第13話
八月二日。今日は近所の海岸でお祭りと花火大会があるらしい。夕飯のときに職員の大塚さんから『じんべい』を着たいひとは名乗り出るようにと言われる。小学生の数人とミズキくんが手をあげるなか、ボクはひとり『じんべいってなんだ……?』と文脈から服であることのみわかったそれの正体を掴みあぐねていた。
ボクはたぶん目に見えて困った顔をしていたのだろう。助け船を出すように隣に座るヨリトくんが「甚平は和服の一種だよ。お祭りのときとかに子供や男が着る」と教えてくれる。
「和服の一種? 浴衣みたいな?」
おずおずと聞けばヨリトくんはイメージは大体合っていると微笑み頷く。
「浴衣を半袖にして、上下で分けて下を半ズボンにしたような感じかな? 興味あるなら今日着てみたらいいんじゃない?」
提案を受けて、せっかくなら着てみたいなと思ったボクは顔の横あたりへ開いた右手を控えめに持って行く。大塚さんはこちらの席を見て手をあげているボクとミズキくんを確認するとご飯が終わったら七室の隣の倉庫前に来るように言った。
***
「これが、じんべい」
現物を目の前に出されてやっと、たしか夏場の服屋さんの浴衣コーナーの一角にこれと似たようなものがあった気がする。あれが『じんべい』というやつだったのかと合点がいった。 倉庫から出したばかりのじんべいを受け取り着替えのために部屋へ戻る。
「えっと……?」
人生初のじんべいと相対し、ボクはまた困っていた。
「着方わかりそうか?」
わざわざ様子を見に追ってきてくれたらしいヒノデくんは問いかけてボクの返事を待つ。ボクは一度じんべいを羽織ってみるがすぐにギブアップしてヒノデくんに助けを求める。
「これどっちが前? この紐は?」
「おう、貸してみ」
そう言って彼は「ここはこっちの紐、もう一方はこっちな」と説明しながらするすると手際よくボクにじんべいを着せていく。
「着せてくれてありがとう」
「いえいえどういたしまして」
「ヒノデくんは着替えないの?」
「え? 俺はこのスウェットで行くよ?」
「えぇ?」
その発言が嘘なのか冗談なのかわからず、めずらしく眉間にしわを寄せるボクを見てヒノデくん「なんつー顔してんだ」と笑う。
「えー。ダメかな?」
「いや、ダメっていうか……」
ボクはまじまじ彼の服装を見る。年がら年中ずーっと着ているの彼のグレースウェットはどっからどう見ても長袖長ズボンである。
「エアコン効かせられる室内ならまだしも八月上旬の野外でそれは暑いと思うよ」
「暑さには強いし、汗をかいても帰ってくれば着替えられるしなぁ」
「強いって言っても、下手したら熱中症になるよ?」
「じゃあ祭り行くのやめとくかな」
彼の発言に驚いてボクはちょっとぎょっとする。年に一回のイベントへの参加をやめようとするくらいそのグレースウェットを脱ぎたくないのか?
