それは雨音響く夏でした

 ガラガラと、後ろ手に職員室の引き戸を閉める。季節は七月の下旬、中学二年の一学期が終わる頃だった。

 職員室から一歩一歩遠ざかる足取りは元気だとは言えなかった。別に複雑な理由なんてものはない、ただ教師から呼び出しを食らって少し不機嫌になっているだけ。

 伸びきった襟足を指で弄ぶ。二学期までに切ってこいと言われた後ろ髪。元はと言えば、こいつのせいで貴重な放課後を無にされたんだ。

「俺だって切っていいんなら切るっつーの」

 ぼそりと呟いたのは疑いようのない不満だった。

 俺だって、女みたいな髪型にも、夏場に首元に髪が張り付く煩わしさにも嫌気がさしていた。

「でも真希奈が切るなって」

 真希奈――全く、母親を名前で、それも呼び捨てで呼ぶなんて変だ。周りはそんな呼び方しない。だけど真希奈は俺にそう呼ぶよう言いつける。

 真希奈の言いつけは変なものが多い。髪を伸ばしているのもその一つだ。以前何も言わず勝手に切ったときはそれはえらく怒られた。

 俺の母親は〝そういう人〟なんだ。

 昇降口から見える校庭の砂は雨に濡れて色が濃くなっていた。

 もう三十分早く御高尚なお説教を切り上げてくれたなら曇っている間に帰れたのにな。

 スクールバッグに突っ込まれていた折りたたみ傘を開いてみると骨組みが一本あらぬ方を向いていた。不格好な傘で帰るのは嫌だから、自力で直そうと元あった位置に戻すよう傘の骨を曲げる。

 案外いけるかも、と思った瞬間パキッと軽い音と共に骨は折れ、取り返しがつかないことになってしまう。……やらなきゃよかった。今日はつくづく運がない。

 一層歪になった藍色の傘を差してトボトボと歩道橋を渡る。折れた骨組みが力なく揺れるのを眺めながら、今日の晩飯とか散髪の打診の仕方とか、そんなことを考えていたら十五分ちょっとの帰路などすぐだった。

 アパートの二階の一番端、二○九号室の明かりがついていることを廊下から確認してドアノブを捻る。真希奈の機嫌が良くなるように「ただいま」っていう適切な挨拶も添えて。

「能代さんおかえり、遅かったね」

 実の息子に丁寧な敬称をつけているこの人こそ件の母親――結木真希奈――である。

「……、なんで俺の帰りが遅かったかわかる?」

 言葉を発する前に小さく溜め息を吐いたことにこの人は気がついただろうか。まぁ、気がついても気がつかなくても、どうせこの人の対応は変わらないのだからどっちだっていいや。

「〝また〟呼び出されたんだ、髪のことで。二学期までに切って来いってさ」

 真希奈は鍋をかき混ぜながら「髪が長くたって学力に影響はないのにねぇ」と見当違いな意見を述べる。

「あのね、学力どうこうの話じゃないの。学校っていう組織のルールとして、男子の髪は肩についちゃいけないの!」

 さてはわざとすっとぼけてるな?

 話す前から分かっていたが誰に何を言われても髪を切らせるつもりはないらしい。俺自身も頑固な方だという自覚はあるがこの人は俺以上に頑固だ。

 晩飯はハンバーグだった。我が家で洋食が出るのは珍しい。わざわざ手作りしたらしいデミグラスソースが掛けられ、白くて四角い皿にボイルされた野菜が色鮮やかに映えていてとても綺麗だった。

