First Lesson

 入所式の翌日。レッスン着に着替えた私と佐倉さんは地下のボーカルレッスンルームに集合していた。

 佐倉さんは先程から興味津々といった様子で部屋の中を歩き機材を見て回っている。この部屋にあるキーボードやスピーカーなどはどれも私が通っていた養成所の物より上質に見えるが私にはそれらの実際の価値はわからない。だけど佐倉さんの様子からしてやっぱり珍しいものが多いのかもしれない。

 入所して最初のレッスンだからもっと緊張すると思っていたけれど、私も佐倉さんも意外と落ち着いている。リラックスしているのは体を動かす上でとても良いこと。

 のんびりと佐倉さんを眺めていた私だったけれど、歌う前にストレッチをするべきだなと思い「先生が来る前にストレッチをしよう?」と佐倉さんに声をかけた。彼は機材をまじまじ見つめるのを止めこちらへ戻ってくる。

 二人向かい合って座って私が養成所でやっていた行程を教えるようにしながら軽いストレッチを始めた。佐倉さんは意外に体が柔らかいみたいで無理なくストレッチをこなしていた。

「佐倉さんは何かスポーツやってたんですか?」

「なんで?」

「体が柔らかいし慣れてる感じがしたから、なにもやってない人はもうちょっと硬いと思って」

「運動らしい運動はしていない。部活も帰宅部だった。上手く歌うには歌う前にこういう柔軟体操とかやった方がいいってネットで見て、それからなるべくやるようにしてる。いつもやるわけじゃないし、今やっているような本格的なことはしないけど」

 真面目な人だなと感心してしまった。私はそうやるように教わったからやっているだけだったけど、佐倉さんはちゃんと歌うために自分で調べてストレッチをしようと思える人なんだ。



 ストレッチも終え、そろそろ先生が来るころかなと考えていると丁度良くノックの音が響く。大きく開けられたドアから顔を覗かせたのは社長で、その後ろには前髪の長い男性が続いている。あの人が先生だろうか? 二人が部屋に踏み入ると同時に私達は立ち上がる。

「おはようございます!」

 私の高い声と佐倉さんの低い声が重なって響く。こうやって聞いてみると私と佐倉さんの声質は相性が良いのかもしれない。

「百瀬くんも佐倉くんもおはよう。いよいよ初レッスンだね。僕の隣にいる彼がボーカルの指導をしてくれる先生だ」

 社長の紹介と共に背中を軽く押されて一歩前に出された彼は低くて落ち着いた声を私達へ向ける。

「今日からボイストレーニングを担当します。中原です。よろしくおねがいします」  ぺこりとお辞儀をしても顔を覗かせない厚い前髪の壁。好奇心から先生の顔が気になってきた。

「彼はシンガーソングライターをしていて今はボイストレーナーも兼業している。以前からなにかと縁があって、安心して君達を任せられると思って指導をお願いしたんだ」

 社長が信頼できるって言うくらいだからこの先生はきっとすごい人なんだろう。

 中原先生の紹介を終えた社長はその場にいる全員の顔を眺め微笑んだあと「それじゃあレッスン頑張ってね」と残し踵を返して部屋を後にした。

「百瀬詩子です、よろしくおねがいします!」

「佐倉ミチルです。よろしくおねがいします」

「改めまして、中原です。今日はまず音域や歌唱方法に問題がないかをみていき、その後は問題点の修正をメインに行います。それではよろしくおねがいします」

 依然として目元が見えなくてなかなか表情が読み取れないけれど、落ち着いた対応や優しい口調から怖い人じゃないことがわかってすこし安心した。前のボーカルの先生は怒り方が怖くて緊張して喉が詰まったように声が出なくなることがあったけれど、この先生ではそういったことがないといいな。

 中原先生は私達の横を通り過ぎてキーボードの前へ向かうと慣れた様子で片手で鍵盤を弾く。可愛らしいく綺麗な音が部屋に満ちる。一分も経たなかったであろう指慣らしを終えた中原先生は小さく息を吸ってから静かに私達に向けて指示を出す。

「それではレッスンを始めましょうか。二人ともキーボードの前に来てください。ストレッチは済んでいるみたいだから、とりあえず喉の慣らしから順番にやりましょう。次のレッスンからはこの行程もストレッチと共にレッスン前に行ってください」

