第14話

 八月十日。ボクは一泊二日の帰省に出ていた。

 電車に揺られ、施設から二時間かけてやっと家につく。

 寮以外の家に入るのは実に一年と数ヶ月ぶりだった。ボクは背中に着替えを詰めた大きめのリュックサックの重みを感じながら一歩、その敷居を跨いだ。

「荷物はテレビのある部屋に置いてね」

 フローリングの感触が、靴下越しに緊張した足裏を伝った。そこは間取りこそ同じもののボクが知る〝我が家〟ではなかった。

 ボクは母の言うとおりにテレビのある部屋に荷物を置いてあたりを見回す。

「部屋、片付けたんだね」

 部屋の床が見える。不自由なく足が置ける。記憶のなかではもっとこう、足の踏み場がないというか、怪我をしそうな雰囲気さえあったけど、今はしっかり床が見えていて座る場所を作るために何かを退けたりする必要もない。片付いたのは床だけではなく、洗い物が溜まっていないキッチンシンクなんかを見ても整理や片付けをかなり努力しているように見えた。

「ソラがいつでも帰って来られるように頑張ったのよ」

 母は照れくさそうに笑う。母の笑みにボクもつられて笑顔になる。

「今日の晩ご飯はソラの大好きなパスタを作るから」

 その笑顔の前で、ボクは別にパスタが特別好きなわけではないことは置いておこうと思った。黙って微笑んでいなければ罰が当たると思ったから。

 お母さんが二口コンロの片方でパスタの乾麺を茹で、もう片方で市販のパスタソースを湯煎する。そういえば施設にいる間はほとんどすべての料理が調理棟で作られていたから鍋の中で湯がぐつぐつ煮える音を聞くのもなんだか久しぶりだなと思った。

 今日の晩ご飯はミートソースパスタとオニオンスープ、食後のデザート用に家に向かう途中でケーキ屋さんで買ったいちごのタルトまである。

 ボクはかなり感激していた。この家でこんなにしっかりしたご飯を食べた記憶がなく初めての経験だったからっていうのもあるし、これをすべてお母さんがボクのために用意してくれたこともとても嬉しかった。

「いただきます」

 ボクは軽くフォークの先で巻き取ったパスタを口に運んで咀嚼し飲み込んだ。うん。市販で売られているものなだけあっておいしい――けど……。

 ボクは目の前の皿の大盛りパスタをそっと見下ろす。

 お昼に食べたカツサンドがまだ消化されきっておらずお腹の中に残っていて、晩ご飯はそんなに食べられなさそうだと悟ったのは一口分のパスタが胃に収まったのと同時だった。

 しかしこのテーブルに置かれたものたちをすこしでも残したら、お母さんは不機嫌になるし悲しむんだろうなってことは直感でわかっていて、それを確信すらしていた。

「美味しい?」

 母がにこやかにボクに問う。

「うん。美味しい」

 ボクは急速に満腹に近づいていく胃の重みを感じながら、お母さんの表情を真似するように笑って答えた。



 ***



 翌朝ボクは寮に帰る準備をしていた。お昼を過ぎたらまた二時間かけてしらあいに帰る。

 お母さんは朝に弱い。ほんとうに、とても。昔から八時とか九時とか、一般的に朝と呼ばれる時間帯に体調を安定させることがとても苦手なひとだ。

 帰省二日目。最終日。朝ご飯はなかった。

 一応自分の家だけど長期間離れていたここはもう我が家って感じではなくて、ボクは冷蔵庫を勝手に開けることさえ躊躇い、自分で食事を用意することもできない。特にお腹は空いてなかったから問題ないけど、ボクはちょっとだけ昨晩の食事と同等のものが朝にも食べられることを期待していたようで、すこしだけ残念に思う。

 キッチンのシンクには昨日の夜に使った食器が水に浸けられたままだった。ボクはスポンジに洗剤を含ませて皿洗いをはじめる。暇だったから、喜んでもらいたかったから、そして褒められたかったから。

 寮で皿洗いの手伝いをするのに比べたら二人分の食器を洗うのなんて全然余裕で、早々に洗い物を終えたボクはまた暇を持て余していた。そこへお母さんがぐったりした様子で起きてくる。

