強化レッスン(佐倉ミチル)

 初レッスンから一週間が経とうとしていた。初回を含めてダンスもボーカルもそれぞれ三回のレッスンが行われ、自主練の成果もあってか躓きつつも着々と次のステップへと進んでいっている。ダンスの成果は良好らしく上條先生にも上出来だと褒められた。

 問題は一週間を切ったボーカルテスト……。問題と言っても私のことではない。どうにも佐倉さんの調子が良くなさそうなのだ。

「佐倉さんは大丈夫だって言ってたけど、やっぱりあれは大丈夫じゃなかったんじゃないかな」

 最初のレッスン以降なかなかタイミングがつかめず結局まだなにも話が出来ていない。

 佐倉さんはレッスン中以外常に音楽を聴いている。イヤホンを付けたままノートに向かってその日の復習を書き記し、それが終わるとすぐにイヤホンを付けたまま寮へ帰ってしまう。正直、佐倉さん単体でも決して話しかけやすいわけじゃない。でもあのイヤホンは間違いなく話しかけづらさを倍増させている一端であるはず。

「……よし、今日こそは勇気を出して話しかけてみよう! 出来れば佐倉さんが音楽を聴いていないときに!」

 元気の良い独り言とともに顔を上げた先は事務所の正門の丁度前だった。今日はレッスンはなにもない日だけれどボーカルテストも近いことだし平日はなかなか来られない自主練に休日くらいは来るべきだろうと思って事務所に足を運んだのだ。

 事務室へ顔を出し江坂さんに挨拶を済ませると地下のレッスンルームへと下りていく。のんびり着替えを済ませボーカルルームへ向かうと、部屋に近付くにつれてドアにはめられた磨(す)りガラス越しに体躯の良い人影が見えた。このガラス結構透けるんだな、などと考えながら、同時に私は既に自主練をしている彼にどう声をかけようか思慮し始めた。だが大して良い考えは思い浮かばず、結局無策のままボーカルルームの扉をゆっくり開ける。扉の開き加減に合わせてだんだんと音が鮮明になっていく。

 聞こえてくる歌声は間違いなく佐倉さんのもので、だけどなんだかいつもよりリラックスしているというか、今まで聴いてきた佐倉さんの歌よりも何倍も魅力的に聴こえた。  おそるおそる扉から顔を覗かせると物音で私の存在に気がついたのだろう。彼は歌うのを止め、くるりとこちらを振り返り私と目を合わす。そして小さく遠慮がちに「おはよう」と声を掛けてくれた。その行動にきっと深い意味はなく、礼儀として声を掛けてくれただけなことは分かっているのだけど、佐倉さんの方から話しかけてくれたことが嬉しかった。

「おはようございます! 詩子も一緒に練習しますね!」

 私の元気いっぱいのちょっとうるさい挨拶に佐倉さんは少し気圧されながら「うん」と相槌を返してくれた。

 私が柔軟を始めると佐倉さんは再び歌い始める。数分間そのまま佐倉さんの歌声を聴いていたがなんだかさっき聴いた綺麗な歌声と今の歌声はどこか違う気がして違和感を覚える。なんて言うか、声は同じなんだけど少しぎこちないような、喉が抑えられているような。中原先生が「力が入りすぎている」って注意する歌い方になっている。

 私は佐倉さんの顔を上目遣いで窺う。彼自身もさっきより声の出が悪いことに気がついているらしい。喉の辺りを触りながら何度か歌い直しているみたいだが納得出来ないといった様子で床を見て溜め息を吐いている。その顔は初レッスンのとき私に「大丈夫」と言った難しい顔と瓜二つだった。

「あの、喉の調子大丈夫ですか……?」

 数分で急に喉の調子がおかしくなるなんてことがあるのかは私には分からないけれど、なにか引っ掛かりがあることは確実だと思う。多分これが佐倉さんの最初の課題なのかも。

「……さっきまで調子良かったはずなんだ。体調も、風邪とか引いてないし問題ない」

 私が感じたように少し前までは確かに調子は良かったようだ。技術的な問題でも体調不良でもない、それってもしかして……。

「……――実は、理由はなんとなく分かっている」

「……! 心当たりがあるんですか?」

 てっきり原因が分からないせいで悩んでいると思っていたから、思いもよらなかった言葉に小さく驚く。

「なんなんですか、原因って」

 私の質問に佐倉さんはふいっと顔を逸らす。そしてどこかの銅像のように口元に手を当てると眉間にしわを寄せた。

「笑わないか」

「笑ったりしないです!」

 それからたっぷり時間を掛けて、佐倉さんはようやく理由を話した。

「恥ずかしいんだと思う、人前で歌うのが。たぶん」

 もしやと思ったけど、やっぱり。佐倉さんの不調は人前で歌うことに対する緊張が原因だったんだ。一人で歌っているときの誰もが惹かれるような歌が彼の本来の実力なのだろう。そういえば初レッスンのときも先生に照れがあるって言われていたっけ。人前で歌うのが前提の仕事だから治そうって。

