オーディション(百瀬詩子)

 溢れる人、流れる景色、人気アイドルが起用された中吊り広告。そんな中に私はいた。

 五月初旬。設立したての芸能事務所ダリアプロダクションへ向かう途中、私は長椅子の隅にすこし縮こまって電車に揺られていた。各駅停車の電車が止まるたびに胸のドキドキは速さを増す。

 夢見続けていたの、アイドルになることを。物心ついたときから始めた努力が実って、もうすこしでそれが実現しようとしていた。正確にはもう必要な書類は提出し終わっているから私はすでにアイドルなのかもしれないけれど、それでも今日の入所式を終えるまではそう思うことを我慢していた。

 降り損ねないようにアナウンスに耳をそばだてるのもそろそろ終わり――ほら、降りる駅だ!

 電車の中からホームに降り立って目の前のエスカレーターの上をちらりと見上げる。中央口と書かれた看板を見て私はホッと胸をなで下ろした。

 よかった、全然違う出口じゃなくて。

 安心するのも程々に、そそくさと上へ流れていくそれにのぼった。

 改札を抜けてからの道順は一ヶ月前の面接のときに一生懸命覚えたから迷うことはなかった。けれどだからと言って余裕があるわけじゃなくて、心臓はドキドキという可愛らしい音よりバクバクと言ったほうが良さそうなくらい破裂しそうな危ない音を鳴らしていた。

 とうとう事務所の前までやってきてしまった。この一軒家のような風貌の建物に赴いたのはオーディションの面接以来だ。

 私は門前に設置されたインターホンの前で立ち止まる。事務所についたら押すように言われているのだけどどうにも勇気が出ない。ここを目指していたのだからどこかで間違えなければ辿り着くのは当たり前で、それを望んで自ら足を動かして歩いてきたはずなのになんだか突然目当ての建物が目の前に現れたような驚きすらあって、自分でも困ってしまうくらい心の準備に時間がかかる。面接のときはもっとすぐ押せたのにな。

 立ち往生してちょっと足が疲れてきたころになって、やっと私は入所式の時間は大丈夫だろうかと心配になった。

 時計を確認するためにスマホの電源を入れる。ロック画面が映し出されて最初に目に入ったのは時刻ではなく大好きなアイドルだった。

 頑張り屋さんで 直向き ひたむき な、私に夢を与えてくれた 女の子 アイドル 。いつもは誰かの横にちょこっと写っていることの多い子だけれどこの写真ではメインで取られているしカメラに目線も合っている。なによりこちらまで笑顔になる彼女の笑顔が大好きな写真だ。

 彼女の信じている魔法に憧れて今まで頑張ってきて、それが本当にあと一歩の所まで来たというのに、私はなにを尻込みしているのだろう。

 輝くステージで真昼のお日様のような笑顔を浮かべる写真の彼女に「早くここまでおいで」って言われた気がして、胸元で止まっていた私の人差し指はとうとう目の前のボタンを押した。

『はい』

「あ、あの、百瀬詩子です! 入所式に来ました!」

 インターホンの向こうの男性は精一杯伝えた二言でもちゃんと私のことがわかったらしい。「今玄関を開けますね」と優しく応対してくれた。

「百瀬さんおはようございます。わたくし事務員の江坂と申します、今日はよろしくお願いします」

「おはようございます、よろしくお願いします……!」  緊張で声が上擦ってしまった私を安心させるように江坂さんはにこやかに目を細め事務所の中に通してくれた。

 事務所の中は外観以上に一般家庭っぽくなっていた。面接に来たときにはほとんど置かれていなかった家具が沢山増えており、玄関の靴箱とか傘立てとかスリッパ置き場とか、そういう些細なものから漂う雰囲気が会社というよりも友達のお家に近かった。江坂さんは私が考えていることがわかったように「二階にはキッチンもあるんですよ」と教えてくれた。

 さほど長くない廊下を江坂さんとお話ししながら歩く。彼は私を入所式の会場である事務室に案内するように言われているらしい。

「百瀬さんの他にももう一人今日入所する方がいらっしゃるんですよ。佐倉ミチルさんって方です。お二人は同期ということになりますし仲良くなれたらいいですね」

 サクラミチルちゃん……。名前の響きがかわいい。歳が近かったらいいな、ミチルちゃんも詩子と一緒でアイドル好きかな? いろんな話ができたらいいな。そう思いを馳せるのはとても楽しかった。

