第一歩

 レッスン初日、そう長くない人生で初めてのレッスンを終えた俺は休憩室のソファで項垂れていた。

 初レッスンはどちらもどうしようもないくらい散々で、俺のやる気ってものは地スレスレにまで落ちてしまっていた。

 一茶さんはそんな俺の心境を察したのか「暗い顔するなって」とコーヒーを注いできてくれる。すこし濃いめに入れられたそれはモヤがかかった頭をすっきりさせるのに最適だった。

「カフェインは効いた?」

「おかげさまで」

 そりゃあよかったと笑う彼の髪がさらりと揺れる。

「一茶さんは全然へこたれてませんね」

 俺ほどではないが彼もそれなりに厳しく指導を受けていたことをこの目で見ていた。けれど彼はそれほどそのことを気に留めていないようで、羨ましく思ってしまう自分がいる。

「あぁ、俺は習い事やり慣れているからね。あの程度の指摘は普通というか」

「そういえばダンスレッスンのときは動きがスムーズでしたよね」

「まあ、長いこと習っていたからね。日舞をやっているけれど、まぁ、かといって役立ったかというとそうでもないよ。バレエと日舞は足の形から、それこそ基礎が違う」

 自分の知らない世界の話を聞きながら、そういうものなのかと思いながらまたコーヒーを啜る。その一口はなんだかさっき以上に濃い気がした。というか濃い。たぶんだけどカップの底に粉が溶けずに固まっている。

「一茶さん、インスタントコーヒー入れ慣れてないでしょ」

「え、わかるの?」

「わかります」

 たくさん混ぜたつもりだったんだけどと苦笑を浮かべながら彼は手元の湯飲みを口元に寄せた。湯飲みの底に添えた手をゆっくり僅かに上げ、静かにお茶を啜っている。緑茶は上手に入れられるらしい。あたたかな香りを発する緑茶はコーヒー派の俺から見てもとても美味しそうだ。

 各々好きな物を飲んで一息ついたところで休憩室の扉がノックされる。一茶さんが返事をすると入室してきたのは社長とミルクティー色の長い髪を携えた端正な顔立ちの見慣れない青年だった。社長は俺たちを見つけると挨拶もそこそこに彼を連れてこちらに歩み寄る。

「休憩中だったんだね。彼を紹介したくて探していたんだ」

 紹介という社長の一言に押されるように一歩前へ踏み出した彼はただ名乗った。

「二期生の姥原紅葉 うばはらあかば です」

 本当にそれだけの、よろしくの一言さえないとても簡素な自己紹介はそれでも正規入所であることを明確にこちらに読み取らせ、まだ優柔不断に仮入所を続けている俺の心を易く抉った。

 社長は言った。「姥原くんへ二人からも挨拶をお願いしてもいいかな?」

 社長の提案に納得を示した一茶さんが先に口を開く。

「緑川一茶、二期生で二十五歳です。よろしくお願いします」

 二期生。自分にはないその口上が羨ましく、また憎く思えた。

「武藤黒です。……仮入所の二十二歳です。よろしくお願いします」

「仮入所?」

 姥原さんは疑問気に復唱した。

「あ、えっと……そうです」

 値踏みするように俺の顔をまじまじ見つめる視線になんだか蔑みに近いものがはらまれているような気がして俺は気分を悪くした。だが怪訝な表情を浮かべる綺麗な顔に気圧されるばかりで反論の一つも出来やしない。

