気を抜かずに、でも気楽に
初めてのレッスンから二週間が経った今日はとうとうボーカルテストの日。開始時間の一時間前にレッスンルームに向かうとそこには既に彼がいた。
「ミチルちゃん! おはよう!」
彼とはカラオケ以来顔を合わせていなかったらこうして話すのは久しぶりだ。怪訝な顔をしてこちらを見るミチルちゃんに構わず、私はストレッチを始める。
「名前で呼ぶのは許可したし、まぁわかるんだけど、俺はどう見たって『ちゃん』ってなりはしていないだろう」
呼び方についてなにか言われることは予想していた。けれど私はこう呼ぶと心に決めて今日ここに足を運んだので変更するつもりはないとキッパリ伝える。根負けしたのか、それとも端からさほど気にしていなかったのか。渋々といった様子ではあるが意外にもすぐに彼は了承を口にしてくれた。
だんだん慣れてきて気がついたけれどミチルちゃんは結構私に甘いのかも。
ストレッチも声出しも終わった頃に中原先生がレッスンルームに入ってくる。二人揃って先生の方を向いて立ち上がり挨拶をした。先生の表情は長い前髪に遮られて今日も拝めなかったが立ち振る舞いを見るにいつもと変わらずのようだ。
「佐倉くん百瀬さんおはようございます。体もほぐし終わっているようなので僕の準備が終わり次第一人ずつテストを行います。どちらが先に受けるかは二人で話し合って、待っている方は側に座ってテストの様子を見ていてください」
どちらが先に受けるか……。多分後に受けた方がテストの流れがつかめるはずだからやりやすいと思う。ミチルちゃんはまだ緊張に弱いし、後にした方が安心して歌えるかも。
「詩子が先でもいい?」
そう聞くと黙って頷いてくれた。以前より表情に自信と余裕があるように見えるけれどやっぱり緊張しているみたいで、彼の視線は小さく揺れていた。
「それでは今からテストを開始します。先に受ける方は前へ来て下さい」
先生から号令がかかり指示通りにキーボード前に立つ。ミチルちゃんの心配ばかりしていたけれど今は自分のことを全力でやらなければ。
何度も聞き込んで何度も歌った課題曲のイントロが流れ始める。音をよく聴いて、ピッチを外さないように、リズムを乱さないように――。
歌い出し、第一声がしっかり出たことに安堵する。ちゃんと声が鍵盤の音に当たっている感じが続いていて、そのまま流れに身を任せて歌い通した。自惚れかもしれないけれど、練習の時よりもずっと上手に歌えている気がする。至らないところもきっとあっただろうけれど自分が満足できる歌を歌いきることができた達成感に胸が高鳴った。
「それじゃあ百瀬さんは後ろに下がって、次は佐倉くんが前へ」
先程私が立っていた場所にミチルちゃんが向かう。すれ違うときにチラリと見えた横顔には緊張と気合いが浮かんでいた。心の中で頑張れって応援しながら彼の背中を見つめる。
イントロ部分が流れ数秒で歌い出しが始まる。以前のミチルちゃんだったらきっと声が上擦ってしまったり詰まったりしていただろうけれど、今私の耳に流れ込んでくる歌声はレッスンのときよりもカラオケのときよりもとても綺麗で澄んでいて透明だった。
ミチルちゃんが歌い終わりじきに曲も止まる。
小さく息を吐いて譜面を見つめる先生の姿はとても穏やかだ。その雰囲気を纏ったまま私達へ向けて手招きをして招集をかける。二人揃って再びキーボードの前に駆けより先生を窺う。先生は「ちょっと待っていて」と言い残して部屋を出たかと思うと社長を連れてすぐに戻ってきた。二人とも嬉しそうな様子で口元を綻ばせている。
「テストの結果ですが二人とも合格です。おめでとう」
合格という言葉にミチルちゃんと共に胸を撫で下ろす。安心しきっている私達へ中原先生は話を続ける。
「それで合格祝いの社長からのご褒美なんだけど」
あ、そういえばそんな話があったはず。テストに意気込みすぎてすっかり頭から抜けていた。
中原先生に勧められて社長が一歩前へ出る。満面の笑みという言葉がよく似合う、とても良い笑顔だ。
「合格おめでとう。二人ともよく頑張ったね。ご褒美――と言ってもなにか高価なプレゼントがあるとかではないんだ」
社長はガラガラとキャスターの付いたホワイトボードを引いてくるとそこにアルファベットを書き始め、全て書き終えたあとペンのキャップを閉めた。
エル、アイ、ジー……うーん? 一個一個は読めるけど単語になるとわからない。
「ライト、ピラー?」
社長が書き上げた文字をミチルちゃんが疑問気に読み上げる。
「そう『Light Pillar』意味はそのまま光の柱だ。地上にある街灯の光が大気中の氷晶に反射することによって空に光の柱が生じる、大変珍しい気象光学現象のことをそう呼ぶ」
なんだか難しい話になってきた。これはたぶん理科の授業でやる話なのではないかな?
