第2話
四月二日。無事に目が覚めた。隣のロフトベッドにはまだ布団をかぶって眠っているヒノデくんの姿があった。
今は何時だろう? そういえばこの部屋には時計がない。部屋の外はまだ静かだし緊張で早く起きすぎてしまったのかもしれない。ボクはベッドから降りて窓に近づくとほんの少しだけカーテンを開けた。隣の寮との間に見える空の色から推測するに、たぶん朝の六時あたり……な気がする。
ご飯はみんなで食べるって言っていたからきっとここも一時保護所と変わらず七時とか八時くらいが朝ご飯の時間なんだろうけど、朝の掃除とかもあるのかな……。これはもうトイレに行くふりをしてだれかに聞いたほうが早いかも。
ボクはもう一度ヒノデくんの方を見た。――うん、やっぱりぐっすり眠っている。声をかけてわざわざ起こすのは悪い。彼を起こさないように、ボクは七室から静かに出た。
ひとまずトイレに行ったボクは洗面所で手を洗っている。流れる冷水で手が濡れるのを感じながら、さて次はどうしたものかと考えつつ蛇口を閉めた。
「あ、タオルがない」
きょろきょろとあたりを見回してみてもやはりそれらしいものはない。しかたがないとボクは手を数回振って水気を飛ばす。そんなとき視界の端に人影が見えた。
「わっびっくりした――おはよう」
彼のほんの少し驚いた声にボクの方も驚いてしまって、小さく肩を揺らす。手をぱたぱたさせるのを止めて、ぎこちなく「おはよう」を返した。
「朝早いんだな」
「まだ慣れてなくて目が覚めちゃって……えっと、きみも早いね」
「ああ、昨日は寝るの早かったから目が覚めるのも早かっただけ。――あ、まだ名前覚え切れてないよな? 俺、ゼン」
ゼンくんはボクの手をちらりと見てから「タオル、洗濯に出ててタオル掛けになかったらそこの棚から出して、適当にこのタオル掛けに引っかけておけば大丈夫だから」とお手本を示すように棚から白いタオルを出して洗面台に備え付けられたタオル掛けに引っかける。
「あの、」
「うん?」
「朝ご飯って何時?」
「土日とか休みの日は八時。学校ある日はたぶん七時くらいには食べてないとダメかも」
「そっか。あと朝の掃除とかってある?」
「あーなるほど。まだ一時保護所の生活が基準になってるもんな。掃除はないよ。顔洗ったり歯磨いたりも特に職員の監督があるわけじゃないし、別にサボっても誰も何も言わない」
「そうなんだ。ありがとう」
よし。これで当初の目的は果たせた。
おずおずとゼンくんの顔色をうかがいながら七室に向けて歩き出そうとしたボクに「部屋戻るの?」と彼は声をかけた。それにうんと頷くと続けて「なにかやることあるの?」と投げかける。彼からの問いに正直に首を横に振る。
「ヒノデくん寝てるでしょ?」
「寝てるね」
「二度寝するなら別だけど、ヒノデくんは昼頃まで寝てることが多いから部屋はあんまり落ち着けないかも。たぶんもう鍵空いてると思うし食堂にいなよ。俺ももう起きてそっちでテレビ観るつもりだし」
ゼンくんは黙ってボクの返事を待っている。ツリ気味の目には結構目力があって、ボクはちょっとだけ怖じ気づきながら、「じゃあ、そうする」と小さく頷いた。
***
それからしばらくして目を覚ました小学生達がぞろぞろと食堂に入っては「おはよー」と挨拶をしてくれる。おはよーの束に向けて一言「おはよ」と返すゼンくんにならって、ボクも小さく朝の挨拶をしていく。挨拶を終えた小学生はてきぱきと朝ご飯の準備を行っていく。
「ソラくんのお茶碗これだよね? ご飯どのくらい食べる? 少なめ? 多め?」
「え、えぇと」
「待て待て、まず普通の基準を説明しておかないと少なめも多めも伝えづらいだろ」
ゼンくんは貸せ、とお茶碗を持っていた小学生からそれを受け取るとボクの茶碗にしゃもじ一杯と追加で少しのご飯を盛った。今盛られたばかりのホカホカしたご飯をボクに見せて「これがしらあいのご飯普通盛り。少ない、丁度、多い、どれ?」と問う。ボクはもう一度茶碗の中身を確認して「丁度」と答えた。
ゼンくんはさっきの小学生にご飯のよそわれた茶碗を見せて「これがソラの丁度だって」と伝えている。その様子に興味が湧いて「きみはみんなのご飯の量を覚えているの?」と聞いてみれば、「中学生も高校生も自分でご飯をよそうからオレは小学生の分しか覚えてないよ! でもソラくんはきたばっかりだからよそってあげないとダメかなって思ったんだ」
そうか、要するに『新入りだから世話を焼いてもらえた』というところだろうか。