「武藤くんにはまだ正式に入所するか考えてもらっている最中で、特別処置として仮入所という処遇をとらせてもらっているんだ」

 姥原さんは社長の説明にも特に納得したような素振りを見せず、ただ「そうですか」と相槌を打っただけだった。

 俺と姥原さんの間だけかもしれないが空気は間違いなくぴりついていた。けれどその空気をなんでもないように、普段ののんびりした雰囲気のまま裂いた人がいた。

「社長、お話は以上でしょうか。俺はそろそろ自主練に行こうかなーなんて思っています」

「ああ話は自己紹介だけで終わりだよ。時間取らせて悪かったね、それでは姥原くんと僕はそろそろ行かせてもらう。練習頑張って」

 去って行く後ろ姿を見てとてもホッとした。正直あとどの程度の時間あの張り詰めた空気の中にたたずんでいなければならないのか考えて頭を痛めるところだった。

「大丈夫?」

 一茶さんは俺の顔を覗きこむ。その顔は変わらずへらっとした笑顔だった。

「え、ああ。大丈夫です」

「そう? なにがとは言わないけれど、まぁ気にすることはないさ。若い子は悩んでなんぼでしょ。それが許されているのなら満足するまで悩めばいいのさ」

「…………」

 一茶さんは黙っている俺を置いてさっさと荷物をまとめると「あばよ」と言い残して休憩室を後にした。彼の背中を見ていたらなんだか今は自主練をするよりも頭を抱えて悩むことを優先した方がいいような気がしてきて、俺は帰る支度をして事務室へ向かう。

「……悩むことは、いつまで許されるんでしょうね」

 階段の途中で立ち止まって呟いた独り言はやけに湿っぽかった。

 ♪♪♪

 レッスン二日目も変わらず最悪だった。疲れ切ったまま二階の給湯室でコーヒーを注ぐ。

 ダンスの上條先生には「どうして先日前に教えたところがまだ覚え切れていないのか」「そんなにへろへろのダンスでアイドルになれると思っているのならやめなさい」などと言われ、ボーカルの中原先生には「基礎練をもっと重点的にやりましょう。出来るまで付き合います」とむしろ励まされてしまった。

 教わる側全員が溜め息を吐かれる立場ならまだ気持ちが楽だったが俺や一茶さんと違って姥原さんは筋が良いと褒められてばかり。話を聞くところによると彼も俺たちと同じように素人らしいのだが、どちらのレッスンも俺や一茶さんより格段に上手であることがわかる実力だった。

 堪らず嗚咽が漏れた。やはり俺にアイドルは向いていない。そう思えて仕方が無いのだ。

 一茶さんと姥原さんがぎこちない談笑をしている間に入っていけない自分が憎い。ここで格好良く会話の主導権を握ってその場にいる全員を笑わせられるような人間ならよかったのに、憧ればかり先行して行動に移すことすらできない。

 コーヒーが注がれたカップを片手にソファへ歩み寄った。途端に姥原さんは眉をしかめる。

「コーヒーの匂いは紅茶の香りを妨げる。出来れば離れた場所で飲んでくれないか」

 打診しているような文言だったが口調は間違いなく命令だった。その発言に俺の好きなものを否定された気がして腹が立った。

「いやです。離れた場所で優雅にお紅茶が飲みたいのなら姥原さんがあちらでどうぞ」

 嫌みったらしい言い方だと自覚していた。けれど本心だった。

「ここは共有スペースです。コーヒーの香りが邪魔だとかは関係ありません」

「随分偉そうだな。仮入所のくせに」

 頭に血が上るの一瞬だった。

「は……? 正規入所のあんたに何がわかるんだよ」

「同じスカウトだからわかるさ、どうせびびってんだろ。いきなり環境が変わることに」

「あ?」

「アイドルやりたいのにびびって尻込みして、その言い訳にするようにまだ悩んでいるだなんて口走る。やめるなら下手に月日が経っていない今が最良だろうに、それでも真面目にレッスンに通ったり自主練をしたり、それって要するにアイドルになりたいってことじゃないのか? はっきり言って俺にはお前が分からない」

 その言葉は俺への否定に他ならなかった。

「俺は、アイドルに……――」

 わからない。俺はアイドルになりたいのか? それともなりたくないのか?