 言われた通りに移動し佐倉さんと並んで先生の弾く鍵盤の音に合わせて指導にならって声を出す。やっぱり私と佐倉さんの声は合わさると綺麗に聞こえた。

 ♪♪♪

 それから一時間ほどかけて発声・音程・呼吸の仕方などをすこしずつだが一通りこなした。指摘を受けたらその都度メモをし覚えるまでやり直すという手順を繰り返す。

 反復練習のおかげか、自分でも一日で随分と上達したと手応えを感じるほど歌いやすくなっていた。私より直しが多かった佐倉さんも真剣にレッスンに取り組んでいて、私も頑張らなければと養成所にいたころよりもはりきれた。

 先生は鍵盤から手を離しメモを取ると何かに納得したように頷いてこちらに顔を向ける。

「百瀬さんは以前から他所でレッスンを受けていたこともあって腹式や発声は結構良いね。そこは少し微調整すれば問題ないって具合かな。課題としては滑舌が悪いのと高音の出し方の癖を直そう。メンバーの構成上、百瀬さんには高いパートが振られるはずだから、今のままだとライブで持たないかもしれない」

「はい!」 

 滑舌が悪いっていうのは養成所でも結構言われていたけれど高音の出し方は今まであまり指摘されたことがなかった。ライブのときに持たないのはかなり困るよね。どちらも完全に直すつもりで臨もう。

「佐倉くんは音感とリズム感がとても良い。なにか楽器やってるでしょう? 腹式が不完全なのと声帯がまだ弱いからそこを重点的にやろう。君の歌い方というか、表現の仕方にはかなり伸び代があるからこれからはちょっと厳しく指導するね。それと精神的に照れみたいなものがあるみたいで、この仕事は人前で歌うことが前提になるからそこをなるべく早い段階で治そう」

「はい」

 ちょっとだけ苦い顔をしたあと佐倉さんは少し小さめの声で返事をした。

 中原先生は私達の様子を観察するように顔を見ると口を開く。

「今日のレッスンは初回なのでこの辺で終わりにします。七月までに二人を無加工で聴いてもマシな歌が歌えるように指導します」

 そう言って中原先生はトートバッグからCDを二枚取り出して一枚ずつ私と佐倉さんに手渡す。

「さしあたっては二週間後、今渡した課題曲を用いて歌唱テストを行います。二人揃って合格することが出来たら社長からご褒美があるみたいなので頑張りましょう」

 二週間後にテストか……。社長からのご褒美もすごく気になる。ご褒美を貰うためにもレッスンを頑張らないと。

 中原先生からレッスン終了の号令がかかる。久しぶりに長く歌ったからか、それとも初レッスンの緊張からか、結構な疲労感。このあとはダンスレッスンだってあるのに、こんなにへばってちゃダメだなぁ……。

 佐倉さんのほうにちらりと視線を向ける。床に敷いたノートに今日のレッスンについてメモしている。だがその表情はどうにも難しい顔で、目が離せないほど心配になった。

「大丈夫?」

 少々ぎこちない切り出し方だったが声を掛けることができた。先生から指摘を受けることも多かったようだし、上手くいかずに困っているようならすこしでも力になりたい。だけど佐倉さんはノートから顔を上げて難しい顔のまま私を見上げると「……大丈夫」と短く返事をし、伏し目がちな視線でまたノートを見下ろした。

 その表情、私にはあまり大丈夫なように見えないのだけど、でも本人が大丈夫だと言っているのにこれ以上なにか言うのは失礼な気がして、私は黙って自分のノートに向き合う。

 結局私はただ佐倉さんと同じ部屋で自主練をしながら彼を見守ることしかできなかった。

 ♪♪♪

   自主練を切り上げて二人揃って隣のダンスレッスンルームに移動する。ダンスレッスンも先程のボーカルレッスン同様各自の実力をみることが目的らしい。ボーカルレッスンからまだ気持ちが切り替わっていない頭を軽く横に振って次にやるべきことに意識を向け直す。

 そういえばボイトレの中原先生は落ち着いた人だったけどダンスの先生はどんな人なんだろう?

