第17話
三月十日。今日はヒノデくんの大学受験合格発表の日。昼食を取り終えたボクは玄関前の廊下の隅に座りこんでゲームをしながら彼を待っていた。
「ヒノデを待ってるの?」
声をかけてきたのはヨリトくんだった。頷きをひとつ返すと「じゃあ俺も待とうかな」とのんびりした動作でボクの隣に腰かける。
それからしばらくボクたちはくヒノデくんのことを話していた。ゲームを両手に持ったまま操作の手を止めて、顔はヨリトくんの方へ向ける。ヨリトくんの見たボクの知らないヒノデくんの話をたくさん聞かせてもらった。
「しらあいに入ったばかりのヒノデはめちゃくちゃ尖ってて、自分の感情の世話が下手で、嫌なことがあってもひとつだって意見を言えないまま黙るし、楽しくても笑えないし、ムカつくことがあっても全部自分が悪いって自責するようなこどもでねぇ……。いまのヒノデに成長したのが不思議なくらいなんだよ」
「ヒノデくん、むかしはむずかしい性格だったんだね」
「うん。でも根っこはずっと優しかったと思う。遊ぼうって誘っても断られちゃうことが多かったけど四人で遊ぶテーブルゲームをやるときに人数が足りないと加わってくれたりとか、助けてくれることことも多かった」
ヨリトくんは懐かしい思い出を振り返って楽しそうにやわらかく微笑む。
「ヒノデはつくづく俺とは違うなぁって思う。俺は自分のための生き方しか知らないけど、あいつはいつだって自分の未来より他人の未来を取る人間なんだ。その行動に自分の犠牲が含まれていたとしても助けにいくし、傷つくことがわかっていても他人の盾になってしまう」
「ヨリトくんはヒノデくんが心配なんだね」
「まぁね。俺自身の次くらいには心配かな。だってあいつ自分のこと疎かにしてまで他人のために動いちゃうんだもんなぁ。今までもそれでいろいろあったし、今後もありそうだから」
「でもそんなところがカッコイイよね、ヒーローみたいで」
「ああ。あいつは気質が自己犠牲ヒーローなんだよねぇ。もっと自分勝手に己の為に生きられるようになるといいんだけど」
そこまで言ってヨリトくんは立ち上がって玄関の前に立つ。
「どうしたの」
「ヒノデ帰ってきた」
「え、わかるの?」
「チャリのブレーキの音がヒノデのものだと思う――ほら」
ヨリトくんはガラス扉越しに外へ手を振る。ボクも立ち上がってヨリトくんの隣に立った。
向こうにはなんでもないような顔で笑ってヨリトくんに手を振り返す制服姿のヒノデくんがいた。彼の様子から見て結果は合格だったのだろう。変にはしゃいで空回ったりしていないところがなんだかヒノデくんらしい
「良い笑顔じゃん。受かったんだ?」
玄関を空けて外の空気とともに寮に帰ってきたヒノデくんにヨリトくんが聞いた。ヒノデくんは両手にピースをつくっておちゃめなふうに眼鏡の奥の目を細める。
「そりゃあもちろん! しっかり番号あったぜ」
ヨリトくんは握り拳をヒノデくんの胸元に寄せる。それにヒノデくんも同じように拳を握りこつりと合わせる。ふたりの仲良しは今日も健在だ。
靴を脱いで靴箱にしまいスリッパを履くヒノデくんの一連の動作が終わったところで、ボクはあらためて口を開く。
「ヒノデくんおかえり! おめでとう! 受験おつかれさま!」
誰よりも先にこの言葉を伝えるためにボクは彼を待っていた。
「おう! ありがとな!」
ヒノデくんはボクの頭をくしゃりと撫でる。大きな手の感触がなんだかくすぐったい。
***
「ということで合格しました! みんな応援ありがとう!」
夕飯時、いただきますを言う前に行われたヒノデくんの報告にみんなで拍手をおくる。
これで彼は無事にしらあいを退寮する下準備を終えたことになるのだろう。あとはゆっくり荷物をまとめきるだけだ。
