夏休み1日目 麗瑠視点
十時頃目が覚めたはずなんだけど気がついたら十三時を過ぎていた。そんな夏休み一日目。
「いいかげん起きなきゃ……」
重たい体を持ち上げて、目をこすりながらクローゼットを開ける。中から昨日も着たセーラー服を取り出してわたしは着替えをはじめた。
首元にリボンをつけて鏡で全身を見る。うん、制服はこれでだいじょうぶ。
「髪結ばなきゃ」
勉強机の上に置かれている白いヘアゴム二本と櫛を手に取って髪を結う。鏡を見ながら髪房を左右にひとつずつ作って、いつもどおりのわたしのできあがり。
学校に行く装いを整えたわたしは玄関に向かう前に兄ちゃんの部屋に寄って声をかける。
「兄ちゃんー、学校行ってくる」
部屋のドアが開く。わたしによく似た五つ年上の兄は「昨日終業式だったんじゃないっけ?」といぶかしげにこちらを見た。
「生然くんとイツカちゃんと三人で集まれる場所学校しかないよ」
「神社の集会場は?」
「鍵番のおじちゃんこわいもん。やだ」
「あー、うん、そうだよなぁ」
兄ちゃんは一度軽く首を回すと改めてわたしの方を向いて「明日以降も学校で集まるの?」と聞いた。
「うん。とりあえずみんなの宿題が終わるまでは集まると思う」
「じゃあ次からはうちでやんな。お友達呼んでも兄ちゃん怒んないから」
「いいの?」
「いいよ。生然は知ってるし、イツカって子もおまえの友達なら変な子じゃないんでしょ?」
「イツカちゃんいい子! 生然くんもいい子!」
兄ちゃんはわたしの様子を見て「そうかそうか」と笑った。
「うちでならおかしもジュースも出せるし遠慮なく呼べよ。じゃあ行ってらっしゃい」
「わかった。いってきまーす」
わたしはとたとたと足音を立てて一階に降りていく。そして玄関の地面でつま先を叩いて黒いローファーを履くともう一度「いってきまーす!」と兄ちゃんに声をかけて外へ出た。
河川敷を通り過ぎ、田んぼを通り過ぎ、神社を通り過ぎ、たまにすれ違うひとたちに挨拶をする。照る太陽の光を浴びながら、時折水を飲みつつわたしは学校を目指した。
わたしの住んでいる村に学校はひとつ。小学校も中学校も同じ校舎。村自体が小さく閉鎖的なこともあり村の外から来る人も村の中から出ていくひともあまりおらず、年単位の出生率も低いから生徒はかなり少ない。高校生になったら隣町の高校に進学するのがこの村の常識で、それ以外の学校や就職は最初から選択肢にない。兄ちゃんも兄ちゃんの友達も、みんなみんなそうやってきたから、わたしもわたしのクラスメイトも例外じゃなくその決まりに従う。兄ちゃんはそれをよくは思っていないみたいだけど、わたしはとくにどうとも思っていないのが正直なところ。
徒歩約十五分を歩いて歩いて歩き続けて、やっとわたしは学校にたどり着く。
「おはよ~」
教室の引き戸をがらりと開けると中にはすでに生然くんとイツカちゃんがいた。
「おはよう、うるる」
湿気のこもったぬるい空気がじんわり満ちる教室の奥からイツカちゃんの声が聞こえる。
「もうがっつり昼だけどな」
生然くんの小さなつっこみなど気にせずわたしはいそいそと自分の席についた。イツカちゃんはいつもどおりわたしの隣に、普段は背中を向けて座っている生然くんはわたしの机に自らの机をくっつけてこちらに向かい合う形で座っている。
「ねえねえイツカちゃん、ワーク写していい……?」
「いいわよ」
「いや来たばかりでそれはダメだろ。まずは自分の力で解けよ、うるる」
「でもうるる……わかんないってわかってるし……」
「それでもまずは自力でやらなきゃなんにも自分の力にならないだろ」
「……イツカちゃんは自分でやるのと写すのどっちがいいと思う?」
「あ、こら! またおまえはひとの意見に頼って!」
「だって……むつかしいんだもん……」
「ダメつったらダメだ。イツカも、夏休み終盤までは絶対写させちゃダメだからな。うるるを甘やかすなよ」
イツカちゃんはわたしと生然くんのやりとりを微笑ましそうに眺めて、くすくすと笑いながら「はーい」と返事をしている。
わたしは眉間にしわを寄せながら数学のワークを睨む。まったく、まったくわからない。
そんなわたしをおいて生然くんもイツカちゃんもさらさらとシャーペンを走らせどんどん次のページへ進んでいく。
カリカリとシャーペンが紙上を走る音がかすかに聞こえる中、わたしはか細く唸った。
「うぅ……わかんない……」
「……はぁ、どれがわかんないの?」
生然くんは手を止めて呆れたように溜め息を吐きながらわたしのノートを横目で一瞥する。そしてすかさず自分の目を疑ったみたいに二度見した。
「おい。なんでまだ問1の問題文しか書いてないんだよ? たぶん準備をはじめてから十分は経っただろう」