 わからない。わからない。

 そのとき休憩室のドアが開いた。入ってきたのは確かミチル――そう佐倉ミチルだった。彼は室内に立ち込めるただならぬ空気をいち早く察知して、そしてその渦中に俺がいることさえもすぐさま判断したようだ。

 その上で彼がとった行動は俺をその場から連れ去ることだった。

 彼に腕を引かれて慌てて荷物を引っ掴み、残ったコーヒーもそのままに場を退場する俺は、あぁ姥原さんたちにはどう見えていただろう。考えるまでもない。きっと格好悪いに決まっている。

 ミチルは事務所の前で立ち止まると申し訳なさそうに俺を見つめた。

「悪い、急に。職員さんには俺から連絡しておく」

 なんて返せばいいのかわからなかった。彼が俺を連れ出した理由はわからなかったし、もし理由があったとしてもそれを行動に移す意味がわからなかった。

 そんな中で彼は頭の中で選んだ言葉を絞り出した。

「腹減ってないか?」

「え? ああ、まあ、うん。減ってる、かな」

「ラーメン、食いに行かないか。駅の近くにあるんだ。美味いラーメン屋が」

 探るようにこちらを見るミチル。断る理由は特になかったから、俺は彼の提案に頷く。承諾を得たミチルはとても喜んでくれて、その姿が姥原さんとの間に生じたわだかまりを僅かに忘れさせてくれた。

 ♪♪♪

「俺はいつも頼んでる豚骨醤油にする。黒は?」

「俺もそれにする。好きなんだ豚骨醤油」

 その言葉を聞いた彼は「そうかそうか」とやけに嬉しそうに相槌をうつものだから、俺は気になってそんなに嬉しいことかと聞いてみる。

「俺もラーメンの中じゃ豚骨醤油が一番好き。好みが似ているっていうのはそれだけで親近感が湧かないか?」

 ミチルの問いに「湧く」と即答すれば彼は照れくさそうに笑う。

「バイトの帰りとかによく寄るんだ。この店美味いからさ、誰かを連れてきたかったんだけどレイは顔が知れ渡っているから呼びづらいし詩子は家で飯を食うだろうか声を掛けられなくてな。黒と来れて良かった」

 楽しそうに語るミチルは本当にただ美味い店を紹介したかっただけみたいで、その様子に俺はなんだかなごやかな気持ちになっていて、先程までの張り詰めていた気持ちはすっかり解けていた。

「ミチルもバイトしてるの? なんか意外」

「うん。仕事が増える前は普通に接客もしてたけど最近はテレビに出る機会が増えて顔も覚えてもらえるようになってきたから接客とかっていうより単発でひっそり倉庫とか工場とか行ってる」

「立ちっぱなしとか座りっぱなしとか同じ体勢じゃなきゃダメなのきついよなー。俺も高校の頃から複数バイトやってるからなんか気持ちわかる」

「時間も金も足りないよな」

「だよな」

 身の上話は脳を眠らせていても出来るような易しい会話で心地よかった。

 そのままのテンションで会話を続けた。ミチルは音大進学を諦めてバイトをしながら事務所のレッスンに通っているらしい。俺も美大進学を諦めてバイト生活に明け暮れていたらすごく親近感が湧いた。

 そうこうしているうちにラーメンは出来上がり店員の手によって俺たちの元へ届けられる。会話をしていればラーメンが到着するまでの数分なんてあっという間だった。湯気にのって香るスープの匂いは空腹を駆り立てる。

