スカウト(佐倉ミチル)

 高校を卒業したら大学生になれると思っていた小さい頃の俺に今の俺を見せたなら、一体どんな顔をするだろうか。

 散ってしまった四月半ばの桜と自分と同い年くらいの学生を見ると、どうして俺は生きているんだろうと漠然と疑問に思った。

 大学に行きたかった。音楽のことを学びたかった。

 将来を見据えた気になって中学の頃の文集に音楽の仕事に就くために音大に行きたいと書いたことがある。独学でもある程度理解出来ていたからプロの元で学べばもっと好きなことについて知れると思っていた。そうなってほしかった。

 高校二年に進級してすぐの頃、親は就職希望だということを知った。大学に入れる金も、入学してから通い続ける金も出すつもりはないことを知ったのも同じタイミングだ。

 実はなんとなく察していたんだ。ピアノを習いたいと言ったときも「女がやるものだ」と遠回しに反対され、誕生日にギターが欲しいと頼んだときも「不良がやるものだ」と一蹴された。

 多分俺は、両親ともにそういう人間であることを知りながらずっと見ない振りしていたんだ。

 進路を本格的に決めなければならなくなったとき、親に相談せずに実家から少し遠い音大の資料を請求した。近所にもっと通いやすい学校があったが家を出たかったのもあって遠いところをあえて選んだ。

 その資料は俺が中身を確認するより前に親に捨てられた。

 聞くところによれば俺には音楽の才能がないから駄目なのだという。親の目から見て才能がないから、きっと金にならず生きていけないから駄目なのだと。

 金にならない夢は追うなと二人揃って俺を責め立てた。だから俺も反発して「お前らからの援助は一切受けない」と宣言し自分で金を貯めることに決めた。

 それからはひたすらバイトに明け暮れる日々だった。高一までに築きあげた人間関係を全て捨てて働ける時間一杯までシフトを入れて出来る限り働いた。けれど進学出来なけば本末転倒だと絶対に学業の手も抜かなかった。

 決して辛くなかったわけではないが自宅で針のむしろに座る思いをするくらいなら余程気が楽だった。

 目標金額には足らなかったが妥協が出来る程度には金も集まり、受験をし、そして念願叶って合格した。学費やバイトをしながらなら当分一人で暮らしていける金もある。あとは親戚にでも保証人になってもらって家を出れば俺がバイトに励んだ二年間は報われる。

 そのはずだったのに。

 ある日家に帰ると家電がいくつか変わっていた。冷蔵庫が少し大きくなり、洗濯機が乾燥機付きのものになっていた。

 そんな金が易々出る家庭じゃないことくらい十八年この家で育ってきた俺が一番よく分かっていた。だから俺は、震える手で棚の奥の奥に隠していた通帳を開いた。

 目眩がした。一日じゃ到底消え失せない額がマイナスになっていた。

 未成年の口座から親は容易に金を引き出せることを知ってこうなることが予想出来ていたから通帳も印鑑も別の所に隠したり定期的に場所を変えたりしていたのに。それでもなおこうなってしまった事実に耐えきれず俺は人知れず吐いた。

 もうこれ以上ここに居てはいけないと、速やかに出て行かなければ貯金だけではなく俺の人生までも食い潰されてしまうと悟り、荷物をまとめるのもそこそこに家を飛び出した。

 親戚の元にはいけなかった。迷惑を掛けるとかそういう問題ではない。もう完全に縁を切りたかったんだ。

 転がり込んだ先は家から六駅離れた駅前の格安ネカフェで、それから俺はそこの住人になり果てた。

 来る日も来る日もネカフェ内に備え付けられたフリーサービスを食し、小さなシャワールームで身を清め、パソコンの前に設置された小さくて硬いソファの上で膝を抱えて横になる。俺は酷く惨めだった。

 そんな生活が一変したのは本当に突然だった。

 たまには自分を甘やかさないと心も頭もおかしくなると思い、忘れもしない四月二十一日、十九の誕生日に自分への褒美と称して好物でも食べようと外へ出た。そんな折だった。ネカフェがある通りとは反対側へ歩いて行く俺に一人の男性が話しかけてきたのは。

 その人は小綺麗な服装をしていて、俺の父親と同じか少し下くらいの年齢に見えた。

「すみません、今お時間よろしいでしょうか」

 いつもならそういうキャッチっぽい声かけには立ち止まらないのだけれど、そのひとはどこか紳士的なオーラが出ていて、俺はいつの間にか話を聞く姿勢になっていた。

「はい?」

「突然すみません。わたくしこういう者で、芸能事務所を経営しております」

 芸能事務所? と疑問げに返事をし、彼が差し出した名刺を受け取り目を通した。

『ダリアプロダクション 代表取締役社長 天城暁』

「設立したての芸能事務所です。その所属者さんをスカウトしていまして」

 芸能人のスカウト? 俺が?