「あ、おはよう」

「……………………」

 返事はなかった。母は優れない顔色のままトイレへ向かって、しばらくして出てくる。

「……お皿、洗ったの?」

「うん」

「大変だったでしょ? やらなくてもよかったのに」

 それはボクが欲しかった言葉ではなかった。

「あー……、うん。でも大丈夫だったよ」

「もう少し寝るから、十一時になったら起こして」

 そう言ってまた奥の部屋へ戻る後ろ姿にボクは小さく「うん」と口だけで返した。

 お手伝いをしてみたけど喜んだ顔も見られなかったし褒めてももらえなかった。せめて「ありがとう」の一言でももらえてたら納得できたのかなって沈んだ顔でテレビを見る。

 なんか……早く帰りたいなぁ……

 そこまで思って、どこへ? って、帰るべきところはここだったはずでは? と自問する。けれどその問いの答えなんて探して見つけたところで今のボクの気持ちは晴れないだろう。

 この家にはゲームも漫画もたくさんあるのにどうしてこんなにも暇なんだろう。帰省って思っていたほど楽しくない。面会でちょっと会えるくらいのほうが気が楽かも。

 ボクは2Kのなかの一室の隅に置かれたテレビの前で、音量を絞ってぼーっと夏休み仕様のバラエティ番組を眺める。毎年長期休みの時期に夏にぴったりの遊園地のアトラクションとか今夏新作映画とか注目のエンタメが紹介される様子を『自分には関係ないもの』だと思いながら見るようになったのはいつからだろうか。不登校になった小四のころにはすでにそうだった気がする。

 しばらくテレビを見ながら、しかしその内容とは関係のないことに思慮を巡らせる。そこでふと、どうしてお母さんはボクがパスタ好きなんて誤認をしたのかわかった気がした。

 昼過ぎまで起きないのに起きたと思ったら出掛けてしまうお母さんが帰宅するときに入れる「コンビニ寄るけどなにか買って帰る?」というCメールにボクはいつも『パスタ』と返信していた。パスタならなにかしら店にあるだろう程度にしか思っていなかったそれを母はきっと「好きだから買ってきてほしい」と言っていると誤解したのかもしれない。

 それから芋づる式に思い起こされる『ここ』にいた頃のこと。

 朝起きれない母はもちもんゴミ捨てになんていけない。ボクも引きこもりだから外に出ない。ゆえに溜まり続けるパスタの空きプラ容器が入った45リットルゴミ袋。そのゴミ達を見ながら具合が悪いくせに「どうしてわたしの代わりにちゃんとしてくれないの」と大声で怒る母。なにも見ないようにゲームにかじりつき、なにも聞かないようにイヤホンで耳に蓋をするボク。そんなボクにコップの水をかける母。ゲームが濡れて壊れないようにすることしか気にしないボク。「誰のおかげで生活できてると思っている」と怒鳴りながら出て行けとボクの腕をひっぱる母。ゲームを取り上げられて外に追い出されアパートの非常階段で泣くボク。数分してボクを探しにくる母。

 それらはきっと忘れちゃっていたっていうより、普通だったから見えなくなっていたんだ。施設で過ごす日々が普通になった今ならこの2Kで過ごしていた日々の異常が際立つ。

 どんどん出てくる『思い出』に、なんというか、思い出せば出すほど〝妥当〟だったのかなって。なにがとは言わないけど。

 ご飯も食べさせてもらっていたし携帯も持たせてもらっていたしゲームも漫画も買い与えてもらっていたけど、それ以上に家族になるための相性が悪かったんだと思う。お母さんは子育てに向いてなかったし、ボクはお母さんの子供に向いてなかったんだな。それだけのことだったんだ。

 ボクがちゃんと『ここ』に帰ってこられるようにお母さんはお母さんなりに頑張ってくれたけど、それはボクが近くにいなかったからできたことで、きっと五年先も十年先も、ボクとお母さんは同じ場所に住むまともな家族にはなれないだろう。早計かもしれないけど、たぶん当たっている。

 家族ってなんでこんなにむずかしいんだろうって、そんなことばっかり考えてしまう。自分の非とお母さんの非しか頭に浮かばない。今までの悪かったこと、これからも悪いだろうことしか考えられない。

 はやく、しらあいに帰りたい。



一覧に戻る