第18話

 三月二十六日。今日はヒノデくんが退所する日。七室の片側はすっかり物が取り払われてすこし殺風景ですらあった。そんな何もない部屋半分に落ちつかなさを感じながらボクはもう半分の自分のスペースでヒノデくん宛ての手紙をまた再度読み返してレターセットに同封されていたシールを貼って封をした。

「お、それ俺宛の手紙?」

 背後から突然聞こえてきた声にびくりと肩を揺らす。いつのまにか七室に入ってきていたヒノデくんは今日も今日とて眼鏡の奥の瞳がちょっと眠たげだ。

「そろそろ行く時間?」

「うん。あと一時間くらいしたら行くかなぁって感じ」

「そっか。これ、どうぞ」

「やった~! わざわざ手間かけさせたな! そんじゃあ俺からはこれ。大事にしろよ~」

 ボクがヒノデくんから受け取ったのは昨年の母の日に一時花瓶になった湯飲みになれなかったペン立て。信楽焼の土色が室内灯に照らされておとなしくて趣のある艶を帯びている。

 先日のボクからのお願いの内容は「あのペン立てをください」だった。

「まじでそんなんでいいの?」

「うん。むしろヒノデくんこそこれボクにあげちゃっていいの? 思い出の品なんじゃ――」

「いいのいいの! 手紙わざわざ書かせたのに俺から渡すものがそれしかないのが申し訳ないくらいだし! おまえがそれで喜んでくれるなら全然安いよ。焼き物だから割らないようにだけ気をつけろよな~」

 間延びした声を残して七室を出て行くヒノデくんをボクはすかさず追った。

「ん? くっついてきてどうした?」

「もうちょっと一緒にいたいと思って」

 そうかそうかと彼は頷く。

「どこ行くの? なんか用事?」

「最後に全員の顔を見るために各部屋を見て回ろうと思いまして」

 彼は軽い足取りで奥まで廊下を進む。背の高い彼の後ろ姿を追ってボクも食堂から順に一緒にみんなの顔を覗きに向かった。



 ***

 

 食堂ではゼンくんが小学生にまざって人生ゲームをやっていた。

「お、もうそろそろ終盤じゃん。ゼンは青駒か」

「でもいま借金が二十万くらいある」

「ほんとだ! 約束手形めっちゃ持ってる! どうしてそんなことに……」

「保険入ってないのに自宅が燃えたり、怪我したり、事故ったり……」

「すごくたくさんの厄に見舞われたんだね……」

「決算日までに返さないと返済額増えるからちゃっちゃと返せよ?」

「じゃあヒノデくんいま代わりにルーレット回してみて。なるべくお金増えるマスに止めて」

「えー……じゃあ一回だけ。――よ! っと」

「あ! 十万ドルもらえるマスだって!」

「ふっふっふ! さすが俺だろ?」

「えっすごい! ありがとう……! ヒノデくんのおかげで借金が半分になった!」

 自分が寄付したゲームをみんなが遊んでくれてヒノデくんはうれしそうだ。



 ***

 

 六室ではヨリトくんがランくんのお片付けを手伝っている。

「どうして明日引っ越すヨリトくんだけじゃなくてランくんも片付けしてるの?」

「ヨリトくんが『俺がいる間にきれいにして一生それを維持しろよ』って言うんだよ~! どう考えたって無理じゃない? そう思うよね?」

「がんばれよ~」

「お片付けがんばってね……!」

「えぇ~ふたりとも俺の肩持ってくるんじゃないの??」

「ほら、がみがみ言ううるさい存在が消えるんだからいいだろ。さっさと片付けなさい」

「がみがみ言ってもいいからずっと一緒の部屋いてよぉ~! ねぇーヨリトくん~!」

「だめです。俺は世に出て働くんです」

 ヨリトくんにすがりつくランくんは泣き言を言いながらもせっせとゴミを捨てていく。以前監査のときにボクが手伝ったようなプリントの仕分けも涙目になりながらだけどなんとか自分でこなせるようになったみたい。ヨリトくんはその様子を厳しくも優しく見守っている。



 ***

 

