入所式(2年目)

 レッスン前の真昼のひとときは大敵だ。休憩室の窓から差し込む日差しがあたたかくって、とても眠くなる。

「所属一周年だっていうのに詩子は随分と気が抜けてるな」

 厳しい言い方だがそう言いつつもミチルちゃんだって大きな欠伸を浮かべている。

「一周年とぽかぽかが気持ちいいのはまた別だと思うの」

「……そうだな。まぁビッグニュースでもない限り俺達は今日も稽古までこんな調子だろうよ」

 たしかに。と言いかけた私の言葉を遮るようにさっきまでお茶を注いでいたレイちゃんが声を上げる。

「あぁあるよ、ビッグニュース。ふたつね。ダリアプロダクションの二期生オーディションがあったことはふたりともまだ知らないよね?」

 テーブル上に三人分のマグカップを並べながら彼は言った。それを耳に入れた私は寄りかかっていたソファの背凭れからガバッと勢いよく飛び起き、お茶が入れられたばかりの自分のマグカップに息を吹きかけて冷ましているレイちゃんを見つめる。ミチルちゃんも同じように、欠伸していた口をあんぐりと開けたまま彼を見ている。

「知らないぞそんな話」

「当然だよ。水面下で進行していたのだから」

「なんでレイは知ってるんだよ?」

 詰め寄るミチルちゃんをあしらうよう、レイちゃんはなんでもないって顔でしれっと「だって俺審査員だったから」とお茶を啜る。お茶はまだまだ熱かったらしく、彼はきゅっと目をつむって「あつい」と言葉を溢した。

「いいなぁ審査員! 詩子だって審査員やりたかった!」

「そこかよ。……そんで、どんくらい応募があって何人受かったんだ?」

 レイちゃんはいじわるするように「何人だと思う?」と問う。それに間髪入れず「知るか」と返すミチルちゃんは話の先が気になって仕方がないようだ。

「正確な応募者数はわからない。俺が同席したのは最終審査の面接だけだからね」

「じゃあ受かったのは?」

 今度は勿体ぶらずにすぐ答えを提示してくれた。

「ひとりだけだったよ、合格したの。というか、そのひとりは今丁度下の階で入所式をしている真っ只中だったりする。これがふたつめのビッグニュースだ」

 ♪♪♪

 社長の声が聞こえる。でも聞こえるだけでその内容に俺はイマイチ興味が湧かなかった。

 意識をどこかに追いやったら思っていたよりも心地よかった。ぼんやりがてら回想でもしようか。そうしようそうしよう。きっとその方が定型文を読み上げるだけのこの場で真面目に聞き耳立てるよりも今のこの時間を有意義に過ごせる、そんな気がする。

 ♪♪♪

  「まさか受かるとは」

 見渡しが良い歩道を歩きながら手元の入所式の案内を見下ろす。何度見てもやっぱり合格している様子に、俺の何がそんなにアイドルに向いていると買われたのだろうと不思議でならない。いや、合格を目指してオーディションに挑んだんは確かなのだけどね? やっぱりさ、自分に自信がない輩というものはそう思ってしまうものじゃあないかな。

「根掘り葉掘り審査員に聞いてみたいくらいだ……っと着いたね」

 面接に来たときと変わらず、それなりに稼いでいるひとが建てたことがひしひしと伝わっているような家屋は、表札の『芸能事務所 ダリアプロダクション』の文字さえ見なければ絶対に芸能事務所になんて見えない。

「俺が無知なだけでどこの事務所も実は一軒家なのかな」

「多いですよ、一軒家の事務所」

 不意に出た独り言へ誰かの言葉が返ってきたことに声も出ないほど驚いて数歩後退る。目の前には帽子を深く被ってマスクと眼鏡をかけた怪しい男。それが俺に話しかけている。

「小さめの事務所ならこちらの方が主流かな。一軒家と言わず普通の賃貸物件の一室を借りていたりもしますよ。もっと大きくなるとビルとか用意し出すんですけどね。あ、ビルを用意するって言ってもタワーみたいなものじゃなくて、結構小さい、その辺にあるようなやつですよ」