 にわかには信じられなかった。何がこの人の目に留まったのか本気で分からず、俺は怪訝な顔をした。けれど興味がなかったわけではなかった。

 むしろ、逆だ。

「事務所所属者って音楽関係ですか」

 音楽業界に携わりたい、それだけが俺の全てだった。

 俺の言葉を聞いた男性は少し驚いたように目を見開くと嬉しそうに微笑んだ。

「はい。アイドル業界に携わる方を探しています」

「アイドル……」

 その業種はもっとも予想外だったがむしろ今にして思えば至極打倒な返答だったのかもしれない。ボーカルならまだしも流石に演奏経験の有無を聞かずにバンドマンを募集する方が変な話だし。

 しかし音楽関係なことは確かだ。作曲志望だったが今はもう音楽に携われるだけで嬉しかった。だが、

「あの、とても興味がある話なんですが」

「はい」

「俺、今ネカフェで生活していて、住民票は実家なんですけど、実質住所不定みたいな感じで。それでもなれるのかなって」

 男性は意外だという顔をしていた。そうだろう。外見は年相応のはずだから、成人もしていないような人間がネカフェ難民をしているという事実に驚いているのだろう。

 それでも男性は意を決したように俺に提案した。

「それなら尚更うちの事務所に入ってほしいです。大きな事務所とは言えないが設備は整っています、所属者や職員向けの寮もあります。デビューするまでお給料は払えないのだけれどレッスンは無料で行うつもりですし、少なくとも住所不定は回避できるようになる」  そう言って俺の手を取った。

「もし君が音楽業界へ向かう第一歩の行き場に困っているのなら、その足の置き場にうちの事務所を選んでほしい」

 喧騒がずっと遠くに聞こえる。それほどまでに俺の耳には目の前の男性の声しか届いてはいなかった。

「……あの、俺」

 おそるおそる言葉を紡ぐ。

「俺、アイドル、やってみたいです」

 そう言うと男性は笑った。そんな安心しきった笑顔は今まで誰の顔でも見たことがなかった。勿論親や自分のものでさえも。

「それでは連絡先を伺ってもよろしいでしょうか。こちらの連絡先は先程渡した名刺をご覧いただけたら幸いです。入所と入寮の書類が整いましたらこちらからご連絡させていただきます」

 ちょっとしたドッキリではないかとまだ少し思っていた。けれどそれも数日後本当に電話が掛かってきたときに嘘ではなかったと再認識した。

 その後すぐ、一ヶ月ぶりくらいに実家に戻った。帰ったという言葉は使いたくはなかった。俺は今日ここに、書類に印鑑をもらいにきただけだ。

「こことここ、サインして印鑑押して」

 そう言えば親は黙ってペンを取った。怒鳴られるくらいは覚悟していたがそういったことはなかった。ただ一言「仕送りはしてくれるのか」とだけ言われた。

 親は俺に書類を突っ返しながら、毎月十万はほしいと宣った。

 書類を仕舞い、鞄を肩に掛け立ち上がると両親の顔を見た。

「仕送りはない。成人したら、あなた達とも親戚とも縁を切る準備を本格的に始めます。十八まで育ててくれてありがとうございました、十九からは自分の力で生きます。寮には絶対に来ないでください、あそこは事務所の持ち物です。勝手に入ったら不法侵入になります。あまりに接触を図ろうとする場合は事務所を通して警察に通報します」

 最後に「もう親だと思ってないから」と捨て台詞を吐いて家を出た。肩の荷を下ろすことがこんなにも清々しいことだと初めて知る。軽くなった身で見上げる空はとても高かった。

 そのままの足で社長の元へ書類を提出しに行った。そして四月下旬。俺はその日、契約上アイドルになった。

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