 一口スープを啜った。油の浮いたスープが舌に絡まり喉を下りていく。ミチルもがっつくように麺を頬張り飲み込む。

「ん。美味い」

「だろ?」

 二人でもくもくと食していく。熱い麺が口内に出汁の香りを広げていく。

「なぁ」

「うん?」

「こんなときにこの話を出したら飯がまずくなるかもしれないけど」

 ミチルの方を向いた。彼は器に浮かぶ油を見つめていた。

「入所するつもりにはなれないか?」

 俺は何度目かの「まだ迷っている」を口にする。ミチルはそれに嫌な顔なんてしなかった。

「迷うことは悪いことじゃない。そのあとに導き出した答えと自分を肯定できればいくらだって悩むべきだ」

「ミチルは……、いまアイドルやっている自分に納得して肯定できているか?」

「ああ。俺は今ここにいるアイドル佐倉ミチルを肯定している」

「はは。ミチルは強いな」

「黒は弱いのか?」

「うん。弱い」

「たぶんだけど、弱くないと思う。力の出し方がわからないだけだ」

 沈黙が流れる。この時間に耐えるか、勇気を振り絞って声を出すか、耐えることすらせずこの場を離れるか。俺の頭にはその三つしか提示されなかった。

「黒、勇気を出すタイミングなんて見計らうなよ。それをいつ出すかどうかなんてものは今すぐ出さなきゃいけないときにしか頭に浮かばないんだからさ」

〝勇気なんてものは出さなきゃいけないときにしか頭に浮かばない〟

 ミチルの言葉はまるで真実しか発さないと保証されているような信憑性があった。彼の言葉ならどんなことでも信じてしまえる。そんな発言力を持っている。

「俺は、アイドルになりたんだと思う。なんのためになるかとか、どこを目指すとか、そういった志なんて一切ないけれど、俺はアイドルになりたい、んだと思う」

「おう」

「でもなにも志がないことが悪いことのように思えて、そんな悪い俺がアイドルっていう夢を与える仕事に就いていいのか、それで悩んでいる、のだと思う」

「黒はアイドルになったらなにがやりたい?」

「…………辛いことから救われるひととか、たったひとりでもいいから笑顔のひとが見られればそれでいい」

 ミチルは笑った。アイドルの笑顔はなんて凄いのだろう、俺までもつられて口角が上がる。

「ははは! 最高! 黒はやっぱりアイドルの才能ある」

 俺は笑ったまま問いかけた「どうしてそんなことが言えるの?」

「さっきの一言で俺を完全にファンにさせたから」

 ミチルが俺のファンに? あのミチルが?

「きっと社長も黒のファンなんだろうな。だから引き留めているんだ」

 彼は一口スープを啜ってから俺を見据えた。

「ファンを獲得するのはとても難しい。それなのにもう二人もファンを得ている黒にアイドルが向いていないわけがないだろう」

「でも志もなにもないんだぞ。その折角できたファンに失礼じゃないか」

「志が最初からあるのが普通なわけじゃない。それに志ならもう見つかっているだろう?」

 心当たりがなく、マヌケ面を晒しながらミチルに詰め寄る。

「俺にあるのか? 志というか、なんかよく分からないけど目指すべきもの!」

「さっきたったひとりでもいいからそのひとの笑顔が見たいとかって言ってただろ? それで充分だ。ファンの笑顔を見るためにアイドル活動を頑張る。それは立派なことだろう?」