 事務所の規模の説明をしてくれる親切で怪しい青年に向けて俺は言いたい。「誰?」とけれどそんなことは出来そうにない雰囲気……。

「あ、ごめんなさい。今の俺は随分と怪しいですよね」

 だがそんな俺の胸の内を察したのか、彼はマスクと眼鏡を手際よく外す。目の前に広がったのはやけに造形の綺麗な顔だった。

「失礼しました。これで分かりますか? 面接の時以来ですね」

「あ、」

 元αindiの、確か今は水森レイといったはず。面接の審査員を務めてくれたひとりだった。

「失礼しました。おはようございます、水森さん」

「おはようございます。どうですか、緊張とか」

「いえ、不思議と緊張はしていないのですがね。それとは別に、どうして合格できたんだろうって疑問が残っていて。それが少し気掛かりだなって思ったくらいです」

 水森レイは確かに口元に笑みを浮かべていた。それは決して嫌味じゃない、先輩が後輩を見守る視線そのものだ。

「大丈夫ですよ。アイドルに向いているか向いていないかの判断を下すのはそう簡単じゃないですが、今回の面接を担当した俺と社長はそのあたりの腕前はかなり自信があります。緑川さんはアイドルの才がある。いや、あなたの場合はアイドルの才能というよりも――」

 ピリリピリリ、ピリリピリリ

 スマホのアラームだ、これが鳴るってことは今の時刻が集合十分前だってこと。 「時間ですか?」

「そうみたいです」

 それじゃあ急がなきゃね、と彼はインターホンのボタンを押した。そう言えば事務所前に着いたらインターホンを押せって入所案内にも書いてあったなと思い出した。

「水森レイです。入所式にお越しの緑川一茶さんも一緒です」

 彼はそれだけ言えばなにか聞くよりも先に勝手に門を開け入っていく。玄関までのとっても短い道のりを会話のひとつも交わさずに通り過ぎ、水森レイが開けた玄関ドアから家屋の中へ入る。

 室内は、まぁ、外観相応というか、面接に来たときと変わらず。靴箱から玄関マットや傘立てまで普通のご家庭にあるような代物で、安心感すらあった。

 靴箱には靴が五足、床には一足が揃えて置かれており、それなりの人数がこの家屋に入っていることがわかった。

 廊下の奥から一人の男性が歩いてくる、若くて、多分俺とそう年齢も変わらないだろう青年。たしか以前ここへ来たときに案内をしてくれたのも彼だった。名前はそう、江坂さんだ。

 江坂さんを視界に入れた水森レイは、案内は案内役にとでも言うように「それじゃあ」と残し、手近にある階段を上って行った。

「緑川さん、おはようございます。水森さんとご一緒だったのですね」

「おはようございます。まぁ、玄関で一緒になりまして」

 さようでございますか。とにこやかな笑みを浮かべながら、彼は廊下を先導し話を続ける。

「今日の入所式ですが、あまり固いものではありませんので、のんびりとした雰囲気で、それでいてすぐに終わるかと思います」

 昨年もそんな感じでしたからとふわりと笑う姿から、あぁ前年の入所式は穏やかに済んだのだと察せられる。

「そうなんですね。……あの、俺以外の入所者ってどのくらいいるんでしょう。玄関には靴がそれなりにあるように見えましたが」

 彼は微笑みをそのままに「入所者は緑川さんだけです。でも入所式にはもうひとりいらっしゃいます」と意味深な発言を残して本日の会場だという事務室の扉を開けた。

 そこで待ち構えていたのは社長と数名の事務員、そして黒髪に赤ともピンクとも言えない不思議な瞳を持った青年だった。



 入学式も入社式も真面目に話を聞いたためしがない。今日だって、窓から入り込む日差しの暖かさが気持ちよくって。この陽を浴びながら茶でも飲めたら最高だろうなぁと考えている内に入所式は終わっていた。

 隣のパイプ椅子に腰掛けている彼はなんでかとても緊張しているように見えた。俺にはわからないが緊張している彼の反応の方が一般的なのかも知れない。

 隣の彼は〝武藤黒〟というらしい。さっき社長が入所者の名前を読み上げていたから知っている。艶のある黒髪とツリ目に携えた新鮮なラズベリーみたいな色の透き通った瞳。それをただ真っ直ぐ社長へ向けている。やっぱりその顔は何度見ても緊張をはらんでいた。