「だって、わかんないから」
「具体的にはどこからどこまで、どうわからないんだ?」
「……ここから、ここまで、なにもかも……」
「はぁー……、一番最初のページの上から下まで全部、それもなにもかもがわからないっておまえはなにを学んできたんだ? しかもそれ、二年の復習問題だし、授業で再三やったろ」
「はい……まったく……そのとおりです……」
「えっとね、うるる。単項式に多項式をかける乗法は、分配法則を使ってかっこを外して計算するのよ」
「??? にほんごで……」
「一応全部日本語よ」
「すまんイツカ。やる気がないわけじゃなくまじでわからないタイプのやつなんだ……」
「うん、わかってる。じゃあこれのやり方から教えるね」
イツカちゃんはこちらに椅子を近づけて自分のノートの新しいページを開くとわたしとの間に置いた。軽く近づいた彼女からふわりとどこか懐かしい香りがする。
「今日はまずこのページの問題の解き方を覚えようね。そうしたらあとの何ページかは応用みたいなものだからなんとかなるはず」
「イツカちゃん……! ありがとう!」
笑顔でお礼を言ったわたしの頭をイツカちゃんはよしよしと撫でた。柔らかくて心地よい感触が頭部に伝わる。撫でられたのがうれしくて、わたしはふにゃりと頬を緩ませた。
「あ、あのね、そういえば兄ちゃんが明日からも集まるならうち使ってもいいよって言ってたよ! だから明日からはうちで宿題やろ?」
「麗璃さんが? まぁでも学校で集まるより都合がいいかな。制服着なくていいし」
「うるるの家に行ってもいいの? うふふ楽しみだなぁ」
「兄ちゃんがね、おかしもジュースも用意できるって言ってた!」
「お兄さん優しいのね」
「うん! 兄ちゃんやさしいよ! この前もね――」
兄ちゃんの自慢をするようにお喋りを始めかけたわたしに生然くんは「手を動かせ」とぴしゃりと注意する。「あぅ……」と情けなく声をもらして、わたしは形だけでも学習しているように振る舞おうとシャーペンを握る手をノートに乗せた。
それからわたしは生然くんとイツカちゃんに教えてもらいながらなんとかワークを三ページ終わらすことができた。
あっという間に時間は過ぎ十七時を報せる鐘が鳴り響く。
「はー、一日目でこれだけ進めば上等だろう。疲れたしもう帰るか?」
「かえるー!」
「うん。みんなが帰るなら私も帰ろうかな」
ふたりが荷物をまとめはじめたのを確認してわたしもノートや筆箱を鞄にしまう。そして三人揃って職員室に挨拶に行って学校を出た。
校門をくぐってすぐ、イツカちゃんは「またね」と言ってわたしたちと別方向に足を向ける。彼女の家はわたしたちの家とは反対にあるらしくいつもこう別れるのが常だ。
「イツカちゃんまたね! 明日はうるるのおうちで宿題しようね」
「うん。あ、うるるの家って河川敷の方よね? 具体的にはどのあたり?」
「あっそっかイツカちゃんうちに来たことないもんね。河川敷にあるとなり町と繋がってる橋の近くにぽつんとおっきい家があるの、そこがうちだよ。庭にバスケットのゴールとかあるから近くで見ればすぐわかると思う!」
「わかった。庭を覗いてみてバスケットゴールがあったらうるるの家ね」
「待ち合わせ時間決めておけば? 時間になったら外でイツカを待てばいい」
生然くんのアドバイスに同意し、わたしたちは明日の十三時に瀬戸瀬家の前で待ち合わせすることになった。
改めてイツカちゃんに「またね」を言って、わたしと生然くんは歩き出す。
遅めの梅雨明けから本格化してきた夏。十七時を過ぎても日が落ちることはなく太陽はさんさんと元気で、まだまだとっても暑い。
神社の前で生然くんとはお別れ。彼は「じゃあな」と一言放ってわたしに背を向けた。だがなにか思うことがあったらしい、すぐに振り返って再び口を開く。
「うるる、わかっていると思うけどおまえの学力やペースだと家でもなるべく麗璃さんに教えてもらったりして宿題を進めておかないと夏休みの間に全部仕上がんないかもしれないからな。僕やイツカに写させてもらう前提で過ごすなよ。……また明日、一緒にがんばろうな」
「うん……。また明日、みんなとがんばる……」
前向きなようで消極的なわたしの返事に仕方がないというふうに笑った生然くんは「またな」とこちらに軽く手を振って神社の裏手に去っていく。その彼の背をただ眺めた。
やっぱり彼の背中は出会ったころより広く大きい。
じりじりと肌を焦がすように照りつける太陽から逃げるように晴天の下をひとりで歩き出した。家に帰ればきっと冷房でひんやり冷えたリビングでアイスが食べられるはず。
「明日は、ちょっと曇ってたらいいなぁ」