第12話
五月十二日。のんびりと日曜日を過ごす。
今日は時間が経つのがゆっくりだなぁなんて思いながら、やっと迎えたおやつ時。食堂の献立表で今日のおやつを確認してからボクは職員室に向かう。
引き戸を開けて中に入り誰もいない職員室のテーブルに置かれたポテトチップスの山の中から『ソラ』と書かれたものを探す。黒い油性マジックで大きく名前の書かれた目当てのそれを持って、ボクはそそくさと職員室を後にした。
ボクが職員室を出たのとほとんど同じタイミングで玄関が開く。扉を開けたのはヨリトくんだった。帰宅した彼の手には透明なフィルムで包装されたオレンジ色の花が一輪。
帰ってきたばかりの彼に一言「おかえり」を言って、ボクは視線を花に向けたまま何気なく「そのお花どうしたの?」と聞く。
「あー……母の日だからさ、さっき買いに行ってきたんだ」
少しだけ気まずそうに答えた彼の様子にその花がカーネーションだったことに気がつかないばかりか母の日の存在まで忘れていたボクは次の言葉を見失ったまま固まる。
ヨリトくんは生後間もないころに乳児院に入った生粋の施設育ちで、親の顔も知らなければ会話をしたこともないらしい。施設に入ってから十七年、面会も通話も手紙も、一度たりともなかったと以前彼から聞いた。
そんなヨリトくんが、母の日に、カーネーションを買っている……。
もしかしたら面会……とはいかなくても児相がお母さんのところまで花を届けてくれることになったのかも、と想像し、我ながら良イメージだと嬉しくなった。
けれどそんなボクを見たヨリトくんは困ったように眉を下げ、いつもの和やかな笑みを曇らせる。
「ごめん、なにか勘違いをさせた気がする」
「えっ、……母の日のプレゼント、だよね?」
「……ううん。これに貰い手はいないよ」
ボクが無駄なポジティブで舞い上がったせいでよりにもよってヨリトくん本人の口から「貰い手はいない」なんて言わせてしまった。後悔でさっきとは打って変わって元気をなくしてうなだれるボクに「俺より暗い顔するなよ」と言って、彼はボクの肩を軽く二回叩いた。
「実は毎年買ってるんだ。しらあいの付き合い長い連中はみんな知ってるよ」
「毎年? 渡せないってわかってるのに?」
「うん。なんて言えばいいかなぁ、参加費みたいなものだと、俺は思っているよ。幸か不幸か、渡すことは出来なくても買うことは出来るんだよね。カーネーションを買うってだけで母の日というイベントに参加した気になれると思わない?」
そういうものなのか、いろんな解釈があるんだなぁとボクが納得しかけているところに、ヨリトくんは「でも実は母の日もカーネーションもそんなに好きじゃないんだよね」と付け加えた。
「いくら計画を立てて実行したって不完全で終わっちゃうから。自分でも毎年なにやってんだろって思ってるんだ」
彼は結構こういうところがある。行動力はあるけどさほど情熱的でなく、むしろ本当はなにかを実行する前、計画を立てているころからすこし冷めているんだ。
「……そのお花、飾るんでしょ? 何に入れるの?」
「とくに決めてないかな。毎年適当に調味料の空き瓶とか使ってる」
「それって見栄え悪くない?」
「う~ん、よろしくないねぇ」
参加費として花を買うことを目的としていた彼にとってそれの飾り方などどうでもよかったらしい。だけど、ボクはまだ生きている(その上きれいな)花を適当に扱うのがなんとなく嫌だった。
「職員に言って花瓶出してもらうとかさ」
「うちの寮で花瓶なんて見たことないよ」
「言えば出てくるかも」
「そのへんの瓶でも事足りるよ」
彼はそう言ったがボクはそれでも食い下がった。
「でも――」
「花瓶がほしいのか?」
問答の間を割ったのはあくび混じりの声だった。
「あ、ヒノデくん、おはよう」
いつものグレーのスウェットに身を包んだ彼は休日なのを良いことに今まで寝ていたらしい。おやつの時間も過ぎたとというのに眼鏡の奥の目はまだ眠たげだ。
「おう、おはよ。そんで、花瓶がいるんだろ?」