 その時いきなりバンッと大きな音を立ててレッスンルームのドアが勢いよく開く。あまりに突然のことに肩が跳ね上がった。

 勢いよく入室してきたヘアバンドで前髪を上げた金髪の女性は入り口から真っ直ぐ部屋を突っ切ると壁一面に広がる大きな鏡の前でくるりとこちらに向き直る。振り返るときの立ち姿がとても綺麗だったからきっとこの人がダンスの先生だ。

 私と佐倉さんの顔をじっくり見たその人は手に持っていた書類やCDラジカセを床に置いて改めて私達を正面に見据えた。

「ダンスレッスンを担当します、上條です。よろしく」

 ハッキリとしたよく通る声で名乗る様はいかにも気が強そうで、私はほんの少し萎縮してしまった。

「二人ともダンスの経験の有無は?」

「私は習い事のバレエと養成所のレッスンを合わせて六年くらいやってました」

「学校の授業でやった程度でほとんど未経験です」

 私達の返答を聞きながら先生は持ってきたラジカセを操作する。スピーカーから流れるテンポの速いかっこいい曲は記憶が正しければEDMってジャンルだったはず。ボーカルがついていない所謂インストと呼ばれるものだ。

 それは一分にも満たないくらいの曲だった。ループして曲の頭出しが再び流れ出したところで先生が停止ボタンを押す。

「各々のダンス経験はわかりました。それでは今流した曲を私が一度通しで踊ります。後ほど二人にも踊っていただくのでよく見ていてください」

 もう一度再生ボタンが押され先程と同じ曲が流れ出した。今度はその曲に合わせて先生が体を動かす。細かく機敏なステップ、大きく動かされる腕、爪先指先まで意識された繊細で滑らかな動作にも関わらず勢いが感じられる、観た人の記憶に残るインパクトのある動きの数々に息を飲む。一目でプロだと分かる人を魅了させる踊り。

 横を向いて片腕を伸ばした立ち姿で先生が止まると同時に曲もまた頭出しに戻る。先生はストンと腕を下ろすと私達に視線を投げ「今からこの振りを五十分間指導します。振りの説明が三十分、自主練が二十分です。それが終わり次第実際に踊ってもらいます」そう言うとまだ流れ続けている曲を頭まで巻き戻した。



 短い曲だけど振りは複雑だった。私は元から記憶力に自信がない。ついさっき三十分間かけて振りの意味も含めてしっかり教えてもらったはずなのに、正直覚えられる気がしない。動揺と焦りでまだろくに踊ってもいないのに手や額に汗が滲んだ。

 ここではない別の芸能事務所のオーディションでも似たようなことをやらされたことがある。そのときも、ただひとりだけ振りを通しで覚えきれず結果は散々だった。

 私の隣では佐倉さんが体を動かしながら振りの確認をしている。それを見て、今はこのダンスに集中しなくてはと自分の手の甲をつねった。



「そこまで。今から二人同時に踊ってもらいます。間違えても構わないから曲のイメージを意識して踊って。それじゃあ私が指定する位置に立ってください」

 佐倉さんと間隔をあけて横一列に並ぶ。正面の鏡には私と佐倉さんの立ち姿と床に座る先生の背中が写っていた。

「それでは始めます」



   最初の方は体が覚えていたみたいで自然と動けた。けれど踊れていると思えたのも束の間、途中から振りがだんだん分からなくなってくる。次に上げる腕はどっちだっけ? 右、それとも左? 一度しゃがむところはどこだっけ? 今、いやもう少し先? 

 頭の中が不安と焦りで真っ白になる。

「――百瀬だけストップその場に座って、佐倉は終わりまで続けて」

 あぁダメだった。先生の指示通り踊るのを止めてその場にしゃがみ込む。曲はあとほんの数秒で終わるはず。座ったまま顔を上げて、まだ踊っている佐倉さんを眺める。ダンスは未経験だって言ってたけど特別下手なわけじゃない。始めたてのころの私よりよっぽど上手。



 曲が終わった。先生は佐倉さんにも座るように言うと私に話しかける。

「百瀬はなんで途中で止められたか自分でわかる?」

「……頭が真っ白になって、振りを――」

「違う。踊ってもらう前に間違えてもいいって言ったはず。今回は振りの間違いはそこまで重視していない」

 先生は何を言いたいのかまだ分かっていない様子の私に痺れを切らし小さく溜め息を吐いて続けた。

「私は最初に『間違えてもいいこと』『曲のイメージを意識してほしいこと』を伝えました。百瀬はあの曲を聴いて、あの振りを見てどう思った?」

 曲と、振りから感じたこと……

「えっと、テンポが速くてかっこいい曲で、先生のお手本を見たときも、かっこいいって思いました……」

 正直に言っているはずなのに私の声はだんだん尻すぼみになっていく。

「そう、あれはかっこいい曲でかっこいい振りなんだ。頭から振りが飛んだせいだとは分かっているが百瀬のダンスからはかっこよさが感じられなかった。自信がなくて、弱々しくて、あまりにも見ていられない出来だった。技術があるだけにそれが非常に残念だと感じた」