「曖昧な言い方をしたが歌の不調は間違いなく心因性のものだ。一人で自主練をしている分には大丈夫だったから。ただいつまでも一人で練習していたらずっとこのままだと思うと……」

 どうしたものかと彼は頭を掻く。私はそんな彼に座った状態のまま右手を差し出した。今声を掛けなきゃ、きっともう機会は来ない。

「詩子ね、きっとこの緊張さえ克服できてしまえばボーカルテストも問題ないはずって思うんです。でもやっぱりこればかりは慣れるしかなくって、テストもそうだけど、これから活動していく以上人前で歌うのは絶対避けられないことだから、あと一週間で慣れるように詩子と一緒に頑張ってみよう?」

 佐倉さんは自分に向けて差し出された手をしばし見つめた後、そっと握り返して、私を引っ張り起こした。

「俺が偉そうに聞けた事じゃないんだけど、なにか策はあるのか?」

 一応なにも考えていなかったわけじゃないけれどハッキリ言って荒療治の部類だし、これでどうにかなる確証もない。でもこれしか思い浮かばないし、すこし気が引けるけどきっとこれが一番手っ取り早い。テストまで一週間を切っているしとりあえず出来ることをするべきだと思う。

「詩子と練習するだけじゃ詩子の前で歌うことに慣れるだけで終わっちゃうかもしれないからもっと沢山の人の前で歌う練習をしてみよう。事務所の大人の人達にも協力してもらって」

「それは社員さん達に話は――」

「まだ! 今から聞いてきます! ところで佐倉さんはお友達とカラオケっていきますか?」

「え、いや、学生時代はバイトで忙しかったから。そういうことは一切」

 なるほど。人前で歌うのが苦手だって今まで気がつかなかったのはそのせいもあるのかも。

「よし! それじゃあ佐倉さんの慣れと詩子と佐倉さんと事務所の皆さんの親睦会を兼ねて『ダリアプロダクションカラオケ大会』を開いたらいいんじゃないかな! そしたら皆と仲良くなりつつ練習が出来ると思うの!」

 我ながら妙案だと思う。佐倉さんの表情が微妙な雰囲気を漂わせているのはこの際目をつむるとしよう。

 早速社長に相談してきますね! と言い残してレッスンルームを後にする。一階に続く階段を駆け上る私の足取りはとても軽かった。

   ♪♪♪

 あの後社長室に向かった私は社長と偶然居合わせた江坂さんに今回の趣旨を話して打診した。佐倉さんのためとはいえ突拍子もないわがままを言ってしまったけれど社長は私の話を真剣に聞いてくれたし社員の皆さんにも任意ではあるが協力してほしいと一緒にお願いしてくれ、ありがたいことに全員が参加すると返事してくれた。佐倉さんと改めてお礼を言いに行ったとき社長は「遊びもレッスンも楽しめるに越したことはないからね」と笑っていた。

 あの日から二日が経った今日は待ちに待ったカラオケ大会の日。参加者は私と佐倉さんと社長、それと江坂さんを含めた社員さん六人。

 受付を済ませぞろぞろと廊下を移動する。指定された部屋はパーティールームで、薄暗いままでも部屋がとても広いことがわかった。江坂さんが部屋の電気を点け、ディスプレイモニターの光しかなかった暗い部屋に薄く黄色い光が証明が灯る。明くるくなったその部屋は九人入ってもまだ全然余裕があるくらい広々としていた。

「佐倉くんに慣れてもらうのが今回の目的だけれど百瀬くんのお言葉に甘えて親睦会も兼ねさせてもらうことにした。料金は僕が持つから遠慮なく楽しんでください。何を頼んでもいいけれど未成年がいるからお酒は控えてね」

 社長が優しく社員さんに注意を伝え、社員さん達も笑顔でそれに応えている。彼らにお給料が出るのかは私には分からないけれど、半ば子守に近い要件なのに笑顔で引き受けてくれてとても優しい人達ばかり。前にいた養成所は一人一人に構っていられないって話すら聞いてくれなかったこともあったし、あの日この事務所のオーディションを受ける決心をして本当に良かった。

 テーブルの上には軽食が敷き詰められたオードブル容器や飲み物が注がれたグラスが並んでいる。場の空気が一気に宴会っぽくなったところで話題は誰が一番最初に歌うかに移っていた。佐倉さんのために来たんだから試しに歌わせてみたらどうかと意見が出たが、ぱっと佐倉さんの方に顔を向けるとこちらを見ながら手でバツを作り小さく首を横に振る姿があった。どうやらトップバッターはダメみたい。まあ、放っておいてもいずれ佐倉さんも歌うことになるのだから折角だし私が歌わせてもらおうと「詩子が歌ってもいいですか」と提案すればみんな快く了承してくれた。

