第3話
四月四日。朝食を終えて使った食器を台所の流し場に持って行こうと各々席を立ち始めたとき、職員の沢田さんが「そうそう」と思い出したようにその場にいるみんなに声を掛けた。
「今日のお昼くらいにミズキが帰ってくるから」
ミズキくん――ボクはまだ会ったことのない、悪いことをして児相に〝強制送還〟されているという今年高校一年生のお兄さん。噂しか知らないけれど、なんだか怖そうなイメージが勝手についてしまっている。そういう『偏見』って良くないよなぁと思いながら食器を持って席を離れようとするゼンくんとランくんに寄っていく。
「あの、ミズキくんってどんなひと?」
ボクの質問を受けた二人は揃って苦い顔をした。そしてうーんと悩むゼンくんより先にランくんが口を開く。
「ふつうにこわいひと」
「ふつうにこわい……」
ボクの復唱にランくんはこくりと頷く。
「具体的になんて言えばいいかわかんないけど、実際にふつうにこわいひとではあるから意味としてはランくんが今言ったそのまんま受け取っていいと思う」
彼らの言う「ふつうにこわい」の「ふつう」とはなんだろうと考えるボクを置いてゼンくんは「じゃあ俺は行くから」とそそくさと食器を片付けに行ってしまう。その後ろ姿を見送っているとランくんが小さく口を開く。
「あー……ゼンはさ、ちょっと前までミズキくんと同室だったんだけど、そのときに若干のゴタゴタがあって、そんでミズキくんに怯えている節があんの。だから早く話を切り上げたかったのかもしれない」
「そんなんだ……じゃあ悪い質問しちゃったかな……」
「まぁ、うん。でもオマエがここ来てから数日間いなくて、でも突然戻ってくるって報されたら気になるのはあたりまえだと思うし、気に病むことはないと思う」
ランくんはそれだけ言うと「じゃあオマエも食器さっさと片しちゃえよ~」と言って流し場へ向かう。二人の言うことをしっかり真に受けてしまったボクは件の『ふつうにこわいひと』に目を付けられてしまったらどうしよう……と早くもびくびくしながら彼らに続いて食器を片付けた。
***
お昼ご飯を食べている最中もそろそろかな……とそわそわしていたけど結局ご飯を食べている間にミズキくんは帰ってこなかった。それから刻々と時間は過ぎ15時ちょっと前くらい。ゼンくんに連れられて調理棟へおやつを取りに行って大量のスナック菓子を持って戻ってきたとき、しらあい寮の玄関先にスーツを着たおじさんとおばさんが入っていくところに居合わせた。おそらく片方がミズキくんのケースワーカーで、もう片方が心理士なんだと思う。
ゼンくんもそれを察したのか顔がちょっとだけ緊張でこわばっている。ランくんが言っていたとおりきっと彼は怯えているんだろう。
「えっと、どうする? もうちょっと外いる?」
「いや、おやつ持ったままうろつくわけにもいかないだろ。はぁ……」
大きめの溜め息を吐いたあと意を決したようにボクの前を行くゼンくんの後を追ってしらあい寮に入っていく。
靴を脱いで廊下にあがったとき、丁度良く沢田さんが職員室から出てきたところだった。
「あ、おかえりなさい。今から職員室使うからおやつの名前書き食堂でやってもらってもいいかな? 今日からミズキの分もあるからよろしくね」
二人揃って「はい」と素直に返事をして食堂に向かう。ゼンくんの顔色はさっきよりマシになっていた。ミズキくんとのエンカウントを避けられたことに安堵しているみたい。
「おかえり~」
ランくんはゆるゆるとしたお出迎えもほどほどにゼンくんの持つアルミトレーの中のお菓子を漁る。
「俺の分は――って、あれ? まだ名前書く前じゃん」
「これからだよ。職員室使えないから食堂で書いてって言われた」
「なんで職員室使えないの?」
「まだ本人を見てないからわからないけど、たぶんミズキくんが帰ってきた」
ランくんは「あー……それはそれは……」と同情するようにゼンくんを見つめている。同情の視線を浴びながらゼンくんはちょっと肩を落として「まあ……うん。とにかくおやつに名前書くよ」とテーブルにトレーを置いてテレビの隣に置いてある油性マジックで幼児の分から順に名前を書いていく。ボクはゼンくんの手によって手際よく書かれていく名前を見ながら頭のなかで名前とその子の顔を一致させていく練習をしていた。
幼児から始めて小学生、中学生、そして高校生の分まで名前を書き終えたゼンくんはペンの蓋をしっかり閉じると申し訳なさそうな眼差しでボクを見た。
「な、なに? どうしたの」
「名前の書かれたおやつは職員室に置くことになっている。これは勝手に他人の分まで食っちゃうやつがいるかもしれないための処置だ」
「うん。しらあいに来てからの数日間でそれは覚えたよ」
「いま職員室ではミズキくんの引き受けについて話し合いがされてる。無論、そこにミズキくんも同席しているはず」
「うん……、えっと、つまり……?」
「俺の代わりにこのおやつの山を職員室に持って行ってくれ……頼む、一生のお願い……」