 辿り着いたドアの上には事務室と書かれた白いプレートが貼り付けてある。面接のときに使用した応接室にも同じようなプレートが掲げてあったからここはきっとどの部屋もそういうふうになっているんだろう。

 江坂さんが骨張った手で三回扉をノックして中に声をかける。

「江坂です。百瀬詩子さんがお見えになりました」

 扉の向う側からゆったりと低い落ち着いた「どうぞ」という声が返ってきた。社長だ。この声は面接のときによく聞いたから覚えている。

 江坂さんは私が事務室の中へ足を踏み入れるのを確認してまた来た道を戻っていった。


 事務室の中には社長の他にもスーツを着た大人が五人ほどいた。多分社員さんだろう。

 六つのデスクが部屋の隅に寄せられパイプ椅子が二つ並べられている。あの椅子はきっと私とミチルちゃん用。ということは大人の人達は立ちっぱなしなのかな。それはちょっとだけ罪悪感がある……。

 二つの椅子の前にはホワイトボードが置いてあり、とても綺麗な字でボードに書かれた『第一期入所式』という文字に思わず笑みがこぼれる。

「おはよう百瀬くん。開式の予定時刻までまだ時間があるからそちらの椅子に座ってもうしばらく待っていてね」

 社長に勧められるがままに小さく椅子に腰掛ける。開式の待ち遠しさともう一人の入所者が気になり足元がそわそわする。

 私はキョロキョロと動かしていた瞳を隣に置かれた椅子の座面に移した。多分新品の、もしかしたら今日の朝までビニールを被っていたのかもしれないとても綺麗な椅子。

 ここに座るミチルちゃんってどんな子かな。



 部屋の時計は私が来たときから七分ほど針が進んだ。頻繁に見ていたからこれは正しいはず。緊張は随分と落ち着いてきていた。心臓はまだドキドキしているけどそれも門の前にいたときよりずっとマシ。

 まだかなと時計から入り口に視線を移したとき丁度ドアがノックされる音が響く。先程と同じように江坂さんの声も一緒だ。

 ミチルちゃんが来たんだ!

 緊張のドキドキが好奇心のドキドキに変わる。早くドアが開かないかと視線が釘付けになってごくりと唾を飲み込む。

 ドアが開いて最初に江坂さんの顔が見える。江坂さんも私に気がついてにこりと笑ってくれた。でも私の視線はその笑顔よりも少し先に見える切れ長の目元と黒髪にすぐ奪われた。

 私よりもずっと背が高い短髪のお兄さん。黒シャツと綺麗なデニムのパンツに身を包んだ彼はほんの少しだけ私を見たあと視線を泳がすように目を逸らした。

「おはようございます。遅くなってすみません」

「いや、まだ予定時刻前だから問題ないよ」

 軽く頭を下げる彼に社長は笑いかけ、私にしたのと同じように椅子を勧める。

 ずっと勝手に女の子がくると思っていたけれどそう言えばだれも女の子がくるなんて言っていなかった。私が先走って勘違いしただけでお兄さんだったとは!

 彼が席に着くのを見届けてから社長は社員さん達に提案するように「すこし早いけれど入所式を始めようか」と言い、その声に応えるように社員さん達は各々姿勢を正した。

「よし、それではただいまよりダリアプロダクション第一期入所式を始めます」

 社長はそう宣言しながら私と佐倉さんを交互に見て優しく微笑んだ。

   ♪

 入所式という名ではあったがゆるく短くアクシデントもなく、無事という言葉がぴったりな終わりを迎えた。もっと厳かなものを想像して張り詰めていた私の肩は力が抜け、天井から吊っていた糸が切れたようにすとんと下ろされた。佐倉さんも式が終わって一安心したのか背凭れに身を預けて一息吐いている。

 その後、後ろの方で式の様子を見ていた江坂さんが私達に歩み寄ってくると今後の説明をしてくれた。どうやら式だけで終わりではないみたい。

「入所式お疲れ様でした。このあとは僕が事務所の施設説明を行わせていただきます。と言ってもこの建物の中を喋りながら歩くだけですので気楽に着いてきていただけたらと思います」