 思えば俺の人生というものはいつだって、他人から〝肝が据わっている〟だの〝神経が図太い〟だの言われがちだったが、こんなときまでそれを実感しなきゃならないというのはイマイチ良い気分にはならない。というか、俺は俺自身のことを決して肝が据わっているだのと評したことはない。どちらかと言えば消極的であるし、どちらかと言えば逃げがちだ。たぶん。……ほら、今だって〝どちらかと言えば〟とか〝たぶん〟だなんて曖昧な言い草で決定的な発言を避けた。

 そういう人間なんだ。緑川一茶は。

   ♪♪♪

 長い髪を揺らして歩く背の高い後ろ姿は、簡素な言葉だが美しいと思った。

「君は入所者ではないの?」

 彼がそれを発したのは、資料説明があると応接室に移動させられ、江坂さんがどこかへ書類を取りに行ってすぐの事だった。

 正直に言えば、なんて答えればいいのか非常に悩ましい問いだった。ありのままを伝えるか、ぼかすか、ちょっとだけ嘘をつくか。

 けれど俺は存外正直者のようで、他のふたつの選択肢なんて目に入らなくって、結局ありのまま飾り気のない答えを口に出してしまう。

「俺は仮入所って位置づけで、正確にはそうですね、正規入所ではないです」

「なんで正規入所しないの?」

 矢継ぎ早に問うたわりには彼はまるで口笛でも吹き出しそうな飄々とした様子で、この話に興味があるんだか、ないんだか、わからない。けれど目は確かに好奇をはらんでいて、俺の答えをただ目をらんらんとさせて待っている。

 他人からの好奇の視線なんて久しぶりだ。それが痛いものだと思い出したのも同じく久しぶりだった。相手の好奇心に応える必要なんてこれっぽっちもないだろうに、俺というものは、どうにか気の利いた返答をしようと要らぬ気を巡らせてしまう。だが結局そんなものは見当たらず、俺は言い淀みながら全く以て面白みに欠ける本心を吐露し始めていた。

「まだ、あの、……悩んでいて。俺は本当にアイドルになっていいのかなって」

「でもオーディションを受けてそれで合格したんだろ?」

「……実は、オーディションじゃなくってスカウトで入ったんです俺。勧誘というか、アイドルに興味ないかって誘われて」

「ふーん。でもさ、興味があったから今この場にいるんだろう?」

「それは」

 喉に言葉がつっかえる。先を言うのが怖かった。嫌だった。でもむしろ言った方が楽だったのかもしれない。特にやりがい等は感じなかったが頼まれると断れない質だったというだけの誠意に欠ける理由で芸能活動に手を出そうとしているって。その方が自責の念なんかが一層強くなって、この場に居づらくなって、それで入所辞退とかしやすくなったんじゃないかな。

「……とにかく、俺は誘われたからこの場にいるだけで自らオーディションに応募して合格したあなたとは雲泥の差がある、と思います。それに俺はいろんなことに関して素人だし、やっぱり芸能事務所に入るような器はないんです。芸能界ってそんな生半可な気持ちで入る場所じゃないでしょう」

「いやいやいや。なんていうかな、技術とかはとりあえず抜きにしようよ。別にきみがなにを思って一歩踏み出せないとか俺には一切関係がないからいいけれど、それはそうときみは結局アイドルをやりたいの? やりたくないの? 今の煮え切らない状態はきっとたとえ実際に正規入所して事務所に残ってもそうじゃなくても辛いよ」

 分かっているよ、そんなこと。どっちを取っても辛いから仮入所なんじゃないか。

「…………、逆に聞きますけど、あなたはアイドルやりたいんですか」

 ムキになっていた。胸の内を見透かされているような発言を受けて、まるで自分の心の中に土足で上がり込まれた気がして、それを追い出すように語気を強めることしか出来なかった。

 彼はもうあの嫌な好奇をはらんだ目をしていなかった。かわりに無力なものを前に手を焼いているみたいな、救えないものを見る目を俺に向けているように思えた。

「俺はアイドルにこだわっていないよ。自分を変えたいって一心で、それだけでオーディションを受けた。俺の目的に見合った理想の立場がアイドルだったからアイドルを目指している。それだけのはずだ」