 五室ではミズキくんがひとりロフトベッドの上で漫画を読んでいた。

「ミズキ~なに読んでんのー?」

「ゼンから借りた少女漫画」

「ミズキと少女漫画の組み合わせなんか面白いな。――って持ち主がいないところでの貸し借りは基本禁止だぞ?」

「職員には黙っといて」

「まーいいでしょう。でもちゃんとなくさず返すんだぞ」

「わかってる。ソラも黙ってろよ」

「う、うん」

「じゃあ集中できないからさっさと出てって」

 ボクたちを部屋から追い出すようなジェスチャーをして彼はまた本に視線を落とす。

 ゼンくんと漫画の貸し借りができるくらいにわだかまりが解けたらしいことが知れただけ収穫だなんて思いながらボクたちはおとなしく追い払われる。



 ***



 四室ではイブキくんが手持ちのCDの整理をしていた。ごちゃついてしまっていた結構な量のCDケースをアーティスト順に並べ直しているらしい。

「お、イブキがなに聴いてるのか気になるな。なんかおすすめとかってある?」

「なにか特徴教えてくれたら好みに合いそうなのおすすめするよ。ヒノデくんはどんなのが好き? 激しめのロックばっかりなんだけど一応ゆったりしたのもポップなのもあるよ」

「ポップとカッコイイの中間くらいのやつ」

「じゃあこれ、あげる」

「え! くれんの? しかもこれ未開封じゃん」

「実は特典目当てで複数買ったから内容同じCD持ってるんだ。だから餞別ってことで」

「そっか、サンキュー。ありがたくもらっておく!」

「たくさん聞いてね!」

 ヒノデくんは笑顔でCDを受け取ってうれしそうにケースの表面を撫でる。

 ボクもあとでイブキくんに聴かせてもらう約束をして四室をあとにした。

 それから幼児小学生部屋の一室から三室も巡ったあと、ボクたちはふたりで中庭に出た。18度もあるすっかり春らしい気候のなか心地よい風が髪を揺らす。

「はぁ」

 ヒノデくんは満足げに溜め息を吐いた。

「たのしかった?」

「うん。ほんとうにすごく、たのしかった」

 青空を見上げる彼の視線からは清々しさを感じる。

「俺はさ、」

 彼はゆっくりと話し出す。視線はなおも高い青空を眺めている。

「ずっとずっと『世の中なんて良いものなんかこれっぽっちもない! 全部全部ぶっ壊れて滅べばいい!』って思ってた。降りかかる理不尽に耐えるために美しいものまで含めてなにもかもを恨むことしかできなかった。愚かなほどどこまでも青かったんだ」

 落ち着いた声で語りながら空を見上げる彼の顔をボクは真剣な眼差しで見つめる。

「いまは違うんだ。きれいなものを『希望』として受け入れることができるようになった」

 彼は空に向けていた優しげな視線をボクに移し、座ったまま手を差し伸べる。

 ボクは自然とその手をとっていた。

「俺の手の届く範囲に希望はたしかにあって、存在に気がついてさえいれば手を伸ばせる」 そこまで話を聞いたところで職員室の方からヒノデくんの名前を呼ぶ声が聞こえる。

「あ――、行かなきゃ」

 彼の手が離れる。別れの時間が訪れるのはとても早い。彼の服の裾を掴んで足を止めたくなる。ずっとここにいてほしいという欲をどうしたって消せない。

 玄関までボクはヒノデくんにくっついていく。でも別れはそこで済ますと決めていた。駐車場までついて行ったら、きっとボクは彼を引き留めてしまうし、引き留められた彼はとてもとても困る。

「じゃあな! 元気でいろよ!」

「うん……! 今までありがとう……! いっぱいいろんなことお世話になりました!」

 珍しくいつものグレーのスウェット姿じゃない彼は笑顔で手を振って、寮を出た。

 ドアが閉まる。ガラス張りのドアの向こうに見える背が曲がり角を折れる手前で一度こちらを振り返り、手を振る。ボクは泣きそうな笑みのまま手を振り返す。

 ボクとヒノデくんの時間はきれいな思い出としてこれからすこしずつ色を失っていく。

 彼のこれまでを他でもない彼自身がただ辛いだけのものだったと思わず生きられますように。理不尽の中にもたしかにたのしかったこと、うれしかったことがあったことをいつまでも忘れませんように。

 彼のこれからがたくさんの素敵なもので溢れていますように。

 彼の日の出のような優しい瞳が、ずっと、永く、曇ることなく希望を持ち続けますように。



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