 私と佐倉さんは言われるがままパイプ椅子から立ち上がって江坂さんの後ろを着いて歩く。先導する江坂さん曰く社長が色々頑張ったおかげでこの事務所の設備はなかなか凄いものになっているらしい。この〝一見ちょっと豪華な一軒家〟の事務所の地下にはレッスンルームが三つ、男女それぞれの更衣室には簡易シャワー室まであると階段を下りていく江坂さんは語る。

「一つ一つ見ていきましょうね。まずはレッスンルームですが階段側にあるのがダンス用、その奥にあるのがボーカル用になっています」

 手前のドアを開けて室内を見せてくれる。何畳とかはよくわからないけれどダンス用というだけあって結構広い。私が通っていた養成所のレッスンルームと変わらない広さだ。

 次に見せてもらったボーカル用のレッスンルームには楽器以外にもなにやら大きな機械がいくつもあって、私にはそれらの価値が全然分からなかったけれど隣にいた佐倉さんが目を輝かせながら機材を見つめていたから、きっとこの部屋には凄いものが沢山あるんだろう。

 もう一つのレッスンルームは今は予備みたいなものだと言っていた。これから所属者が増えた際に使うらしい。更衣室にはお手洗いにあるようなマークがついていてどっちが男性用か女性用かわかるようになっていた。まだ人数が少ないから広々使えるかもと江坂さんは言っていた。

「色々揃っているでしょう? 僕や他の社員に一声掛けて頂ければいつでも鍵をお貸し致しますので、レッスンが入っていない日も自主練に使っていただいて大丈夫ですよ」

 ここを自主練にも使っていいなんて太っ腹だなと思う。

 開けたドアの鍵を一通り閉め、皆揃ってさっき下ってきた階段を上って一階に戻る。

「一階には社長室と来客用の応接室、それと先程入所式を行った事務室があります。僕たち社員は大抵事務室にいるので、事務所に来たらまず一度顔を見せに来ていただけると有り難いです」 

 一階の説明を聞いている途中で、ふと二階へ上がる階段もあることに気がつく。そういえばさっき二階にはキッチンがあるとか言っていたような……。

「二階ですか?」

 私はまじまじと上へ続く階段を眺めていたらしい。江坂さんの問いかけに「キッチンがあるっていうのが気になって、他に何があるのかなって……」と少しもじもじしながら伝えると優しく微笑まれた。

「二階は所属アイドルさん用の休憩室になっています。レッスン前の空き時間に休んだりお菓子を食べながらのんびりしたり所属者同士でコミュニケーションをとったり、リラックスしていただくことを想定して作られたらしいです。勿論自由に使っていただいて構いませんよ」

 あまりの好待遇ぶりに思わず目を丸くした。社長の気合いの入れ具合がすごい。

「施設説明は以上です。なにか分からないことや疑問に思ったことがあれば精一杯お答え致しますので、いつでも遠慮なく頼ってくださいね」

 社員さんからのバックアップも手厚い……。至れり尽くせりで嬉しいけど、なんだか申し訳なさを感じてしまう。そう思っていたら隣にいた佐倉さんが口を開いた。

「迷惑を掛けることがないようにはしますが正直分からないことだらけですから、何かあったらよろしくお願いします」

 そう言って頭を下げたから私も揃って頭を下げ、佐倉さんが頭を上げたのを横目で確認してから私も同じように頭を上げた。その始終を見ていた江坂さんはふふっと小さく笑っていた。



 帰り際に江坂さんからレッスンの日程が書かれたプリントを受け取った。一番初めのレッスンは明日の夕方かららしい。レッスンと言ってもまずは各指導者が個人の実力を見定めることがメインで本格的なことはまだやらないと言っていた。私は養成所の先生の評価しかちゃんと受けたことがなかったから、新しい意見が聞けるのが楽しみだなと胸が躍った。

「お二人ともお疲れ様です。今日の説明は全て終わりましたのでこれにて解散にしようと思うのですが、折角ですから百瀬さんと佐倉くんがお互いに自己紹介をしてから解散にしましょうか」