両手を合わせて頭を下げるその姿にボクはあわあわする。こんなゼンくん初めて見た。そもそも彼と知り合ってからの日はめちゃくちゃ浅いのだが、そういう話は置いておくとして。
でもゼンくんにはしらあいに来てからの数日間とても、それこそ同室のヒノデくんくらいお世話になった。その恩返しになるのならボクはここでこの頼みを引き受けるべきだろう。
「わかった。行ってくる」
さっきまで俯いていたゼンくんの顔がぱっとあがる。「すまん……すまん……ほんとうにありがとう……礼は必ずする」そう言ってまた深々頭を下げる彼からおやつが大量に載せられたアルミトレーを受け取って、ボクは緊張した足取りで食堂から職員室へと進む。
ボクが職員室に着いたとき丁度良くその引き戸が開き先程玄関先で見かけたおじさんとおばさんが出てきた。鉢合わせたボクに向けて「こんにちは」と挨拶をしてくれた二人にそっと会釈を返す。二人はそんなボクに微笑むと玄関で靴を履きそのまましらあいから出て行った。どうやらミズキくんに関する話し合いは終わったらしい。
ボクは気を取り直して先程閉められたばかりの職員室の引き戸を足で開ける。踏み入った中には職員さんと今日の遅番の大塚さん、そして長い脚を組んで椅子に座っているタレ目のお兄さんがいた。
「おやつの名前書いてきました」
そう言って手近にいる大塚さんにトレーを渡す。その間もタレ目のお兄さん――おそらくミズキくん――から刺すような視線を感じる。その視線は心なしか鋭く結構痛い。
「誰?」
ミズキくんが言った。それに答えたのは大塚さんだった。
「ミズキが留守にしてる間に入った栢山宙くん」
「ふーん。何年?」
ミズキくんがボクに聞く。視線はまだボクを貫いている。
「今年中学一年生です」
「ゼンと一緒か。何室?」
「七室です」
ボクのその返事にミズキくんから何か返ってくることはなく、静かに瞬きをすると彼はボクから視線を外した。
ヘビに睨まれたカエルみたいに固まっていた身をそーっと動かして彼らから背を向け、ボクは職員室から出ると音を立てないように引き戸を閉めた。
「ソラ、大丈夫か?」
ボクの名を呼ぶひそひそ声の方へ顔を向けると丁度三室と四室の間くらいにある廊下の曲がり角でゼンくんとランくんが心配そうにボクを待っていた。
「うん。大丈夫」
「なんか言われなかった?」
「何年生? とか何室? って聞かれただけだよ」
ボクの返答に「ならよかった」とゼンくんが胸をなで下ろす。
「特に怒鳴ったりしてたわけでもなさそうだから杞憂でよかった……」
「ソラが行ったあとコイツずっとそわそわしてて「俺のせいで怖い思いしてたらどうしよう」とかめちゃめちゃ心配してたんだよ」
食堂への道を行きながらそんな話をされ、ボクは「ミズキくんはそんなに怖いエピソードがたくさんあるの?」と訪ねてみた。それにゼンくんは口をつぐんだがランくんは「〝不良エピ〟なら結構あるんじゃないかな」と言っていた。
「タバコ持ってたとか酒飲んでたとか無断外出に無断外泊とか」
「暴力とかは?」
「あー壁殴ったり怒鳴ったりとかはあるけど直接誰かを殴ったりとかはないかな」
本人のなかで線引きみたいなものは一応されているのかな、なんて思いながらボクはまた二人に聞く。
「まぁたしかに怖い感じはしたけどゼンくんはどうしてそんなに怖がっているっていうか怯えているの? 前は同室だったみたいだけど……」
「……………………ミズキくんの勘違いでめちゃくちゃシメられたから……」
「勘違い?」
「あー、ミズキくんの物がなくなったんだ。「部屋から持ち出すわけない」って言って、それでゼンが盗んだって言いがかりつけてさ。結局よくよく探したらミズキくんのベッドの隅に隠れてたんだけど、それでも「問題になった後にゼンが隠した」って言って謝らなくて」
「別に謝られなかったことはいいんだけど、俺は無実で、向こうの誤解で、なのにめちゃくちゃに怒鳴られたりとか怖いだろう? それがあったから俺はイブキくんのいる四室に移動になったってわけ」
「なんていうか、同情しちゃうかな……」
「でもミズキくん以外の年上たちが全員こっちについてくれたりどうしようもなく不遇だったわけじゃないよ。今でもミズキくんにはトラウマ級に怯えてるけど」
***
晩ご飯の時間になり今日も全員で食堂のテーブルに着席。いつもと違うのはボクの向かいにミズキくんが座っているということ。
全員で「いただきます」を済ませて各々箸を動かす。ゼンくんはミズキくんと同席してまたちょっと緊張しているみたいだけどかろうじてご飯は喉を通っているみたい。
改めてちらりとミズキくんを見た。彼は椅子に斜めに腰掛けて脚を組んだ状態でテレビを見ながらご飯を食べている。こっちには特に注意を向けたりはしていないようだ。
不良エピソードが多くて、ゼンくんにもランくんにも怖がられていて、児相に〝強制送還〟されていたミズキくん……。ボクはこれから彼とも生活していくことになるわけだけど、なにも大きな事件が起きなければいいなぁと思うのが今できることのすべてだった。