「いや、祭りはさ、行こうよ」
「俺もせっかくなら行きたいんだけどねぇ。しかしこのスウェットとは一心同体なので……」
「……ヒノデくんは、そのスウェットとくっついてるの?」
「ああ、みんなには内緒にしておいてくれ」
冗談めかして笑う彼は、結局いつものグレースウェットのまま祭りへ出掛けるのであった。
***
夕飯を食べてすぐだったからたこ焼きや焼きそばなんかの気分じゃなくて、でもお小遣いを千円出してもらっていたから一回三百円の射的を二回やってあんず飴をひとつ買った。
歯の詰め物が取れないように前歯でちまちまと粘り気の強いあんず飴を食べながらみんなで浜辺から花火が打ち上がるのを見た。いつもずっと遠くでやってる花火を自宅のベランダから見るだけだったから、あんなに間近で打ち上げ花火をみたのは初めてだった。
花火が弾ける音がドンと体に響く。パラパラと散っていく火花がボクの思い出に刻みつけられる。
開始から二十分くらい経った頃だろうか、ヒノデくんがボクに声をかける。
「ソラ、そろそろ帰るって」
「花火まだ終わってないのに?」
「寮の駐車場で手持ち花火やるらしい。大塚さんが買っておいてくれたんだって。小学生の就寝時間の都合もあるから早めに帰ってちゃちゃっと花火やって寝るって感じだと思う」
納得したボクはおとなしくヒノデくんの隣を歩いて帰路につく。花火の音が背中に響くのを感じながら、輝く火の花を時折振り返り、ゆっくりゆっくりボクたちはしらあいに帰る。
***
うるさいほど派手なパッケージの手持ち花火、水を張ったバケツ、火の灯ったロウソク。
着火されたボクの手元のそれは火薬の匂いをまきながら勢いよく火花を散らす。
「ゼン、ソラ見て! 花火で字書けるよ!」
ランくんがおなかの高さで花火でうねらす。先から噴射される火花と煙は星を描いていた。「ハートとか五芒星とか簡単な記号しか書けないけどね」
そう言うゼンくんも笑顔で一緒に星を描く。その背景でドンとまた打ち上げ花火が輝く。
弟たちと一緒に線香花火をするイブキくんやヨリトくん持つ花火から火を分けてもらっているミズキくんを見て、ふと、ヒノデくんがいないことに気がつく。あたりを見回してもやっぱり彼だけがいない。トイレにでも行ったのかなと思いながらもどうにも気になったボクは大塚さんに「すぐに戻る」と一言伝えたあと寮に入っていく。
まずトイレに行って、そのあと食堂を見た。けれどヒノデくんはいない。
ボクは七室に足を向ける。ノブをひねってゆっくりドアを開け中を覗く。
「あ、ヒノデくん」
「うおっ!?」
驚いた顔を隠しもせず彼は背中越しにこちらを振り返る。どうやら着替え中だったらしいヒノデくんは上半身裸で丁度替えのスウェットに袖を通すところのようだ。
「あ、着替え中にごめ――」
言いかけて、目の前に広がる光景にボクは思わず言葉を詰まらせる。
ヒノデくんの腕や背に広がる、やや白っぽく色の変わった古そうな無数の傷たち。
ボクの様子からすぐに状況を察したヒノデくんはいそいそと襟に首を通す。そしてぎこちなくボクへ笑いかける。
「あー……ごめんな、いやなもん見せて」
「あ、ボクの方こそごめん、ちょとびっくりして――」
「うん。わかってる。大丈夫だから」
ちょっとの間、ふたりの間に気まずい空気が流れた。
「花火は? みんな帰ってきてないからまだやってるんだよな?」
「うん、まだみんな遊んでる」
「そっか。じゃあソラはまた行っておいで。俺はやっぱり暑くて汗かいちゃってさ、もう着替えちゃったからこのまま部屋いるって大塚さんに言っておいてくれるか?」
「わかった」
「おう、よろしく頼んだ」
ボクは覗きこむように頭だけつっこんでいた七室から出た。そしてただ頭の中をあの傷たちで埋め尽くしながらみんなのもとへ駆けていく。
まだ手持ち花火は尽きていないらしくみんなは思い思いに遊んでいる。けれどひとりだけその輪から外れて少し離れたところから楽しそうなみんなを見守っているひとがいた。
「あ、おかえり」
ヨリトくんは駐車場の縁石に座りながらボクの顔を見上げる。
「ヒノデ、いた?」
「え……」
「探しに行ってたんでしょ?」
「……うん。いたよ。七室にいた」
そっか、と呟いてヨリトくんは隣の縁石をボクに勧める。けれどボクは暗い顔で俯いて突っ立ったまま。
「なんかあったって顔してる」
「……うん……あったよ」
「別に無理して言わなくてもいいけどね」
「……………………」
「でも辛いなら言った方がいいよ」
「………………辛いのは、ボクじゃないから」
彼は離れた場所で散る打ち上げ花火を眺めながらボクの返答にただ「そうだねぇ」と呟く。
夏の空気。ぬるい風。遠くで打ち上がる大輪。誰かの手先で吹き出す火花。みんなの笑顔。
鮮やかな世界の末端で、ボクは、自らの無知を持て余す。