 全部言われてからなんで止められたのかがちゃんと分かった。事務所に入る前からずっとレッスンを続けてきたのにそこまで教えてもらわなければ何がいけなかったのか気がつけなかったことが悔しかった。

「佐倉は百瀬より技術は劣るし、振りも完全とは言えなかったが必死さが伝わった。だから最後まで踊ってもらった」

 佐倉さんが最後まで踊らせてもらえたのは他でもない佐倉さんが必死に頑張った結果なのに、私は床に座りながらそれを眺めて、上から目線で『始めたばかりのころの自分より上手』だなんて思っていた。最低だ。

「後悔は好きなだけしなさい。だけど立ち直らなければ次に繫がらないことは覚えておいて」

「はい」

「うん。でもね、百瀬は本当に上手なのよ。教える側の人間が言う台詞じゃないけどね、観てる人達って演者がちょっと間違えたくらいじゃ気がつかないの。お客さんが「あ、今間違えた」って気がつく瞬間は演者が動揺した瞬間。だから間違えても決して狼狽えないこと、なにがあろうと上手く取り繕うこと。それがプロです。まあでも間違えないのが大前提。それはダンサーでもアイドルでも一緒」

 完璧に踊ってこそプロだけど完璧に踊るだけがプロじゃないと付け加え、先生は今日のレッスンの内容について説明を始めた。

「今日のレッスンはダンスの技術、曲のイメージをいかに体で表現するか、そして曲入れのスピードを確認する回でした。この三つはステージに上がるうえで重要です。私のレッスンでは特にそれぞれの曲にあったキレや柔軟性また強弱の付け方などの表現を重視しますが、勿論それには基礎や応用や心持ちなど不足してはならないものが沢山あります。技術は練習を積めば確実に付きます。少なくともあなた達は今見た限りでも素質があるし、あなた達に技術を教える事が私の仕事であり役目だから保証します。でもダンサーと違ってアイドルはただ踊りが上手いだけじゃ上へ行けません。どんな曲にも歌詞にも振りにも意味はあります。その全てを自分なりに解釈して観た人聴いた人に伝えるのがアイドルであり、それが伝えられなければいくら技術があったとしても演者として三流です。アイドルは歌手でありダンサーであり役者です。それを忘れないように」

 佐倉さんと一緒に先生の話に耳を傾ける。真剣に話す先生をみて、この人はアイドルというものが好きで、そのアイドルの世界にちゃんと私達を連れて行こうとしてくれていると感じそれが嬉しく思えた。

「今日のレッスンは以上です。最後に宿題としてこちらを渡して終わりにします」  そう話しながら先生は私達にDVDを手渡す。中には今日踊った曲のフル音源とその振り付け動画が入っているらしい。次回からは基礎を固めつつ、この曲を練習するから必ず覚えてくるようにと念を押される。

  ♪♪♪

 歩いているとどうにも物思いに耽ってしまう。駅へ向かういつもの道で一人今日の出来事を思い返す。滑舌と高音の発声を直すこと、二週間後のボーカルテスト、ダンスの宿題、アイドルとして大切なこと……。

 テストといえば、佐倉さんは大丈夫だろうか。難しい顔でノートに向かう姿をまだ鮮明に覚えている。やっぱりあの顔は困っていたように思えて仕方がない。今度会ったときにちゃんと話してみよう。もしかしたらなにか力になれるかもしれないし。



 改札に向かう途中壁一面に広がる大きな広告が目に入った。今人気の男性アイドルが起用されたそれがとても気になり近付いて立ち止まる。私の他にもファンらしき女の子が数人広告の前で立ち止まっており「れいくん」とか「サラくん」とかキャーキャー言いながらスマホで写真を撮っていて、なんだがファンじゃないのにその場に留まっている自分がとても場違いなように思えた。

 写真を撮る女の子達を尻目に、なるほどこれが大人気アイドルのオーラかと感心する。ファンの子達が立ち止まるのは当たり前かなって思うけれど特別大好きってわけじゃない私も見入ってしまうくらいの魅力がそれには詰まっていた。

 私もああいう広告に出てみたいなぁ。

 ホームへ向かう階段を駆け上りながらそう想いを馳せ、間違いなくまだ先の話であろう未来に期待と憧れを抱く。

「まぁとにもかくにも、まずは一歩ずつだよね!」

 お腹の前で小さく拳を握って発した気合いの入った小言は丁度走り込んできた電車によって掻き消され、誰にも聞かれずただ空気に溶けていった。

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