デビュー前の波乱

 私を呼ぶお母さんの声が聞こえた気がして目が覚める。カーテンの隙間から注がれる細い光の筋が眩しくて、それを遮るように夏用の掛け布団をぐいっと引っ張り上げ顔を覆う。目覚まし時計が鳴ったら体を起こそう。それまではこのまま、暖かい布団の中で丸まっていよう。

 でもそれは叶わないようだ。部屋の扉が開いてお母さんの声が響き渡る。

「詩子! 起きなさいって!」

「目覚まし鳴ったら起きるよ……」

「鳴るわけないでしょ! もう起きる時間過ぎてるよ!」

 うっそだ~とヘラヘラしながら見上げた枕元の時計はとうに起床予定時刻を過ぎていた。

「ぉわ!? 遅刻だ遅刻! もう無理、電車間に合わないよ、どうしよう!」

 振り返った先で仁王立ちしているお母さんは「まずは事務所に遅刻するって連絡を入れなさい!」と眉をつり上げている。

 言われた通り慌ててマネージャーに電話を掛けた。入所してから遅刻するのなんて初めてだから、迷惑掛けてないかなとか怒られないかなとか、コールの間にいろんなことを考えて涙が出そうだった。

 繫がるのにいつもより時間が掛かったが、しばらくして、もしもしとお決まりの言葉が受話口から聞こえてくる。

「おはようございます、百瀬詩子です! 遅刻して行くのでレッスンの開始に間に合わないかもしれないです、ごめんなさい!」

 学校への連絡はいつもお母さんがしてくれていたし遅刻の電話を自分でしたのはもしかしたら初めてかもしれない。言葉はこれであっているのだろうか……。

「承知致しました。詩子さんはまだご自宅にいらっしゃいますか?」

「はい、でも間に合うように今すぐ家を――」

「いえ、社用車でそちらに向かいますので僕が迎えに行くまでご自宅でお待ちください」

 マネージャーの声色はなんだか切羽詰まって焦っているようだったけど同時に少し安心したような雰囲気も含んでいた。

 電話を終えたあとお母さんに「マネージャーが迎えにくるって」と伝えると、デビューも近いんだから気を抜いちゃだめよと注意される。反抗する気にもなれないもっともな指摘に「はい」と大人しく返事をした。

 落ち込んだ調子のまま朝ご飯を食べにリビングへ向かう。テーブルに置いてあったリモコンを手に取り電源ボタンを押すとディスプレイのランプが赤から緑に変わる。パッと映し出された画面には瞬くストロボの光と大勢の報道陣。ある人は自分の局のカメラに向けて声を発し、またある人は溢れかえる人の中で必死にカメラを構えている。

 リポーターから外されたカメラが後ろの建物を大きく映し出す。その慣れ親しんだ外観にハッとして画面隅の見出しに視線を移した。

『αIndi れい 電撃移籍』



 マネージャーが運転する車の中から見た事務所の玄関はテレビで観た光景そのままだった。あまりの人の数に前からは入れないからと私は裏口に案内された。

「詩子さんが家を出る前でよかった。なにも知らずに囲まれたりしたらきっと怖かっただろうし、大変なことになっていた」

 事務室に挨拶に行くと社員さん達が鳴り響く電話に翻弄されていた。普段はおっとりしている江坂さんもぐるぐると目を回しながらあっちの受話器を取ったりこっちの受話器を取ったり、忙しなく動いている。

「あの、社長は?」

「事が大きくてなかなか収拾がつかないから近くに会場を借りて会見を開くって、多分事務所の前から人を払う意味合いもあるんじゃないかな」

 そっか、社長もお仕事で出掛けているのか。何となく、社長の顔を見たら安心できそうな気がしていたから残念な気持ちが一層強くなってしまった。

 レッスンルームに向かうとレイちゃんとミチルちゃんが壁にもたれてぐったりしていた。まだレッスンは始まっていないようだが、私の目にはどちらもすでにかなり疲れているように見えた。

「おはよう、だいじょうぶ……?」

「まぁ、うん。朝からあの群れに揉まれて少し大変だっただけだ。気にするな」

「巻き込んじゃってごめん」

「謝んな。お前に関係あることだけどお前のせいじゃないだろ」

 ミチルちゃんの厳しくも優しい言葉を聞くたびにレイちゃんの顔が曇っていく。

「あの、詩子はあんまり詳しくないんだけど、移籍の発表ってこんなに遅いの?」

 レイちゃんがうちの事務所に移ってから一ヶ月近くが経っている。手続きはとっくに済んでいるはずなのにどうしてデビュー直前になってこんなに騒ぎになっているのだろう。

「普通はもっと早く済むはずなんだ。そう、普通は。何というか、俺の場合はそれほど円満とは言えなくてね、社長にも社員さんにも、ミチルにも詩子にも迷惑を掛けてしまった。Light Pillarのデビューも近いっていうのに」

 しゅんとするレイちゃんにつられて私の眉もハの字に下がる。

 そんな私達を無視してミチルちゃんは立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「ミチルちゃん? どこ行くの」