 そうだ、私は佐倉さんの名前を知っていたけど佐倉さんは私のことを知らないかもしれない。入所式の時に目を逸らされたのも自分以外の入所者が女子だと思わなくてびっくりしたからだったりするのかもしれない。

 佐倉さんの顔を見上げると佐倉さんもまた私のことを見ていた。切れ長で男性らしい目元とほんの少し神秘的な朱色の瞳が私を捉える。その目に惹かれて考えもせぬまま口が開いた。

「百瀬詩子、十四歳です、……あ、でもあとちょっとで十五歳になります! 好きなものはアイドルです! 好きなアイドルが見た景色を私も見たくて事務所に入りました。よろしくお願いします」

自己紹介ってどういうことを言うんだっけ、これじゃ変だったかなと心配になりながら私は佐倉さんから声が返ってくるのを待つ。

「……佐倉ミチル、四月に十九歳になった。好きなことは楽器を弄ること、少しだけ作曲もする。アイドルには詳しくないけど音楽業界にはとても興味があって、それで事務所に入った。よろしくおねがいします」

 十九歳……。高校生くらいかなって感じたけど思っていたよりもお兄さんだ。そんなことを考えていたら側にいた江坂さんがまたふふっと笑い声を漏らした。どうしたんだろうと佐倉さんと共に江坂さんの方を覗きこむと彼は慌てた様子で表情を正した。

「すみません、なんだか微笑ましいなと思って。お二人ならきっと同じユニットで仲良くやっていけそうですね」

 〝同じユニット〟で仲良く……?

「あの、俺とこの子は同じユニットなんですか? 珍しいですね、アイドルで男女混合って」

 私の疑問を代弁するように佐倉さんが言った。その少し後に、あっという顔で口元に手を当てた江坂さんは掻いつまんで補足をしてくれる。

「失礼しました。そうですよね、二人とも今日まで互いの事を知らなかったんですからユニットのことも知らなくて当然でした。社長の発案で百瀬さんと佐倉くんは同じユニットに所属することが決定していて、これから同じユニットのメンバーとしていろいろな活動をしていくことになっています。ユニット名は今頃社長が誠心誠意思案していますよ」

 ユニット名というアイドルらしい言葉にときめきを感じる。口角があがってにこにこしているのが自分でもわかって少し恥ずかしい。きっと今日一番目を輝かせているだろう私を見て江坂さんは「百瀬さんは本当にアイドルがお好きなんですね」と口元を綻ばせた。



「それではお二人とも帰り道お気を付けて。明日からレッスン頑張りましょうね」

 玄関までお見送りしてくれた江坂さんの言葉に胸がじんわりあたたかくなる。こうやって応援してくれるひとがもっと増えるように頑張ろうと小さく意気込んで今後の活動が楽しみで仕方なくなった。

 事務所を出た私は駅の方に歩き出そうとしたけれど、それとは反対方向に向かう佐倉さんが気になって声を掛けた。

「佐倉さんのおうちはこの辺りなんですか?」

「ん? あぁ、駅に行かないからか。ダリアプロダクションは事務所の近くに寮を持ってるんだ。俺はそこに住んでるから、こっち」

 そう言って駅とは反対側の歩道を指差す。

 寮があるなんて知らなかった。帰り道でお喋りしたり寄り道したり出来たら仲良くなれるかなって思っていたからちょっと残念だと感じたけど仕方がない。折角同期で同じユニットなんだからもっとお話ししたかったけれどそれはまた今度にしよう。

「そっか、じゃあまた明日!」

 ばいばーいと大きく手を振ると佐倉さんも大きな手を小さく振り返してくれた。表情はちょっと固いけれどああいうところを見るときっと優しい人なんだろうなと思えてくる。

 これから始まるアイドル生活にわくわくして駅へ向かう道で思わずスキップをした。こんなにはしゃぐのはいつぶりだろうと考えてオーディションに合格したときは返って落ち着いていたことを思い出し、今の自分の浮かれ具合にちょっぴり照れた。だけどすっかり舞い上がった心はそう簡単には落ち着かなくて、駅の改札を通ってからも私は小さく跳ねるように歩いていた。

「あぁー! 早く明日にならないかなー!」

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