 向かいに座る真希奈はハンバーグを咀嚼する俺の顔をじーっと見つめながら「おいしい?」と問うてくる。

「うん? 普通」

 返事を誤ったと思ったのは既に発したあとだった。

 この質問への最良の答えは「おいしい」であるはずだから、俺は小言を言われるのではと身構える。だが真希奈の様子はむしろ少し嬉しそうにすら見えた。

「そう、普通なのね。それでいいわ」

 何かに納得したような独り言に疑問を抱いたが、この人は普段からこういう人だから、気に留めるほどではなかった。

「そうだ、能代さんあとで――」

 真希奈は何かを言っていたが回り続ける換気扇の向う側から聞こえる雷の音に掻き消されてよく聞こえなかった。だけど四角を表すジェスチャーで何か四角いものをどうにかしろという話だったことは理解できた。しばらく飯を食う俺を眺めた真希奈は「食べ終わったら洗い物お願いします」と言い残して自分は何も食べずに自室に戻っていったので、あぁ皿洗いしとけって言いたかったのかと腑に落ちた。

 

 言われた通り皿洗いを行うあたり、俺はとても律儀で家庭的だと思う。実際はただ単に逆らえないだけだけど。

 結局髪を切る打診には失敗した。どうすればいいかと巡らす思考は、真希奈の部屋から聞こえた何かが落ちる音で止められる。

 真希奈は平均的な身長だが我が家の棚は少々高い。何かを棚の上から落としたのかもしれない。なら俺が元の場所に戻してやらないと。

 湯沸かし器のスイッチを切り真希奈の部屋へと向かう。部屋のふすまに手を掛け右に滑らすとなんの抵抗もなくすんなり開く。

 室内は真っ暗だったがダイニングから入る光でなんとか中の様子を確認できた。

 床に転がった椅子を見るに、物を落としたんじゃなく、何かの拍子に椅子が倒れただけらしい。まったく何やってんだか。

 髪の毛の仕返しに一言なにか言ってやろうと真希奈の姿を探す。椅子から目を離すとき、ダイニングから入り込む光の中で影が一つ揺れるのが見えた。

「真希奈?」

 影を辿るように少し視線を上げると人の足が見えた。

 途端に顔が青ざめる。だって足が、爪先が、浮いているのが見えたから。

 倒れた椅子。揺れる影。浮いた爪先。

「真希奈? おい、ねぇ」

 爪先より上に目を向けてはいけないと分かっていた。でも俺は、上を向いてしまったんだ。見てしまったんだ。

 天井の梁からぶら下がるそれ――真希奈――を。

 降ろさなきゃと思った。今息が出来なくてもすぐに医者にみせれば助かるかもと思ったから。助かってもらいたかったから。

 転がっていた椅子を真希奈の前に立てる。座面に足を乗せて踏み上がるとガタガタと不安定に揺れた。真希奈が倒したときにどこか壊れたのかもしれない。

 真希奈の腰に腕を回してロープにゆとりが出来るように抱え上げる。

 女って、こんなに重いのか?

 思っていたより重たい体と依然として収まらぬ椅子の揺れのせいで思うように持ち上がらない。

 首元の輪を掴んで引っ張るとぎりぎり頭が通るゆとりが出来た。これで降ろしてあげられる。やっと息を吸わせてあげられる。

 安堵した瞬間、今までで一番大きく椅子が揺れた。脚が地面から離れた椅子はどうやったって重力には勝てなくて、俺は真希奈の腰に腕を回したままバランスを崩す。

 椅子が倒れる音と頭が打ち付けられた衝撃が脳に響く。左のこめかみがズキズキ脈打つように痛む。

 モタモタしている暇はないのに、一刻を争うのに、早く真希奈を――

 側頭部を抑えながら顔を上げた先で、もう何もかも手遅れだと認識させられる。

「首、が――」

 真希奈の首は不自然に項垂れ、うなじにはさっきまではなかった異様に主張する大きな出っ張りが出来ていた。その出っ張りは学校帰りに使った折りたたみ傘を彷彿とさせた。

 もう助からない状況を察して全てが耐えられなくなった。突然母親が死んだ怖さも、死体に触った気持ち悪さも、室内に立ちこめる悪臭にも。

 全てを畳の上にぶち撒ける。顔の横から垂れ下がる長い髪に嘔吐物がつくのも、もはやどうでもよかった。

 口と喉に広がる味と畳の上に広がるそれで今日の晩飯がハンバーグだったことを思い出した。それを思い出したところで、今のこの状況はなにも変わらないけど。

 ひとしきり吐いたあと、外から聞こえる雨音で冷静になる。誰か大人に連絡しないと。警察? 救急? なんて伝えればいい? 「母親が首を吊りました」?