彼がなにごともなく新たな一歩を踏み出せることはとても良いことだと思う。けれどどうにもボクのなかでは寂しさと心配が勝ってしまって、浮かべる笑みにそれが滲んでしまう。
「ソラ、さびしい……?」
ランくんがボクの顔をうかがいながら小さな声で聞いてくる。隣席のヨリトくんやイブキくんと話しているヒノデくんを一瞥して小さく頷いた。
「うん。やっぱりさびしい」
「だよなぁ……。おれやゼンがそばにいるって言ったってヒノデくんとヨリトくんの存在は大きいもん。さびしいのは悪いことじゃないよ」
「ランくんにしてはいいこというじゃん。受験勉強という試練を乗り越えて成長した?」
ゼンくんの茶化しに口を尖らせながらもランくんはこちらを気にかけてくれる。
ランくんは無事に施設近くの普通科高校へ進学できたため卒業までの三年間も一緒にいられることになったのだ。その報せを聞いてからゼンくんも調子を取り戻したようで今日もふたりは互いにちゃちゃを入れ合っている。
「ヨリトくんとヒノデくんはいつごろ引っ越すの?」
いつもはあまり他人の会話に入っていかないミズキくんが珍しくふたりに聞いている。彼も彼なりに思うところがあるのかもしれない。
「俺もヒノデも結構月末の方までいるよ」
「……ふーん」
「おまえ自分で聞いといて「ふーん」はないだろ」
「イブキは黙れ」
あっちもあっちで今日も仲良く喧嘩している。すこしずつ変わっていく環境のなかでも変わらないものにボクは安心する。
***
「なぁソラ」
食後に七室に戻るとあとを追ってきたようにヒノデくんも入室する。ボクはどうしたんだろうと彼を見ながら首をかしげる。
「いなくなるやつのことがそんなに心配か?」
小さな声で話していたつもりだったけど食事中のランくんたちのとの会話はヒノデくんにもちょっと聞こえていたらしい。
その問いにボクは素直に「心配だよ」と答える。
「心配にならないわけがないじゃん」
まっすぐに目を見て、はっきりした口調で言うボクにヒノデくんはどうしたもんかと手を焼いているように微笑む。
「四月にはいない人間のことをそんなに心配しなくてもいいんだぞ?」
「四月にはいないかもしれないけど三月までは確かにいるし、いた存在なんだよ。ボクにとってしらあいにいるのが当たり前の、大切なひとなんだよ」
ボクはちょっと泣きそうになっていた。震える声をほんのすこしだけ張って、心の内を言葉に載せて主張する。
「ずっとそばにいていっぱい助けてくれたひとが不安になってるだろうとき心配するなって方が難しいでしょ? ボクはヒノデくんのこともヨリトくんのことも心配だよ。だって――」
ひとつひとつの言葉が下手くそに揺れるのをボクの喉は感じていた。
「みんなボクの〝他人〟で〝友達〟で――〝家族〟でしょう?」
ヒノデくんはまだ困ったように微笑んでいる。その笑みからすこしだけ目をそらす。
「心配をかけてごめん、でもありがとう」
「謝罪やお礼なんて――」
「じゃあ謝罪とお礼の代わりにソラにひとつお願いをしてもいいか?」
突然の申し出にボクはまた彼の顔を見る。視線がふたたび交わった。
「お願いって?」
「俺が引っ越す日までに俺宛に手紙を書いてくれないか? 俺がこれからの人生のなかで、もう無理ってくらいしんどくなったときに読むための宝物がほしいんだ。内容は任せるけど無理に元気づけようとかって文面よりおまえらしい言葉を書いてくれたらうれしい」
手紙を書いてくれ――。
それがボクに叶えられる彼の願いなのであればやらないわけがない。
ボクは「わかった」と力強く頷く。
「あの……」
「うん?」
「ボクからもお願いなんだけど――」
ボクからのお願いを聞いたヒノデくんは今日一番の笑みを浮かべながら快諾をくれた。
季節はどんどん春に向けて進んでいく。気候が穏やかになっていくのを感じながら、出会いの前に別れがくるこの季節がほんのすこしだけ苦手になりそうだった。