 さっぱりした物言いだったけれどとても不確かな返答。

 俺はなんとなく察してしまった。さきほどの〝救えないものを見る視線〟が俺ではなく彼自身に向けられていたことを。

 もしかしたらこの人も俺と似ているのかもしれない。アイドルになりたいからなるわけじゃない者同士、どこか、なにか。

 そうこうしている間に江坂さんが書類を手にして戻ってくる。

「こちらが緑川さんでこちらが武藤さんの書類です」

 俺は二枚で緑川さんは三枚。正規入所なだけあって彼の方がちょっと多いのだろう。

「お二人ともこのあとはお時間に空きはありますか?」

「俺は大丈夫です」

「あ、すみません。俺はこのあとバイトが入っていて……」

 壁掛け時計に目をやれば時刻は十二時をやや過ぎたころで、一時からシフトが入っている俺を少し焦らせた。

「それなら施設説明は明後日のレッスン開始日に、武藤さんもご一緒出来るときにしましょう。では最後にお二人の自己紹介をして終わりにしましょうか」

 先生から発せられる自己紹介の催促みたいな感じでなんだか子供になった気分だ。

「それじゃ改めまして。俺は緑川一茶 みどりかわいっさ 、二十五歳。好きなものは緑茶だ。それ以外は、特にないかな。よろしく」

武藤黒 むとうくろ 、二十二歳です。好きなことは絵を描くこととコーヒーを飲める時間です。よろしくお願いします」

「コーヒー好きなんだ? 大人だね、俺飲めないんだ。それに絵も得意じゃない」

 趣味を否定され嫌いと言われたわけではないのだが、なんだか「好きじゃない」とわざわざ言われたような気がしてちょっとむっとしてしまう。

「俺より緑川さんの方がよっぽど大人でしょう。それに、コーヒーなんて今時子供でも飲めますし、絵だって得意不得意くらい誰にでもあります。そうでしょう?」

「それは失敬。ふふ、きみは本当にそれらが好きなんだね。羨ましいよ。冗談や冷やかしなんかではなく、本心から」

 目は口ほどに物を言うって言葉がある。緑川さんの目は切望を宿していた。キラキラしているように見えて静かに飢えている瞳。彼は本当に俺を羨ましいと思っている、そう感じた。

「俺ときみは明確に違う人間だ」

 彼はそっと語り出す。

「けれど全部が全部違うわけじゃあない。似ているところもきっと、そんなに多くないかもしれないけれどあるはずだ。きみは分からない? 俺ときみとの共通点」

「なんとなく。本当に、極めて僅かですが。たとえば――」

「あぁ、いいよ言わなくたって。その、認識と呼ぶには不確かな、きみ自身が持ち合わせた勘のみで察したそれは見事に当たっていることだろう。だからこそ俺ときみは上手くやっていけるはずさ、きっとね」

「……緑川さんは、『たぶん』とか『きっと』とか『何とかなはず』とかよく使いますね」

「ははは、そういう人間なんだ緑川一茶は。けれどそれを変えるためにアイドルになる。きみもきっと、何かのためにアイドルを目指す運命にあるよ。なんせ似たもの同士だからね、俺達はさ」

「ほら、また『きっと』って」

 彼の真意を俺は理解出来ていない。だがそれが理解出来たとき、俺は緑川一茶の心臓に触れられるのだろう。

「それじゃあ俺は行きますね。また明後日。失礼します」

「うん。またね、黒」

 彼はひらひら手を振る。名前で呼ばれることなんて慣れっこなのに、なぜだかとてもこそばゆかった。

 バイト先へ向かう道すがら立ち寄ったコンビニでは男性アイドルがタイアップした商品がずらりと陳列されていた。それを素通りしてホットドリンク売り場の缶コーヒーを手に取る。

 手にしたそれを数秒眺め、視線の端に見切れる緑茶へ目を移動させる。物言わぬ小さな緑茶のペットボトルのパッケージラベルは、緑川さんの長い緑色の髪を彷彿とさせた。

 俺はコーヒーを元あった場所に戻して隣にあった温かい緑茶を持ち直した。

 コンビニでお茶を買うのなんて随分久しぶりだと思いながらレジへ足を向けるのは、まぁ悪い気はしなかった。

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