 頭を悩ませながら電話を掛けた先は伯母の家だった。



   ◆



 初めて葬式に出た。周りの大人の見よう見真似で、何の意味があるのかも分からない儀式を沢山した。時間が過ぎるのがとんでもなく遅く感じた。心も体もとてもとても疲れた。

 帰りの車の中で思考を止めて窓の外を眺めていると隣に座る伯母から声を掛けられる。

「真希奈から能代へ」

 そう言って渡された封筒を脳が遺書だと認識した瞬間、数秒息をするのを忘れた。

 少し躊躇いながらもそれを受け取る。

 何の変哲もない真っ白な封筒。遺書ってなんとなく、封筒の表に分かりやすく『遺書』って書いてあるものだと思っていたから、何も書かれず真っ新で簡素な様に実際はこんなものなのかな、なんて感想を抱く。

 糊付けも何もされていない封から便箋を取り出す。書き綴られている文字は間違いなく真希奈のものだった。

 

『 能代さんへ

 私、結木真希奈は七月十九日の夕方、自室にて首を吊りました。

 今、この手紙を読んで能代さんは様々なことを考えていることかと思います。けれどなにも不安に思うことはありません。大丈夫です。だってあなたは能代さんだから。

 この死に方を選ぶ理由は以前それとなくお話しましたね。そのために私が出来る最後の行いがこれなのです。

 あなたのこと、今でもとても大切に思っています。生まれてきてくれて、出会ってくれてありがとうございます。あとのことはどうぞよろしくお願いします、 』



 何が言いたいのかいまいち読み取れない文章に頭を捻る。

 一番頭を悩ませたのは〝この死に方を〟から始まる部分。首吊りの理由なんて聞いた覚えがない。

 良くない想像が脳を駆け巡る。

 以前それとなく話したって、もしかしたら真希奈は死ぬ前に予兆や合図を見せていたのではないか? それに気付かず見過ごした、だから真希奈は死んだのではないか? 俺はもしかしたら、あのとき真希奈を助ける手段を持っていたんじゃ――。

 そこまで思考したところで強く肩を叩かれる。手の主は伯母の亜利紗さんだった。

「能代?」

「あぁ、いや、なんでもないです。手紙ってこれだけですか? 亜利紗さんはこれ読みました?」

「……それだけよ。私は読まないわ、それは私に宛てられたものじゃないから」

 俺が聞いたことに簡潔に答えた伯母はワイパーがちらつく窓に視線を移した。

 手紙はこれだけか……。でも、なんだかこの手紙はおかしい気がする。分からないけど、何かがおかしい。

 間違え探しのように文面とにらめっこしていたが、結局言い知れぬ不自然さの正体に気づけないまま伯母の家についてしまった。

 封筒を片手に車を降りる。小雨と、夏らしい気温と、湿った空気。それらが肌にじっとりと纏わりついてあまり気分がいいとは言えない。

 後に続いて降車した亜利紗さんは「色々と整理がつかないとは思うけど、きっと時が解決するわ」となんとも言えない笑顔を浮かべながら俺の手を引く。

 繋がれた手の生き物らしい相応な体温に触れながら、俺はあの日のぬるい真希奈を思い出していた。

 真っ暗な部屋、倒れた椅子、揺れる影、梁から伸びるロープ、重たい体、口に広がるハンバーグの味。

 それは雨音響く夏でした。

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