。
「行こう!」
もう一度そう言ってボクとゼンくんの手を取る。ボクはゼンくんを見た。彼は「ちょうど運動したかったところ」とランくんに笑いかけている。
「ソラは?」
「ボク学校用の水着しか持ってないんだけど普通のは倉庫から出してもらえるのかな?」
「職員に言えば出してもらえるよ。俺の水着もしまわれちゃってるだろうから一緒に出してもらわなきゃだし」
「そっか。じゃあボクも行こうかな」
ボクの返事を聞いたらランくんはやったー! とすごくうれしそう。
それからボクたちは各々水着に着替えて小学生たちやイブキくんと一緒に以前ゼンくんに説明してもらった施設内のプールへ向かった。
「高校生はイブキくん以外あんまりプールに入らないんだね?」
「ヨリトくんとヒノデくんはプールに入るところ見たことないけどミズキくんはわりと入る方だよ。誰かと遊ぶわけじゃなくてひたすら好きに泳いで満足したら帰るって感じだけど」
ランくんは「ヒノデくんもヨリトくんも意外に泳げなかったりするのかもねぇ」とのんびり言いながら小走りでシャワーに向かい体を洗い流しに行く。
「俺このシャワーで滝行ごっこするの好き。ゼン、俺構えるからシャワー出して」
そう言うとラン君は両手を合わせて足を肩幅に開いてシャワーの下に立つ。
「冷たい水で心臓止まっても知らないよ」
そう言ってゼンくんはハンドルをひねって水を出す。シャワーから勢いよく吹き出した水がランくんの肌に当たる。
「アァ! 冷たい! まじやばい冷たい! あと若干痛い! ゼン、ソラ気をつけて!」
すぐさま滝行のポーズをやめて冷たい冷たいと騒ぎながらプールサイドへ逃げるように進んでいくランくんにボクとゼンくんは「気をつけてって言われましても……」というような視線送る。
ボクもゼンくんもさっとシャワーの水を被ってさっと退く。冷たい水に濡れた体に風が当たるとかなり寒い。
「シャワー浴びてから水に入るまでが地獄だよな。早く入って水温に慣れたい」
「うん、日光の暑さ以上に風が冷たいね……」
ゼンくんとそんな話をしているうちにランくんは職員に入水許可を取ってきたらしい「はやく入ろう!」と言ったかと思えばいの一番にプールへのはしごを下りて行く。
「ア! プールの水もめっちゃ冷たい!!」
「まぁ慣れたら水中に方が温かくなるからそれまでの辛抱だな」
そんなゼンくんとランくんの会話を聞きながらぼくは周りの小学生たちに目を向けた。あちらではイブキくんが水底に撒いたキラキラな石をみんなで探して水中から拾い集める遊びをしていた。
夏休みも年下たちの世話を焼いていて「イブキくんは本当に面倒見がいいねぇ」なんて話しているとボクたちの視線に気がついたらしい彼は対岸からこちらに声をかけてくれる。
「中学生トリオはこれからなにやんのー?」
ボクたちがいるのとは反対側のプールサイドにいる彼は大きな声でそう問うた。その問いにボクたちは一度三人で顔を見合わせ視線で「なにをやるはずだったんだっけ?」「なんか決めてたか?」「なにも決めてないね」とお互いにプールでの予定を一切決めていなかったことに気がつく。
「えっと……なにやろっかなぁ~って……」
どうにも歯切れの悪い返答だったがイブキくんはなんとなく察してくれたらしい。そしてボクたちに提案するように「うきわとか、ビーチボールとかならあるけど」と教えてくれる。それを受け「じゃあ水中ビーチバレーしようよ」と発したのはランくんだった。
「ビーチボール使うなら今から空気入れてやるからちょっと待ってて」
爽やかな笑みでそう告げると彼は倉庫の方へ歩いて行く。今日も変わらずイブキくんは幼児や小学生よりも大きいボクたちに対してもお兄さんとして接してくれるらしい。
しばらくしてパンパンに空気の入ったビーチボールを携えイブキくんは戻ってきた。ボクたち三人の方に向けてボールを軽くトスすると狙いぴったりにボクの手に収まる。
三人揃って「イブキくんありがとー!」と手を振ると彼も小さく手を振り返してくれた。
「イブキくんはプールには来るけど水には入らないんだね?」
「ああ、弟たちが危ないことしないように見に来てるだけっぽいよ」
「アイツ器用じゃないから監督しながら遊べないんだろ」
不意にゼンくんともランくんとも違う声が降ってきてボクは後ろを振り返った。それは他の二人も同じだったようで勢いよくボクの背の方に顔を向ける。