 手元にデンモクを引き寄せて曲を探す。一番最初だし無難な曲を選ぼうと、少し前に流行ったアイドルソングを選択する。

 かくして、佐倉さん強化レッスン(カラオケ親睦会)は幕を上げたのだった。



 最初こそ一曲歌ったら次の人と、代わりばんこに歌っていたが、一周するまでにかなりの時間を要するということで佐倉さんがメインで歌うことになった。

 当の佐倉さんは早くも三曲目を歌い終えた辺りから少しずつ本来の調子を取り戻してきたらしく今も楽しそうに最近リリースされた映画の主題歌を歌っている。楽しそうな彼を見て、私も自然と笑顔になる。良かった! カラオケ大会はちゃんと成功したみたい!



 歌っている佐倉さんをまじまじと観察していてわかったことがある。

 自己紹介で音楽が好きだと言っていたり常時イヤホンで曲を聴いていたりレッスンルームの機材を興味深げに見て回っていたり、かなり音楽が好きで、それでいて詳しいんだろうなとは思っていたけれど、どうやらジャンルを問わず本当に雑食といった感じで色々なものを聴いているようだ。邦楽洋楽、アニソン、歌謡曲、ポップにメタルもバラードもロックも関係なしに次々歌っていく様は圧巻の一言に尽きる。選曲に気を取られてしまうけどそのどれにも対応出来る応用が利く歌唱能力は間違いなく才能だと思った。

 佐倉さんの歌は社員さん達にも好評で、皆笑顔で、そしてたまに驚きの表情を浮かべつつ彼を見守っている。社長に至ってはべた褒めである。

 これは私も今まで以上に本気で取り組まないとダメだ。前からレッスンしてたから~とか余裕ぶっていたらすぐに置いて行かれる予感がする。



 最後にみんな一曲ずつ歌った後めでたく本来の目的を達成できたカラオケ大会はお開きになり、お店を出て現地解散となった。帰り道を途中まで一緒に歩いてきたけど、そろそろ寮に着くから佐倉さんとはここでお別れだ。

 彼に向かって初めて会った日みたいにバイバイと手を振ってから背中を向けると駅に向けて歩き出す。だけど少し進んだあと後ろから駆けよってくる足音に気がついてふと振り返る。そこには佐倉さんがいた。

「ちょっと暗いから駅まで一緒についてく」

「いいんですか? ありがとうございます!」

 彼は一歩前へ出て私の隣を歩く。佐倉さんは背が高くて、私の肩のずっと上に彼の肩が見える。

「今日のカラオケである程度思った通りの声の出し方が分かったような気がする。これから自主練するときも誰かに聴いてもらう習慣をつけようかと思う。……色々手を回してくれてありがとうな」

 少し口下手な佐倉さんからのお礼は真っ直ぐで、胸がとてもあたたかくなった。  歩幅が大きく、いつの間にか私の前を歩いていた佐倉さんの背中を見て、ぽんっと頭の中に小さな疑問が浮かんだ。

「ねえ佐倉さん、人前で歌うのが苦手だったのにオーディションの時大丈夫だったんですか?」

 それは少し気になっていたことだった。事務所の面接のとき、本当なら歌唱のテストを少しやるはずなのだ。私は養成所の評価表や発表会の映像の提出で免除になったけれど、佐倉さんはそういったものに通った経験はないみたいだし免除にはなっていないはず。一体どうやって切り抜けたんだろう?

「あぁ、そんなことか。俺はそもそもオーディションを受けてない。ちょっと自作の曲を聴いてもらったりはしたけど」

「へ?」

「スカウトってやつ。外歩いてて声かけられた」

 スカウト……。自分がオーディションばかり受けていたものだったから、そうかその手があったかと目から鱗が落ちる思いだった。

 スカウトという言葉に「すごい」と「やばい」しか言えなくなった私を見て、佐倉さんは控えめな笑い声をあげる。

「俺は凄くなんてない。むしろ音楽業界を志していたくせに人前で歌うことが苦手なのも自覚していなかったような駄目な奴だ。まだ十四なのに色んな努力して色んな経験してる百瀬の方が凄いだろう」

「え~! でもやっぱりすごい。スカウトってどんな感じなんですか?」

 だらだらとそんな話をしているうちに駅についてしまった。佐倉さんは「じゃあな」と残して来た道を戻って行ってしまう。

 去って行く彼の後ろ姿を見て、もう一つ言いたかったことを思い出した。

「佐倉さーん!」

 数歩先を歩く彼を大きな声で呼び止める。彼はびっくりした顔で振り返り、私をまじまじ見つめている。

「呼び方ね! 百瀬じゃなくて詩子でいーよ!」

 しっかり耳に届いたらしい私の言葉に彼は呆れたようにも見える笑みを浮かべながら 「俺もミチルでいいよ」

 と返してくれた。

 

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