ゼンくんによそってもらった茶碗を受け取り昨日決まったボクの指定席に置く。目の前でゼンくんが箸立てから自分の箸を抜き出して席の前に置いたのを見て、ボクも真似するように同じく昨日決まったボク専用の白い箸を手元に置いた。
寮のご飯は一時保護所と同様お皿に盛り付けされた状態で食堂まで届けられたり各寮で取り分けたりまちまちのようだ。あとで職員さんに聞いてみれば、玄関に置いてある銀色の二層台車はみんなのご飯を給食室から運んでくるためにあるらしい。「ソラも慣れたらたまに手伝ってくれると助かるかな~」と職員の大塚さんは微笑んでいた。
いただきますを済ませ朝食の時間が始まる。小学生のテーブルは満席だけど中高生のテーブルにはボクとゼンくんしか着席していない。ヨリトくんなんかは朝が早そうなのになんだか意外だなと思いながらゼンくんに話しかける。
「ねぇ、ヒノデくんは昼まで寝ていることが多いって話だったけどランくんとかヨリトくんとか他のみんなも朝はあんまり起きてこないの?」
「あぁ、ランくんもヒノデくんと同じで朝はなかなか起きてこない。ヨリトくんとイブキくんはむしろ朝いないのは珍しい方だな」
そうなんだ、と相槌を打ちながらゼンくんによそってもらったご飯にふりかけをかける。ボクがたまたま手に取ったふりかけは『さけ味」だった。ゼンくんは『たまご味』だったらしく、引いたふりかけを元に戻して『やさい味』のふりかけに取り替えていた。
口に食べ物を運びつつゼンくんの様子を眺めていたらボソリと「ふりかけ取り替えてたの内緒にしてね。大塚さんは好き嫌いにうるさいから」と小声で釘を刺してくる。ボクは別にそれを告げ口したところでなんのメリットもないから「うん」とだけ返事をした。
「ソラは律儀だな」
「突然どうしたの?」
「ランくんだったら速攻チクってる場面だったから」
「たぶん律儀ではないと思う。告げ口したところでなにも良いことがないからしないだけ」
「じゃあメリットがあったらチクったりすんの?」
少し考えてから、首を傾げつつ「たぶん?」と返答すると。ゼンくんは「意外と薄情なところがあるってことだな」と笑う。
まだまだこの環境には慣れていないからちょっとだけ周りの様子を気にしつつボクは朝ご飯を口に運ぶ。そんなボクにゼンくんはクールに、そして同時に優しく話しかけてくれる。
「緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
「昨日の昼下がりにこっち来てからまだ24時間経ってないもんな。でもきっとすぐ慣れると思う。俺もまだここ来て一年経ってないけどそれなりに気ままに過ごせてるからソラもそのうち大丈夫になるよ」
そういえば昨日もゼンくんはここに来て一年未満って言ってたっけ。
「ここはどのくらいのペースで人が入るの?」
興味本位で聞いてみた。しかしゼンくんは首を傾げながら「わからん」と一言。
「俺の次にソラが入ったから、普段どのくらいのペースで人が入ってるかはわからない」
「あ、そうだよね」
彼の返答にボクは納得を口に出す。しかしゼンくんはそれでもボクになにか教えてくれようとしてくれているのか「ヨリトくんとかならめちゃくちゃ詳しそうだけど……」と呟く。
「ヨリトくんはここに一番長くいるから」
「そういえば昨日ヨリトくん本人もそう言っていたような」
「俺がどうかした?」
ゼンくんに向けていた顔をその声の方へ向けた。椅子に座ったまま右へ首を回すとヨリトくんが立ってボクらのことを眺めていた。
「あ、ヨリトくんおはよう」
ボクもゼンくんに続いて「おはよう」を伝える。
「ゼンもソラもおはよう。で、俺がどうした?」
「ソラに『どのくらいのペースでここに人が入るのか』を聞かれたんだ。でも俺はまだ入ったばっかりでわからないから、ヨリトくんならわかるかもって話してた」
話の流れを理解したらしいヨリトくんはなるほどねと頷いてから「ちょっと待ってて」と残して一旦自分のお茶碗にご飯をよそってからまたこちらに戻ってくる。
「えっと、どのくらいのペースで入寮があるかって話だよね?」
ボクはこくりと頷き「なにかあったとかじゃなくて、ただ興味があるだけなんですけど」と付け加える。
「気になっちゃいけないことじゃないから全然いいよ。と言っても具体的にどのくらいの周期で入寮があるかは決まってないから俺もわかんないんだよねぇ。だから体感の話になるけど、大体一年半に一回って感じが多いかな。でも早いと半年くらいしか経ってなかったりいつのまにか二年以上経ってたり本当にまちまち」
