夏休み3日目 生然視点
雲が太陽を隠し涼風が木の葉を揺らす過ごしやすい午後十八時。僕はほんの少し怒ったような慧念さんとそれを気にも留めていないイツカのことを賽銭箱の近くから眺めていた。
「おやつのときのあれ、どういうつもり?」
「あら、さっきうるるが『おしまい』の【儀式】をしたはずだし慧念さんだって『うるるが気にしてないならいい』って言ったじゃない。それを自分からわざわざ掘り返すのね?」
場所は青澄神社の境内。要するに僕の家の敷地内で今、彼と彼女は喧嘩をしている。いや、正確に言うと喧嘩と言うには一方的なように見えなくもないのだけれど、それはそれだ。
「せっかくうるるが仲裁してくれた件を掘り返して何になるの? それともそんなことは関係ないって言う? 関係なくなんてないわよね。だってうるるは【神隠し】の話題の当事者なんだから、当事者が収めたそれを掘り返すのは当事者しかするべきじゃないと思う」
「当事者なら口出しする権利があるとでも言いたげだね。それならボクだって当事者だよ」
イツカは「慧念さんのどこが当事者なのよ?」と挑発するみたいに目を細めて笑う。しかし慧念さんがそれに乗ることはなく、ただ「きみには関係がないだろう」と彼女を睨むだけ。
ふたりの間に流れる空気が再び、そして以前より激しくピリつく。
イツカは考えごとをするよう瞳を伏せた。そよそよと吹く風が彼女の髪を揺らす。それからしばらくしてイツカはなにかおもしろいことを思いついたみたいにくつくつと喉を鳴らす。突然笑い出した彼女を慧念さんだけでなく僕も気味悪いものを見る目で見つめる。
イツカは歌でも歌い出すんじゃないかってくらい晴れやかな笑みを浮かべると言った。
「うふふ、あはははは! なんとなくあの日のあなたのことがちょっとだけ私にもわかったわ! あの日〝うるるは慧念さんのせいで【神隠し】にあった〟んでしょ? だから慧念さんも当事者なんだよね! ねぇ、そういうことでしょう、慧念さん?」
……これはちょっとまずい展開な気がする。
僕の嫌な予感が的中したように慧念さんは目に見えて狼狽える。イツカはそれを見逃さず、なおもクスクス笑いながら「なんでそんなに怯えているんですか?」と首を傾げる。
「……なにも知らないのに、わかったような口をきかないでくれるかな?」
慧念さんは震える唇からそう絞り出すのが精一杯なようだった。
「じゃあわかるように説明してくださいよ。説明くらいできるでしょ。大人なんだから」
「きみに説明する義理なんてない。生然、ボクは今最低な気持ちになっていて彼女を学校の前まで平静を保って送り届ける気分にはなれそうもない。代わりにきみが送ってあげて」
そう言うと僕の返事を聞く前に彼は病院の方へ歩いて行ってしまった。
「あーあ行っちゃった」
イツカは慧念さんが消えていった方を見ながらちょっとだけつまらなさそうにしている。
「慧念さんも大人げなかったと思うけど九割イツカが悪いよ」
それは僕が九割慧念さんの肩を持っていることを伝えるには十分なセリフ。
「そう。でもさ、生然は気にならないの? うるるが【神隠し】にあった原因や経緯、あなただって知らないんでしょう?」
「別に。今うるるがこの世界にいる事実があれば僕はそれでいいけど?」
イツカは慧念さんが去っていたとき以上につまらなさそうな顔をした。
「生然は、うるるのことがすきなのね」
「――え、はぁ!?」
こいつは突然なにを言い出すかと思えば……。
「ちがうから。違う。違う」
僕の否定を上から否定し直すようにイツカは静かに言う。
「違くないわ。その願い方は慧念さんのものとは異なっている。それはもう――」
「あー! だから違うって言ったら違うってば! ただ僕はうるるが自分の力で選んだ幸福を手に入れることが叶えばいいなって想ってるだけ。ほら、あいつってなんでも『どれがいいかな?』とか『どうしたらいいかな?』ってすぐ他人を頼って自分の力で選択することから逃げるだろ? それが心配なだけで、好きとかそういうのじゃない!」
「え? いや、だから私はそれが――」
「ほらもうこんな話してないで学校まで行くぞ! 送れって慧念さんに言われたんだから」
イツカは「慧念さんも生然も私の話全然聞いてくれない! うるるの話は聞くのに!」と拗ねた様子でぷくーっと頬を膨らます。それに「悪いな、都合の悪い話は聞きたくないもんなんだ」と応対し、学校までの道のりを行く。
「じゃあもう恋愛感情どうこうはないってことでいいわ。それとは違う願いとして、生然はうるるに〝自分で選んだ幸福を手に入れてほしい〟って想っているのね」
僕の意見をやっと聞き入れるようになったらしいイツカの問いに「まぁ大まかにはそう」と答える。イツカは考えるように顎に手を当てながら小さな歩幅で道を進む。
「それを叶える方法に心当たりがあるわ」
僕は思わず「はぁ?」と怪訝な顔をする。それを意に介さずイツカは続ける。
「うるるを【神様】にすればいいのよ」
強い風が一陣吹き抜けていって僕の髪もイツカの髪も乱れる。けれど彼女はそんなこと気にしておらず、僕と向かい合う。
「うるるが【神様】になれば【神様】の特別な力でいくらでも自ら選択する力や自身の幸福を叶える力を手に入れる事ができる、そうは思わない?」
うるるが自分の望んだ幸福を手にすることができる? でも、たしかに人智を超えた【神様】の力ならもしかしたらそういうことも可能なのかもしれない。
「うるるが次の【神様】になれば、彼女は思考する力と幸福を手に入れる力の両方を得られる。生涯村から出られないデメリットはあるけれど、その短所にさえ目をつむれば彼女が自分で決めた幸福を手にできることは喜ばしいわよね」
ざあざあと風があたりの木を揺らす。
「何度だって言うわ。うるるの幸福をどうしても手に入れさせたいのなら彼女を【神様】にすればいい――いえ、もっとはっきりした物言いをするならば〝【神様】にするしかない〟」
「するしか、ない……? どうしてそんなことが言い切れ――」
そのとき一際強く風が吹く。横から殴るように吹き付ける突風によろけそうになった。僕でさえ立っているのがやっとで飛ばされそうな勢いなのに、イツカは平然と姿勢良くその場に立って僕を見据えている。
「よく考えている時間なんてないわよ。叶えたい大切な想いがあるならとにかく願いなさい。きっと、あと何日もないんだから。じゃあまた明日ね」
そう残してイツカは夏の空気に溶けるように去って行く。
「おい! あと何日もないってどういう――」
イツカのいない校門前に僕の声が響いて消える。いつの間にか風はピタリと止んでいた。
うるるを幸福にする方法はあいつ自身を【神様】にするしかない、そうイツカは言った。
「それが手っ取り早いってだけでそれしか手がないってことはないだろ……」
……でももし、もし本当にうるるに、うるる自身の幸福を選ばせ叶えさせる方法があいつを【神様】にするしかないのなら……僕は……。
「願うよ。天にでも、仏にでも、神にでも、うるるに【神様】になってほしいって」
それしかできないのなら、できるかぎりのことを。願うことを許されているのなら、許されているかぎりのことを、僕は実行する。それが僕の精一杯だから。
瀬戸瀬麗瑠の幸福のために。
沈みかけの夕日を見つめながら、僕はただ、幸せを手に入れた瀬戸瀬麗瑠を夢に見ていた。