 そうか俺は、アイドルがやりたくて、志もあって。アイドルになるべきじゃないと心配する理由なんて実はなかったんだ……。

「ミチル」

「なに?」

「俺がアイドルになったら「武藤黒は社長と俺がアイドルにした」って胸を張ってくれ」

 ミチルは笑いながら任せろ目を細めた。その姿に俺は彼への信用を募らせた。

「明日、俺はアイドルになる。だからミチルはぜひファン二号を名乗ってくれ」

「一号は――聞くまでもないな」

 ミチルの笑顔は今も輝いていた。俺はその笑顔に憧れを抱く。

 俺も、ミチルのように――。

「ごちそうさまでした」

 ミチルと共に空の容器に向けてそろって感謝を口にした。

 店を出て、明日が楽しみだとミチルは寮へ向けて歩き出す。それを遠慮なしに呼び止めた。

「正規入所が決まったら俺も寮に住むよ! だからまたラーメン食べ行こうな!」

 ミチルは何も言わずに軽く手を上げて応えた。

 ♪♪♪

 レッスン三回目はなんだかいつもと違った。中原先生にも上條先生にも雰囲気が変わって良いと褒められた。

「黒! すごいじゃないか!」

 一茶さんもこの調子で俺の事を褒めっぱなし。あまり褒められると調子に乗ってしまいそうで、気を抜くなと自分の両頬を軽くつねった。

「これから姥原と休憩室に行くけど黒も来るよね?」

「あ、すみません。俺はこれから社長と面談があって――」

 二人にはまだ内緒にしておきたくて咄嗟にぼかした言い方をした。けれど一茶さんはなにかを察したのだろう。嬉しそうな顔でいってらっしゃいと手を振ってくれた。

 ♪♪♪

「アイドルになりたいです」

 それは開口一番、意を決して絞り出した一言だった。

 社長は意外そうな顔をして一瞬だけ固まった。予想するに辞めると言いに来たと思っていたのかもしれない。

「本当にいいんだね?」

 その念押しにも俺の意志は揺るがなかった。

「はい。俺はアイドル武藤黒を肯定できる人間になる自信があります。それにファンの期待を裏切るわけにはいきませんから」

 社長はきょとんとした表情を浮かべて俺に問う。

「ファンとは?」

「社長とミチルです」

 俺の大真面目な返答に向かいの彼は優しげな声を上げて笑った。それこそ部屋の外へ聞こえてしまうんじゃないかってくらい大きな笑い声に俺の方が恥ずかしくなってしまう。

「それじゃあ僕がファン一号だね?」

 頷けば社長はまた楽しそうに笑った。俺はそれを見て胸が熱くなるのを感じる。それと同時に、あぁファンの存在というものはこれほどまでに大きいのだと実感した。

「それじゃあ後日契約書にサインを貰おうかな。色々準備も必要だと思うし、次のレッスンのときにでも――」

「今で大丈夫です。全部持ってきました。印鑑とか」

 気が変わることがないとは言えなかったから実は事前に江坂さんへ必要な物を確認していた。どうにも俺は逃げ場があるとふらふらとそちらに歩を進めてしまう気がある。今日はそれを封じるために万全の準備をして事務所に赴いていた。

「それでは書類を持ってくるね」

 社長の足取りは軽かった。きっと俺が正式に入所することを決めてきてホッとしているのだろう。

 社長が持ってきた書類にやけに緊張しながら署名をした。捺印するときなんか緊張して確認をしたにも関わらず印鑑の向きを間違えてしまって、社長には笑って済ませてもらったがとても焦った。

「緑川くんと姥原くんは二階にいるのかな?」

 ふいに社長が言った。俺は正直に「二人ともいます」と返事をした。そのあとに伝えられるであろう文言に察しはついていた――というか俺も同じ気持ちだったからわかった。

「ふたりにも早く、伝えたいですね」

 社長の胸の内を代弁するように呟く。真正面に座る彼の顔を遠慮がちに覗きこめば、すぐさまこちらの視線に気がつき安堵を抱くような微笑みを向けてくる。

 階段をのぼる社長の足取りは変わらず軽やかだった。つられてか、自ずとか、俺の足取りも入所式から今までにかけてで一番軽かった。

 休憩室の中から一茶さんの声が漏れ聞こえてくる。女の子の笑い声も聞こえるから二期生の二人以外にもおそらく一期生も同席しているのだろう。

 社長がドアを開けると俺をいち早く見つけたミチルの「よぉ」という親しげな挨拶で出迎えられた。

 一茶さんと姥原さんはいつも通りで、初対面の水森レイさんとその隣に座っている詩子は興味深げに、ミチルはこれから繰り広げられる出来事を知っているみたいにアイツらしく小さく笑って俺を迎えた。