「『一年半に何人』とかじゃなくて『一回』?」
ボクの問いにヨリトくんは良い着眼点だねと微笑む。
「イブキのパターンみたいに一緒に保護された兄弟が同じ寮に入ることもあるから、一回の入寮で二人とか三人とか入ることもあるんだよ。もちろん兄弟別々の寮になることもあるけど。だから『一度に何人』ってのはそのときにならないとわからないんだよね」
「ちなみに俺の前に入ったのはランくんらしい。たしか俺が入る二年前くらいに来たって言っていたような?」
「まぁ寮に空きがなければ入れようと思っても入れられないから学校卒業を機に肉親や里親に引き取られたり自立したりで退所者が出たタイミングで新入りが入ることが多いよ」
「大体各寮二〇人くらいが限界らしい。しらあいも今丁度そのくらいの人数いるはず」
ゼン君はそう言うと小学生用テーブルの人数を数えて「うん、やっぱり幼児と小学生が合わせて十三人、中高生が七人だから合わせてぴったり二〇人」と教えてくれる。ボクはその人数にこれからたくさんの人と住んでいくことになるんだなぁと胸に小さな実感を覚えた。
***
ボクたちが丁度朝ご飯を食べ終えた頃にイブキくんが、そしてイブキくんがご飯を食べ終えてしばらくして十時ごろにヒノデくんが起きてきた。ゼンくんが言うにはイブキくんがこんなに遅いのは珍しいようで、ヒノデくんに関してはむしろ昼前に起きただけ早い方らしい。ヨリトくんも普段より早起きなヒノデくんが気になったらしく「なんで早いの?」と聞いている。
「いやね、被服費が出てるならソラと一緒俺も新しい服を買いに行こうと思って」
「あー昼起きだと置いて行かれる可能性あるからね。いいんじゃない? 服買うのなんて久しぶりでしょ?」
「まぁね」
ヒノデくんはそんな話もそこそこに急ぎ気味に朝ご飯をかき込んで完食すると「そんじゃ俺も準備してくるから一緒に服買いに行くか」とボクに笑顔を向けた。
***
大塚さんに車を出してもらってボクとヒノデくんと数人の小学生は施設の近くに一店舗だけあるという服屋さんへ向かった。
新しい服を買いに来るのなんて何年ぶりだろうと思いながら大量に並ぶ服をきょろきょろと見て歩く。ボクは陳列された服の列の間をあっちへこっちへ。青いTシャツを手に取ってみてはハンガーを元に戻し、今度は黒いチェックのシャツを手に取ってみてまじまじ見つめてからまたハンガーを元に戻す。数分経ってもまだカゴの中が空っぽなボクを気に掛けたのか、ヒノデくんがこちらに歩み寄って声をかけてくれる。
「気に入るのないか?」
「あ……えっと、なんていうか、何買って良いかわからなくて……」
「被服費は一万円くらい使えるから予算内なら何買っても怒られないけどきっとそういう話じゃんないんだよな」
「うん……」
「よしじゃあ今日のところは一緒に決めよう。自分で選択や決定をするのは後々慣れていけば良いよ」
優しくそう言って、ヒノデくんはボクに好きな色や柄なんかを聞く。
「色は青が好き。薄い色はあんまり着たことがないから濃い色の方が着やすいかもって思う。柄は詳しくないからよくわかんない」
「そうか。じゃあ俺がコーディネートしてやるよ。とりあえずさっき見ていた青いTシャツは似合いそうで良い感じだったからあれは買おうな。そんでもって上にこのシャツを重ねても良いと思う」
ヒノデくんは次々服を手に取るとボクの首から下にあてて確認して、しっくりきた服があると値札を見て、それからどういう組み合わせ方をしたら良いか指南するように説明をし、その説明にボクが頷いたのを確認してから「じゃあこれ買うか」とテキパキとカゴに入れていく。
あっという間に予算に丁度良いくらいの服を選び終えた彼はボクを連れてレジへ向かう。
「会計のときに領収書をもらう必要があるからそれだけ覚えておくように」
そう言って領収書のもらい方や宛名に書いてもらう名前についてなど教えてくれた。
「はい買い物終了! それじゃあ小学生達は先に車戻ったみたいだから俺らも戻ろっか」
「うん! あの、服選んでくれてありがとうございました」
「どういたしまして。でも次は自分で頑張ってみような」
春の陽気と同じような暖かな笑みをボクに向け、彼は帰ろうと手招きをした。
***
「ただいまー……ってみんな食堂か。時間的に丁度昼飯中だもんな」