「先生を呼んでくる。お前らは何しにここに来た? 全員揃ったんだ、いつまでもしけた顔してうだうだ駄弁るくらいなら練習した方がいいに決まっている」

「至極理に適っているね」

「根っこがそういう人間なもんで」

 どうやらミチルちゃんは〝そういう人間〟? らしい。レイちゃんが笑って後ろ姿を見送っていたからきっと良い意味なんだろう。



 ミチルちゃんが改めてレッスンルームに戻ってきたとき、後ろには上條先生も一緒だった。足でドアを閉める様を見て、この先生は踊りのこと以外は本当にがさつだなぁと感じた。

「開始時刻を大幅に過ぎてしまってすみません。ちょいと打ち合わせが長引いた」

 先生は手元の書類に視線を落として難しそうな顔をする。

「全体の稽古内容は普段と変わらず、通しで踊って、細かいニュアンスを身につけるといったことを行う。ただ――」

 先生がふぅと息を吐く。

「会場がだな、事前に手配していた場所よりいくらか大きくなる。理由は単純だ、観客の動員数を増やす、それだけだ。会場のサイズに伴ってステージも大きくなるが、そうなると今のままじゃ少々こぢんまりしたパフォーマンスに見えかねない。ということで、構成をやや変更したり歩幅の調節や迫力のある見せ方などの応用的なことを重点的に指導する。デビューライブまではこれがメインになるだろう」

 ♪♪♪

 明るい日差しが入り込む休憩室にガリガリとシャープペンシルを走らす音が響く。レッスン後恒例のまとめタイムだが今日はなにかと書くことが多い。それは手の横が真っ黒になってしまう程だった。向かいでペンを走らせるミチルちゃんも目が疲れてきたらしく目頭を押さえている。

「今日は書くことが多いね」

 そう話しかけたら、ミチルちゃんはノートにつらつらと文字を書きながら「レイと詩子の位置がかなり変わったからな。俺も同様だが」と呟く。

 そう、私の移動位置が大幅に変わったのだ。

「う~ん、移動がね、やっぱり上手に出来なかったから。移動できないんなら最初から目的地の近くに置くしかないもんね」

 何度やってもみんなより遅れてしまうところが多々あった。『ゆっくり歩きながら移動』という振りがついている場所で、ミチルちゃんとレイちゃんが歩いているのに詩子だけ早足で移動するわけにもいかなくて……、間奏の尺と歩幅の都合上仕方がないと先生は言っていたがちゃんと出来ないのはやはりとても悔しかった。

「センター減ったの気にしてるか?」

「ううん。これが一番綺麗に見えるんならその方がいいと思ってる。それにアイドルにとってセンターって重要じゃない? 目立つ人とか人気がある人が真ん中にいた方がいいと思う」

 そんなもんかと気のない返事をしたあとミチルちゃんは大きく伸びをした。

「まぁいいや。お前があまり気にしていないようで何よりだ」

「? なんで詩子が気にすると思ったの?」

 私の問いは意外だったらしい。上にあげていた腕をすとんと下ろすとじっと私を見つめてくる。

「だってアイドルに憧れてたんだろ? 俺はよく分からないがそういうやつはセンターにも憧れるんじゃないのか?」

 なるほど。

「そういう子もいっぱいいるね。でもセンターじゃなくてもアイドルはアイドルだよ。真ん中にいても、端っこにいても、ステージを楽しめてファンも楽しませられればそれはアイドルだと思う。……ちやほやされるためにアイドルを選んだのなら別だけど、それはアイドルでもモデルさんでも役者さんでも良いわけで、『アイドルになりたくてアイドルになる子』っていうのはセンターを夢見るより先にステージに立つこととか自分のパートを持つこととか、もっと他のことを目標にすると思う」

 腕を組み、頷く様子を見るに少しは納得してくれたらしい。意外に良く考えているんだななんて言うから「好きなことだからね!」と元気よく返した。

 そんなときガチャと音を立てて休憩室の扉が開いた。レイちゃんだ。

「レイ、どこ行ってたんだ」

「ちょっと社長と話し合い。ホームページに載せる移籍の謝罪文とか」

「……謝罪? なんでレイちゃんがごめんなさいしないといけないの?」

「うーん、なんというかな、大人はね、自分が大きな話題の中心になったらそれが良い内容でも悪い内容でもまずは『お騒がせして申し訳御座いません』って大衆に伝える義務があるんだ。そういうこと」

〝そういうこと〟と言われてもやっぱり分からない。これは私がこどもだからだろうか。

 ほんの少し心にモヤモヤを抱えているとレイちゃんがポンっと手を叩く。

「そうだ、伝言があって来たんだ。社長がね、まだ正門に記者が残っているから江坂さんに車を出してもらって全員送るからもう帰りなさいって。ほら二人とも、準備してみんなで帰ろう」

 そう言って私達を急かすレイちゃんの瞳を私はじっと見つめた。彼の表情がなんだか辛そうに見えたものだから。

「レイちゃん、大丈夫?」

「ん? なにが?」

 声の調子はいつものレイちゃんだ。気のせいかなと思って、なんでもないと笑いかけ自分の荷物を手に取る。

「ねぇレイちゃん」

「なぁに?」

「ライブ楽しみだね」

 一階から早くしろーとミチルちゃんの声が聞こえてくる。彼はもう階段を下りてしまったらしい。

 レイちゃんは少し黙ったあと「そうだね、良いライブにしようね」と微笑んでくれた。 

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