「監督なんてのは職員に任せて好きに泳げっつーの。面倒なこと背負ってなにが楽しんだか」
そこにはイブキくんへの愚痴をこぼすミズキくんがいた。
「ミズキくんもプール入るの?」
「ああ、今日はしらあいが貸し切ったらしいから自由に泳げる」
そう言って軽く準備運動をした彼ははしごを降りて水に入る。そういえばボクたち準備運動サボったな……なんて思いながら意外に真面目なミズキくんの様子を眺めた。
ミズキくんはど真ん中のレーンに立つとゴーグルを付ける。小学生達はミズキくんのいるレーンを避けるように端へ寄り、ボクたちも同じくミズキくんの邪魔をしないように端の方へ場所を移した。
ミズキくんはそれからクロールをしたり平泳ぎをしたり背泳ぎをしたり、バタフライをしたかと思うとまたクロールをしたり……自由にいろんな泳法をしていた。ボクは水泳に関して完全に素人だからフォームがどうとかスピードがどうとかは一切わからないけれど水に触れているミズキくんはとても活き活きとして見えた。ボクは普段のちょっと怖いミズキくんより今の水と戯れているミズキくんの方が好きだなぁなんて思った。
一通り泳ぎ終わったらしくプールサイドへ上がろうとするミズキくんの元へひとり少年が寄っていく。あれはイブキくんちの三男くんだ。
「ミズキくんがさっきやってたの教えて!」
「どれ」
「両足と両手で泳ぐやつ!」
「両足と両手使わない泳法とかねぇけど多分珍しいところでいったらバタフライか?」
彼はそう言うとまた水中に戻って25mプールの半分ほどを飛沫をあげながらバタフライで進む。
「これか?」
「それ! やりたい!」
「じゃあまず手の動きとドルフィンキックのやり方とタイミングだけど――」
そういって彼はテキパキと動作を教え込んでいく。一時間ちょっとの間に三男くんはみるみる内に上達し、完全マスターとまでも言えないがなんとかそれっぽい動きができるまでになっていた。
三男くんは兄弟以外にも今しがた出来るようになったバタフライを見せびらかす。そうすると他の子もミズキくんに「教えて!」とねだりに行く。ミズキくんは「二人ずつくらいしか見れないから順番な」と困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「ミズキくんすごい! 水泳の先生だね!」
「俺は先生ってタイプじゃねーよ。適切な言葉を使うならインストラクターだ」
小学生たちにキラキラした眼差しを向けられたまま褒められてミズキくんはぶっきらぼうに照れている。ミズキくんの珍しい一面にああいう怖くない顔をしたりもするんだなってボクはなぜだかうれしくなっていた。
「ミズキくんはいつもああやって水泳のこと教えたりしてるの?」
ボクの質問にランくんはぶんぶん頭を横に振る。
「ないない! 絶対ない! っていうか教えを請う子がいないよ! 今日のはまじレア」
「ランくんの全否定は置いておくとして、まぁ普段怖いからやっぱり「教えて」って言いにいくハードルが高いぶんあんまりない光景だな」
そんなに珍しいことなのかとボクは少し驚いた。すごく教え慣れている感じがあったから、日頃から教える立場につくことが多いのかなって思ったけどそんなことはないみたいだ。
「ランくんゼンくんソラくん!」
じゃばじゃばと水の中を歩きながらボクたちの元にやってきたのはイブキくんちの三男くんだった。どうやらボクたちにも覚え立てのバタフライを見せにやってきたらしい。
ボクはこちらにやってきた彼に質問を投げかける。
「どうしてミズキくんに泳ぎ方を教えてもらおうと思ったの?」
「最初はね、兄ちゃんに教えてってお願いしにいったんだけど「俺にはできない」って言われちゃって、ミズキくんなら教えられると思うから頼んでみなって言われたの」
「よくそれで「よし頼みに行こう!」ってなったね。怖くなかった?」
「うーん、いつものミズキくんは怖いけど、水に入っているときのミズキくんは不思議と怖くなかったんだよね。なんか優しそうに思えたんだ。だから声かけられたんだと思う」
ボクはまだバタフライ教室を開いているミズキくんの方を見た。笑顔で指導する姿はたしかに普段の怖い感じではない。
「ミズキくん、いつも水の中にいるときくらい優しかったらいいのになぁ」
ランくんの言葉にボクとゼンくんは否定も肯定もしないまま、ただ飛沫の向こう側にいる優しげなミズキくんの姿を見ていた。