第15話
十一月十一日。今日のおやつは昨年の十一月十一日と同様にポッキーだ。一年半以上ここに住んでるけど、そういえばこの日以外でポッキーがおやつとして出ることってあんまりないから結構レアな気がする。
ボクはおやつをもらいに職員室に向かった。しかしそこには先客がいた。職員室の中からヒノデくんの声が聞こえる。閉め切られた扉の奥から聞こえるいかにも真面目な話をしているっぽい話し声に今はここに入れる雰囲気じゃないなと察する。
しばらく三室の横にある本棚に収められた本たちの背表紙を眺めていたけど数分待っても職員室が開く気配はない。
それからまた数分後、いい加減一度七室に戻ろうかなと踵を返しかけたとき、職員室の引き戸が開く。出てきたのはヒノデくんだった。話はやっと終わったらしい。
「おっ、ソラどうした?」
「おやつ取りに来た」
彼はおいでとボクを手招く。誘われるがまま職員室のなかに入ってパッケージに大きく『ソラ』と書かれた箱を手に取る。ヒノデくんも自分の分を持つとボクと一緒に七室へ向かう。
「なんの話してたの?」
廊下を歩きながらなにげなくボクは聞いていた。その問いにヒノデくんは「これからのことをちょっと」と答えながら七室の扉を開けた。彼はそのまま机にポッキーを置いてロフトベッドに上っていく。
「これからのこと?」
「そう。俺高三だから進路のこととか受験のこととか改めてちゃんと話してた」
あんまり意識したことなかったけど、そうか、ヒノデくんもヨリトくんももう三年生か。
「なるほど、だから真面目そうな雰囲気だったんだね」
「外まで聞こえたか?」
「ううん。内容とかは全然。ただ空気が真面目そうだったってだけ」
そう答えてボクも自分のベッドのはしごを登る。
「寮には慣れたか?」
背中の方からヒノデくんの優しげな声が聞こえて、最後の一段に足をかけながら振り返る。
突然の問いかけをすこし不思議に思いつつ、ボクはなんでもないふうに答えた。
「寮に? うん、四月に一年経ったころにはもう慣れた感じかな」
「ゼンやランのことは頼れそう?」
「ゼンくんとランくん? うん。ふたりともすごく良くしてくれてるし、頼れるよ」
「イブキは平気だと思うけどミズキとも仲良くやれそう?」
「うん。イブキくんはもちろん優しいけど、ミズキくんも話通じるひとだって思ってるよ」
「そうか。じゃあもう大丈夫だな」
ベッドに上りきって一年半の間に随分潰れてしまった布団の硬さを感じながら、なにが大丈夫なんだろうという疑問を「どういうこと?」という一言に詰めて返す。ヒノデくんは眼鏡の奥の目を細めている。
「俺が、他でもない俺に課した役目のひとつは無事に達成されたってこと」
ボクは首を傾げる。「ってこと」と言われてもその返答だけでは彼の真意がボクの理解の域に達することはなく、ボクはまた「どういうこと?」と言いそうになる。でもそれを発する前にヒノデくんは続きを言葉にしてくれる。
「俺はおまえが同室になるって知ったときから『俺がここからいなくなる前に、俺がいなくても平気になるよう世話を焼く』って決めてたんだ。寮のシステムだけじゃなく、人間関係も含めて、俺がいなくても円滑で円満に寮で過ごせるように。まあでも、俺が世話を焼いてたのは本当におまえがここに来てから数ヶ月だけだったけど」
彼は照れくさそうに、そして寂しそうに笑う。
「まって、いなくなるってどういうこと」
三度目の『どういうこと』に滲んでいたのは疑問より困惑だった。
「ああ、卒業したら退所して出てくからさ、三月くらいには俺はいないんだよ」
彼の返答を聞いてもボクは心の中の困惑を納得に変えられずにいる。
「出てくって? お家に帰るの?」
「いや。家には帰らないよ。絶対」
発せられた『絶対』に、本当に天地がひっくり返ろうとそれだけはないのだろうと思う。
「ここを出てひとりで暮らすんだ。一応県が施設の出のやつを支援する取り組みとかあるから大丈夫だと思う。だからそんなに心配すんなよ」