再度問われたそれにヨリトくんが答える前に、ボクはすかさず「いる!」と返した。ヒノデくんは大きい声の良い返事だなぁと微笑む。
「よし! 中学生の元気なお返事に応えてやんよ」
そう言うとヒノデくんはボクたちに向けて手招きをした。ついてこいというそのジェスチャーに従って、ボクとヨリトくんは玄関を離れる。
「しらあいに花瓶なんてないっておまえだって知ってるだろ?」
廊下を歩きながらヨリトくんは言った。それにヒノデくんはニヤッと笑みを浮かべる。
「力作がある」
力作ってなんだよとヨリトくんは怪訝な顔をしている。ボクはといえばヒノデくんがかつて花瓶職人だった可能性に思いを馳せていた。
一度七室引っ込んだヒノデくんはほどなくして土色の筒っぽいものを持って戻ってきた。
「自信作だぞ! 割るなよ!」
そう言って慎重に渡されたそれは花瓶と言うより背の高い湯飲みって感じの代物で、底面にはガタガタの文字で『ヒノデ』と彫り刻んである。
「これ、小五のときに陶芸教室で作った信楽焼の湯飲みじゃん」
「ん? やっぱり湯飲みなの? 花瓶じゃなくて?」
「本来は湯飲み――というか、湯飲みになるべきだったものだが、作っている過程でなんかデカくなっちゃってな。ちなみにさっきまではペン立てになっていた」
「よくそれを花瓶って名目で持ってきたね」
ヨリトくんは呆れ気味に溜め息を吐いたけど口元は綻んでいる。きっと彼なりにすこしはうれしいと思ったんじゃないかな。
ボクたちは三人そろって水道に赴いた。蛇口レバーをひねってヒノデくんの力作に水を注いでやる。中はすぐに満たされ、土色だった面は茶黒く染まる。最後にヨリトくんの持つカーネーションを差して、完成。
「こいつは今日から湯飲みでもペン立てでもなく晴れて花瓶になったんだなぁ……」
「花が枯れたらまたペン立てに戻るけどね」
「短い生涯の方が儚くてカッコイイからそれはそれでありだな」
言うほどありかな? とボクは思ったし、ヨリトくんもきっとそう思っているだろうけど、ふたり揃って黙っていた。だってヒノデくんが楽しそうだからね。
「貸してくれてありがとうね。湯飲みことペン立てこと花瓶」
「おう、礼は今日のおやつでいいぜ」
「ふふ。ポテチくらいいくらでもやるよ」
ヒノデくんとはその場で別れてボクは花瓶を持って六室に向かうヨリトくんにくっついていく。「食堂に飾ったりはしないの?」と聞いたら「気が滅入っちゃう子もいるからねぇ」とだけ答えてくれた。
ヨリトくんは花瓶を机の上に置いて明日には満開を迎えてそれから徐々に朽ちていくだろう花の頭を指先でやさしく撫でる。
「いつか、なにかの拍子に、俺が毎年母の日に花を買っていることが伝わってくれたなら」
ぽつりと呟かれたそれに含まれた感情をボクは言葉に出来ない。
「あの、」
「うん?」
「どうして赤じゃなくてオレンジのカーネーションなの?」
「ああ、なんとなく赤いやつを買うのは気が引けたから。それと――」
彼は瞬きをひとつしたのち曖昧に微笑む。
「確証はないけど、たぶん、母さんが好きな色だから」
「……? どうしてそう思うの?」
会ったことも話したこともないお母さんの好きな色を彼が知るのはかなり難しいだろう。
彼は「頼むから、否定だけはしないでね」と前置きをする。その一言はボクへ向けて言っているはずなのに視線はボクを見てはいなくて、その声すらもボク宛てではない気がした。
「オレンジなんだよね、俺の母子手帳のカバー。母子手帳の表紙と同じ名前が書いてあったからきっと母さんがつけたやつなんだ」
彼はカーネーションを見つめている。いや、本当に見ているものはきっと花なんかじゃなくて、それが持つ鮮やかな色彩の方で――。
「好きなんだよ、たぶん、オレンジ色が、」
愛しいものを見る目でフリルのような花弁の色を眺める彼は
「そんでもって俺は、あのひとにとってのオレンジじゃなかったんだろうなぁ……」
自分に言い聞かせるようにただ諦めを滲ませた声を震わせた。