大塚さんの「洋服しまうのは後にしてご飯食べちゃいなさい~」ってゆるい声に従って、ボクたちお買い物組は荷物を部屋に置いてすぐ食堂へ向かう。
食堂に入ると残っていた小学生たちが元気に「おかえり」を言ってくれた。それに「ただいま」を返して自分の席を見る。ボクとヒノデくんの席の前にはすでにお昼ご飯の焼きそばが用意されてラップが掛けられていた。
「おかえり。良いもん買えたか?」
ゼンくんがボクに問いかける。隣のランくんはテレビに夢中のようだ。
「ほとんどヒノデくんに選んでもらっちゃったけどおかげで良い物しか買ってないよ」
「ヒノデってコーディネートとかできるの? なんか服に関心寄せてるの意外だなぁ」
ヨリトくんがヒノデくんに聞く。それに「えぇ? 別に関心があるわけじゃないけど俺だって服一式選ぶくらいできますけどー?」と不服そうだ。
「いや、もうすっかりヒノデは年がら年中グレースウェットのイメージだからさ」
笑いながら「貶しているわけじゃないよ?」って弁明しているヨリトくんの発言が気になってボクは二人の会話に入っていく。
「ヒノデくんはずーっとスウェット着てるの?」
「そうそう。こいつ部屋着のグレースウェット四着くらい持ってるけど他の服は全然持ってないの。服も『別にいらない』って滅多に買わないんだよ」
「いや逆にヨリトが服持ちすぎなんだよ。寮に乾燥機あるんだし毎日私服の小学生でもないし服なんて各シーズン三セットくらい用意できれば困らないだろ」
「それ言われたら反論できないよ。でもヒノデがわざわざ世話焼いてやるのも珍しいじゃん。やっぱりは後輩はかわいい?」
「そりゃ寮の後輩はゼンもランもイブキもかわいいよ。その上ソラは同室ですし? 世話も焼きたくなるってもんでしょうよ」
昨日今日と親切にしてもらって、なんとなく薄々「ヒノデくんからかわいがってもらえているのかな」とは思っていたけれど、こうもしっかり「かわいい」や「世話を焼きたくなる」と言ってもらえると不思議な気持ちになる。
「同室の後輩ってかわいいの? ヨリトくんは俺のことかわいい?」
さっきまでテレビに夢中になっていたランくんが興味津々といった様子でヨリトくんに問いかける。どうやらランくんとヨリトくんは同室のようだ。
「部屋を綺麗に使ってくれたらもっとかわいいんだけど?」
「あ、あ~~~きこえなーい」
ランくんは耳を塞ぐフリをして拗ねたように俯いた。
「ちなみに俺はゼンのことかわいいよ」
イブキくんが言う。それを伝えられたゼンくんは恥ずかしそうに「俺は愛想ないしどっちかというとかわいくないでしょ」と反論しているけどちょっと嬉しそう。
「ランくんとヨリトくんが同室で、ゼンくんとイブキくんが同室なんだね」
「そう。俺とランが六室、ゼンとイブキが四室」
ヨリトくんはソラとヒノデは俺とランのお隣さんってわけと微笑む。
「五室がそうしたら、えっと……」
「五室は今ミズキの一人部屋。最初はゼンが一緒に五室だったんだけどミズキの問題行動が多かったから部屋替えがあってゼンがこっちに移動したんだ。本当にあいつはまったく……」
おそらくミズキくんへ溜め息を吐きながらイブキくんはそう言った。
「部屋替えは幼児とか小学生は年に一回あったりなかったりってペースでやるらしいけど、中高生は滅多にやらないんだって。面倒だからないに越したことはない。ソラもきっとずっと七室だよ」
ゼンくんはクールにそう言ってコップを口元に引き寄せてお茶を一口飲んだ。
新鮮な話になるほどなぁなんて思っていると丁度隣の小学生テーブルからごちそうさまが聞こえてくる。それに続いて中高生テーブルのみんなも各々ごちそうさまを言って席を立ちお皿を片付けに行く。
「まぁこの話は同室の後輩はめちゃくちゃかわいいって結論で終わりってことで! ソラもさっさと焼きそば食っちゃえよ~」
ボクと一緒にみんなより遅れてきたはずのヒノデくんはいつの間にかお昼ご飯の焼きそばを完食していたらしい。ボクはお喋りに夢中になってすっかり遅れを取ってしまったようだ。
無事に四月二日の午後を迎えたボクはまだこの寮にやってきてから24時間すら経っていないのに早くもこの場に馴染めてきたのではと自惚れはじめていた。それはきっと周りのみんなが親切なおかげで、そのおかげで明日のボクは今日のボクよりきっとこの場に溶け込んでいるのだろうとも思えた。そんな希望を妄想しながら、口に含んだちょっと薄味の焼きそばをお茶で流し込んだ。