ヒノデくんは自分の方がよほど未来のことが不安で心配だろうに、それなのにボクの心配を優先して取り払おうとする。
「もっとここにいることはできないの? 今までずっと寮で生活してたのにいきなりひとり暮らしなんて……」
「俺は大学に進学する予定なんだけど、一応寮に留まること自体はできるってさっき職員には言われた」
「じゃあそうすればいいじゃん。どうして――」
ヒノデくんは真面目な顔だけどどこまでも優しい声色のまま迷わず答える。
「俺がいつまでも施設にいたら、いま支援を必要としているこどもが新しく入れないから」
一切の揺らぎのないはっきりとした口調だった。耳に入れたその声に、これはもう彼のなかでは決定したことなんだってことはたしかにわかった。
「つまんない身の上話なんだけどさ、俺は親とめちゃくちゃ仲が悪くて、背中とか手足とか傷だらけなのもそのせいなんだけど」
ボクは黙ってその話を聞く。頷いたり相槌を打ったりはできないけど、まっすぐに彼の目を見て話を聞くことはできた。
「ある日そんな親を本気で殺そうと思ってビール瓶で頭かち割ってやろうって酒瓶を手に持って寝ている親の近くまで行ったんだ。――でも殺せなかった。殴ることすらできなかった。殺せないなら逃げるしかないって小学校でもらったパンフレットに書かれていた児相のSOSに連絡して保護された」
ボクとヒノデくんの視線がまっすぐに交わる。
「俺がすぐに保護されたのは運良く一時保護の枠があったり、施設の空きがあったりしたからなんだ。もちろん児相の大人がたくさん働いてくれたおかげでもある」
彼の声は依然として優しい。視線もけして厳しいものではなく、おおらかだった。
「俺は運で助けてもらえたけど、でもその子に運がないから助けられなかったとか、他にどんな難しい理由があろうとあっちゃいけないんだよ。すべからく助けられるべきなんだ。俺が出て行くことで新しく、ここに、あの頃の俺のよう助けを求めている子が入れるなら、今の俺ができることなんて決まっているだろう」
ヒノデくんは一呼吸置く。ボクはなにも話し出せない。そんなボクの顔を見て、ヒノデくんはまたボクの心配をする。
「なんでおまえはそんな顔してんの? これは俺の身勝手な正義感でしかないんだから、おまえが気にする必要なんてこれっぽっちもないんだよ」
「ヒノデくんが決意したことならボクがそれを変えることはもうできないと思うけど」
やっと絞り出した声は震えている。
「それでもボクは、もっと、ヒノデくんと同じ部屋で過ごしたいし、一緒に遊びたいし、ご飯も食べたいし、悩みを聞いてもらってそれとなく進むべき道を示してもらいたい」
ヒノデくんと違って正義もなにもない、ボクの言葉は全部がボクのわがままだった。そんなわがままをヒノデくんは困ったような笑みで受け止める。
「俺の問題におまえまでそんな不安そうな顔しなくていいんだよ」
「じゃあボクの代わりにヒノデくんが不安を顔に出してよ。どうしてそんなに落ち着いた顔してられるの?」
彼は「俺そんなに落ち着いてる?」と笑う。それが強がりでもない限り、笑ってられてるのだからきっと落ち着いてるんだろう。落ち着けるほどにもうとっくにした決意なのだろう。
「俺はここに入ってよかったって思ってる。しらあいのみんなと会えたこと、最後に同室になったのが他でもないおまえだったこともよかったって思ってる」
彼は向こうのベッドからボクに手を差し伸べる。ボクはその手を強く握った。
「三月までの残り数ヶ月を楽しく過ごせたら俺のしらあいでのミッションは完遂される。それをみんなが見届けてくれたらもう今までのことはすべてよかったことだって思えるんだ」
握り返された手のぬくもりを感じながらボクは「うん」と頷く。
彼がだれかの未来のためにできることをするのなら、ボクは『だれかの未来のために決心した彼のためにできること』をしよう。そしてそれが無事に達成できたらなら、ボクも、彼とのこれまでのすべてを良い思い出だとずっと記憶しよう。