第3話

 レコーディングからミニライブ本番まで二ヶ月の猶予があった。二ヶ月とは大体一四六〇時間なわけですが、そんな当たり前の事実を前に「え? 体感ざっと三五〇時間くらいしか経ってないのですが? わたしは十四回程度しか起床と就寝を繰り返していないつもりなのですが?」と疑ってしまうほどレコーディングからミニライブまでの二ヶ月は早かった。

 TAKARAちゃんとしての仕上がりを一言で表すのなら「まだまだ」という段階。けれど本番当日は無情にも訪れてしまう。

 現在わたしはCDショップの端に設置された特設ステージの袖で一時の開始までスタンバイしている状態。開始時間まであと二十分はあるが周囲は早くもざわめきだしていた。

 ミーティングやリハーサルは可も無く不可もなくという、ぱっとしないけれどどこを直して良いかわからないような出来で、周囲の大人達は初舞台前にそれだけできるのはすごいって褒めてくれたけれど、わたしは納得できなかった。

 異常に水を飲むわたしを心配したマネージャーが声をかけてくれたがそれに気の利いた返事をする余裕があるわけもなく「ははは……。大丈夫……大丈夫……」とカチコチに固まった頬を不器用につり上げることしかできない。

 TAKARAちゃんの記念すべき初舞台。失敗はもちろんだが中途半端も許されない――というかわたしが許せない。今日は『神託シリーズ』を歌う。『賛歌シリーズ』のような信仰者視点いわば人間から神様に捧げられる歌ではなく、神様から信仰者へ与えられる崇高な救いの歌。神様――TAKARAちゃんが歌うから意味のある歌。完璧以外許されない歌。

「大丈夫……、見た目は完全にわたしが思い描くTAKARAちゃんに仕上げてきた。あとはパフォーマンスだけ。ダンスは軽く手の振りがあるだけだから問題ない。あとは歌……」

 足がガタガタ震えてやけに喉が渇く。本番十分前を伝えるスタッフの声が随分と遠く聞こえた。

「TAKARAちゃん、本当に大丈夫ですか? 真っ青で今にも死にそうな顔をしている」

 マネージャーがわたしの顔をのぞき込む。わたしはその不安げな表情を見下ろす。

 ――このひと何言ってんの? TAKARAちゃんが〝死にそうな顔〟なんてするわけないじゃん。死にそうなのはいつだって宝寿意志か『ことぶき いし』の方でTAKARAちゃんはいつだって誰にだって愛される顔をしている。死にそうな顔なんてしない。このひとは勘違いをしている。わたしはまだTAKARAちゃんじゃない――……このひとにわからせなければ。本当のTAKARAちゃんを。

「マネージャー。今からある儀式をします。ですから指示通りに行動してください。……ではわたしはまだただの人間宝寿意志なので一度わたしのことを本名で呼んでください」

「え? はい、宝寿意志さん?」

「じゃあわたしがこれから一拍手を叩くので、それを合図にわたしの呼び名をTAKARAちゃんに変えてください。その瞬間からあなたの目の前にいるのは宝寿意志ではなくTAKARAちゃんです」

 白いレースの手袋がはめられた手で一拍音を鳴らすとマネージャーは指示通り自らの目の前にいる『TAKARAちゃん』を『TAKARAちゃん』と呼ぶ。瞬間、マネージャーはわかり易いくらいぎょっとした。目の前の女の雰囲気ががらりと変わったためだろう。

「――もう大丈夫。TAKARAちゃんはあなたに賛辞を贈ります。ありがとう」

 ステージから司会のアナウンスが聞こえる。その声がTAKARAちゃんの紹介を終えると代わりばんこに『宙のからの贈り物=神託Ⅰ=』のイントロが流れ出す。


「 皆 に 神 託 を 与 え る !」


 口上と同時にゆっくりゆっくり、天使の翼が地上に降り注ぐように、踵の平坦な靴を柔らかく踏みながらTAKARAちゃんはステージに降臨した。

 俗世にありふれたCDショップに現われたその神様の姿と歌声にTAKARAちゃん目当てではなかった客も次々足を止める。皆一様に、まばらに光るピンク色のペンライトに手を振り微笑みかけるその姿を見つめた。

 三曲の歌を披露するのに要した時間は十分と少々、そしてその後執り行われたトークとCDの手渡しの間も、場を統べていたのは『宝寿意志』でも『ことぶき いし』でもなく、正真正銘『TAKARAちゃん』だった。


 ♪♪♪


 一仕事終えたわたしはマネージャーが運転する社用車の中でTAKARAちゃんのファーストアルバムのパッケージを撫でていた。フロントミラー越しにこちらを見たマネージャーはおずおずとわたしに話しかける。

「今日やっていた一種の暗示? みたいなもの、すごいですね。効果が絶大というか……。あっ、今は宝寿さんって呼んだ方が良いんですよね?」

「はい! 今は宝寿意志です! それにしてもわたしもびっくりしました。今度からもあれやりましょう!」

「なんでしょうね、スイッチが切り替わるんでしょうか? 不思議ですね~」

「本当に不思議! わたしにも全然理屈がわからないです。というかわたしどんな感じでした? ちゃんと神様らしい完璧なTAKARAちゃんでしたか?」

 マネージャーはわたしの問いかけに目を輝かせながらこくこくと頷く。

「もちろん! SNSでの評判もすごかったです。撮影禁止だったのもあってちゃんとした映像が残っていませんから幻のライブとか伝説のライブになるって言われていました」

「わっ本当だ! 幻とか伝説って言われている! いいですね! 神様であるTAKARAちゃんにぴったり!」

 うふふと笑みがこぼれた。

 幻とか伝説とかってTAKARAちゃんが語り継がれるなんて、わたしは本当にTAKARAちゃんを本物にできたんだ!

 うれしかった。最初はやってやるぞという意気込みだけだったけれど、こうして実績ができてTAKARAちゃんがより多くの人に周知され、そして信仰される。理想が着々と実っている。わたしはTAKARAちゃんの存在証明の足掛かりを今日作れたんだ!
 自宅に帰ってからもわたしの有頂天はおさまらず、SNSの鍵アカウントをつくって片っ端からTAKARAちゃんへのコメントをブックマークに入れた。

「あー! モチベーションめっちゃめちゃあがっちゃったなー! 新曲作っちゃおうかなぁ~!」

 わたしはふふん、と新しいメロディーを探すように鼻歌を奏で、溢れんばかりに注がれたやる気を胸にパソコンの前に急ぐ。

「次は何シリーズにしようかな~? いつもよりぐっと厳かな雰囲気の神罰シリーズとかどうよ?」

 わたしはルンルンと気分を良くしたままDAWソフトを立ち上げてピアノロールエディタに打ち込みを始めた。

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