 俺の神妙な面持ちに首を傾げる周囲だったが、一茶さんだけはミチル同様なにかを察しているらしく落ち着いた様子で茶を啜っている。

 社長は黙って俺の隣に立ち、俺以外のみんなを眺めるように頭を動かすと最後はまた俺に視線を定めた。そして俺にしか聞こえない、とても小さな声で、「みんなに伝えるんだろう?」と囁いた。

 そうだ、みんなに……伝えるんだ。

 胸を張った。息を吸った。体と視線は正面に、頭の中にはなんてことない定型文。

 その定型文を響かす空間を作るためだけにみんなは黙っている。

 ……よし。

 口が開いた瞬間、みんなの視線がそこへ集中した。勿論緊張したし、吃ってしまいそうにもなった。でも、後悔だけは一切していない。

「改めまして、ダリアプロダクション二期生の武藤黒です。これからよろしくおねがいします!」

 下げたままの俺の頭に拍手が降りかかる。頭を上げるとミチルが両手を打ち鳴らしていた。それに倣うように、一人、また一人と、拍手が広がっていく。部屋に満ちているパチパチという音が心地よく、また照れくさくもあった。

 あぁやっと、二期生って、胸を張って言えた……。

 深呼吸なんて出来なかった。ただ言葉を発するのに必死で、声帯を震わせて口を開閉させるだけの慣れた動作なのに心臓が爆発しそうになって、でもそれすらもめちゃくちゃ嬉しくって。気分が高揚しているの一言で片付けてしまうのが勿体ないくらいだった。

 一茶さんはあっはっはと盛大に笑ったかと思うとこちらに寄ってきて俺の肩をバシバシ叩きながら言った。

「黒! やったね! これで三人揃ってお披露目できるね!」

 俺はその言葉にしばし固まる。…………はい? お披露目、とは?

「1期生と同様に2期生もまとめて三人組ユニットにした方がなにかと運営しやすいだろう?」

 俺の反応をどう受け取ったのかは知らないが姥原さんはそんなふうなことを言っている。

「いやいやいや、待って待って待って? 三人揃ってお披露目? ってどういうことですか」

 俺は全員に向けて投げかける。それに詩子は「アイドルが始まるってことだよ! おめでとう!」と元気いっぱいに教えてくれた。親切に答えてくれて申し訳ないがそういう話ではない!

「え? もう人前に出る予定が決まっている、ってこと?」

 一同揃って「そういうことです」という意を込めてこくこくと頷いている。

「すまない、急な話で驚いてしまったよね。武藤くん、姥原くん、緑川くんの三人には二期生グループとして八月のLightPillarデビュー一周年記念ライブでバックダンサーを務めてもらうと同時にきみたちのユニット曲を一曲お客さんたちに披露する時間を作ろうって話が出ていてね。彼らはそのことを言っているんだ。正式なメジャーデビューはまだ先だからこの件はあくまでお披露目という話だけど」

「もうそんな話があがっているんですか? こう言ってはなんですけど、俺も一茶さんも姥原さんもまったくの素人なのに……」

「レッスンは増えるとは思うけれどそのあたりは大丈夫だよ。そのための中原くんや上條くんだからね」

 社長はそう言うが本当に大丈夫だろうか。この心配性のきらいは今に始まったものじゃないけれど、ここはみんなの言う『大丈夫』を信じるしかない。

「うだうだ言ったけど俺も今はもう二期生です。絶対アイドルになって良かったって思える結果になるように全力で向き合います! よろしくお願いします!」

 気合いの入った俺の声を聞き入れたみんなは大なり小なりあるが笑っていた。それがやっとこの場に迎え入れてもらえたようで嬉しかった。

 俺がアイドルとしての自覚をしっかり持ち始めるのはまだ先になりそうだけれど、それでも今の俺はアイドルで、ファンだって二人もいるんだ。

 

 六月下旬、俺、武藤黒は書類上アイドルになった。それは劇的とは言えないかもしれないが確かに俺を変える出来事だった。

 そしてこれからもアイドル武藤黒は変わり続けるのだろう。きっと。

 

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