私が頭の上に「?」を沢山浮かべていることが伝わったらしい。話が脱線してしまったねと笑いながら社長は本題を説明してくれた。
「君たちは三ヶ月後の八月にデビューが決まった。お披露目会という名目でライブを執り行う予定だ。これは君たちのユニット名で、君たちはこれから自分の名前と共に『Light Pillar』を名乗ることになる」
――私達はLight Pillarで、八月にデビューする……。
ご褒美が想定よりも大事で、ドキドキとわくわくによりテスト前よりも激しい動悸を感じる。
「それと、これが君たちのデビューシングルのデモだ。これに君たちの声が入るんだよ」
そう言って流してくれた曲を私とミチルちゃんはよく知っていた。
このアップテンポのかっこいい曲はダンスレッスンで使っているあの曲。でもいつも聴いているものと違ってちょっと編曲が施されていて音に厚みが増している気がする。メロディラインの音色も強調されており多分ここに歌詞が乗るんだと胸が高鳴った。
「これからのレッスンはデビューシングルのレコーディングに向けて指導を行います。次のレッスンまでにこのメロディと歌詞を覚えてきてください」
中原先生から歌詞が印刷された譜面とCDを受け取る。印刷された言葉の列に胸が躍る。これが私たちのデビュー曲なんだ。
感動する私の隣でミチルちゃんはなにかにピンときたらしく口を開く。
「あの、もしかして今ダンスレッスンでやっている振りって――」
社長はいつもの微笑と柔らかな声でミチルちゃんが言いかけたことを肯定する。
「佐倉くんはなかなか察しがいいね! そうとも、デビューライブではこの曲を歌いながらあのダンスを踊ってもらうよ」
♪♪♪
二階の休憩室のソファにもたれる。気を張り詰めていたテストも重大発表だったご褒美も終わり、私の電車待ちと今後の相談を兼ねて二人でここへ来た。少し疲れた面持ちの私と違いミチルちゃんは色々と吹っ切れたような清々しい顔をしながら芸能雑誌を読んでいる。
「ミチルちゃん、デビューですってよ。らいとぴらーですってよ」
テーブルに両肘をついて語りかける私を一瞥すると彼は雑誌に視線を戻す。
「芸能事務所にいるんだからデビューもするだろうよ。詩子はアイドルになりたくて頑張ってたんだろう? だからもっとはしゃいでわかりやすく喜ぶと思っていたけど」
雑誌のページを捲りながら発せられる言葉に「そうなんだけど……」と煮え切らない返事をする。
めちゃくちゃ嬉しいのは事実だ。今まで頑張ってきたなかで一番『自分はもうアイドルなんだ』と実感できているんだもの。
ただ、これからはなにもかも初めてのことばかりになる。レッスンやテストは養成所でもあった。だから緊張はしてもまだ余裕があった。それこそミチルちゃんを気に掛けるくらいの余裕が。
心のモヤモヤを晴らすために私を放って雑誌を読みふけるミチルちゃんに絡みにいく。「ねぇ、それなに読んでるの?」
「あぁ、アイドルの予習でもしとこうと思って、男性アイドル特集を読んでる」
ミチルちゃんの隣に移動して雑誌を覗きこむ。
「
αindi
……。このユニット、今どこに行っても見るよねー。事務所の最寄り駅にも大きい広告出てるし、電車の広告もこの人達ばっかり」
「今一番人気なんじゃないか? どのチャンネルつけても大体出てるし。きっと休みなんてのはないんだろうな」
そう言いながら私がまだ読んでいる最中なのも気にせず雑誌を閉じてしまう。
「俺たちは完全に新人だしこんな大物と接点が生まれるのもまだ先だろう。俺たちは俺たちの今を考えるべきだ。具体的に言うとデビューについて」
「デビューの話はさっき詩子が出したのにミチルちゃんが流したんじゃん
むっとして眉をつり上げると彼は分が悪いといった様子で「すまん」と静かに謝った。
「デビューについて考えるとは言ったが俺たちに考えられることなんてたかが知れているな。悪い。現状は話し合いとかじゃなくて各々が練習なりして実力をつけるしかないし、最悪練習せずに待っていても八月は来てしまう」
わかってはいたけれど、やっぱり今は真面目に練習する以外に手はないみたい。
もどかしさを感じつつテーブルにべたーっと張り付いていると「時計を見ろ。お前はいつまで電車待ちしているつもりだ」と冷たくあしらわれる。言われるがまま休憩室の時計を見ると丁度良い時間だった。
荷物をまとめてリュックを背負うとミチルちゃんも席を立った。二人揃って事務室の江坂さんに挨拶を済ませて事務所を後にする。
事務所の門前で別れるときミチルちゃんが私の肩を軽く叩き小さく笑いかけてくれた。
「デビューが決まったことと俺たちがLight Pillarだってことはもう決まったことなんだ。気を抜かずに、でも気楽にやろうぜ」
ミチルちゃんが今までにない前向きな発言をしていてちょっと驚いてしまった。どうやらボーカルテストに合格してデビューも決まって本当に色々吹っ切れたらしい。
いつにも増してやる気に満ちているミチルちゃんにつられて私も笑顔になる。
そうだね、ミチルちゃんの言う通りだ。決まったことに真剣に、だけど力を抜いて取り組めばいいだけ。
♪♪♪
家に帰ってからお母さんにデビューが決まったことを報せると涙を浮かべて喜んでくれた。すぐにお父さんに電話をかけてケーキを買ってくるように伝えている。
嬉しそうに話すお母さんを見ていたらなんだか私まで涙が出そうになって、それを誤魔化すために慌ててお風呂場に逃げた。
湯船に浸かりながらこれから起るであろういろいろなことに思いを馳せる。レコーディングにデビューライブ……あとはどんなことをするのだろう。
なにが起るかも、どうすればいいのかもわからないけれど、きっと大丈夫。
ミチルちゃんが言っていた言葉を忘れないように小さく口に出す。
「気を抜かずに、でも気楽に」