ただ欲していたのだ
ふと目が覚めた。その身をすぐさま起こしてベランダへ空の様子を見に行く。
十月二十二日の午前五時五十分。開けた窓から入る涼しい秋風に吹かれながら見た空の朝焼けには雨上がりの清々しさが見受けられた。
今日が俺にとって何かが変わる日になることは明白だ。その何かはあと数時間で分かる。
なんだか落ち着かなくて、暇を潰すためにテレビを点けても意識は上の空で、聞こえてくる言葉の全てが耳を通り過ぎてどこかに行ってしまうようだった。
アナウンサーの声が耳障りに感じたところで原稿を読み上げる声を遮るようにテレビを消す。何かすることはないかと立ち上がり、徐に部屋の掃除を始める。片付けなければいけないほど乱れてはいなかったが気を紛らわすのには丁度良かった。
何から手を付けようかと自室の入り口から部屋を一望する。
本棚、ベッド、机、そしてその横に置かれた木製のチェスト――ああ、あれに手を付けるべきだ。だって今日はあの話をするのだから。
俺の腰ほどの高さのチェストは五段に分かれているものの、活用しているのは上の三段までで、とくに五段目、唯一鍵がついている一番下の引き出しはもう長らく開けてはいなかった。否、開けたくなかったのだ。
チェストの前で片膝を着き、五段目の引き出しの鍵穴を指でなぞる。
ここの鍵はどこへやったか。
長いこと気に留めないようにしていたせいで正確な在り処を把握出来ていなかった。
だが今日はここを開けなければいけない。きっとあれが必要になる瞬間が来るだろう。
鍵はどこだと片膝を着いたまま辺りを見渡す。目に見えて分かりやすい所にはないと思っていたがそんなことはなかった。
ふと振り向いた先で、たぶんあそこだろうなと感じる物が目に入った。
チェストの向かいにある本棚の一番下の一番右。そこにはアルミ製の小さな箱が己を主張しないようひっそりと放置されていた。
どうやら俺は視界に入れたくない物を下方に追いやる癖があるらしい。配置の仕方はわかりにくいが、五段目の引き出しといい鍵の在り処といい、傾向が露骨に表れていて呆れてくる。
箱を軽く振ってみるとカラと乾いた音が鳴る。中には思った通り、くすんだ金色の小さな鍵が一つ入れられていた。
この鍵で引き出しを――
行動に移そうとした矢先、インターホン特有のあの音が室内に鳴り響く。時計は七時三十分を示していた。
途草が来たか。
小さな鍵を腰ポケットに入れ、足早に玄関へと向かう。扉を開けた先には落ち着いた表情の途草がいた。にやけ顔はどこかに置いてきたらしい。
「おはようございます。早速お邪魔しますね」
そう言って中に上がり込んだ途草はスタスタと一直線にリビングへ向かい、手土産らしい紙袋をテーブルの隅に置く。
「勿体つける理由はありません、早速話を始めましょう。結木真希奈さんについて。順を追って話をするつもりです。情報の真偽や能代さんの理解や認知の有無を確認しながら進めます、話の途中でも質問してくださればその都度分かる範囲で答えます」
胃の中が酸で爛れてしまったように気持ち悪くて、頷く以外の反応が返せなかった。
途草は鞄からメモ帳を取り出すと綴られている内容を読み上げる。
「結木真希奈さん、享年三十五歳。九年前、能代さんが中学生の頃に亡くなられた、能代さんのお母様ですね?」
背もたれに身を預け、小さく頷く。
「死因は縊死。九年前の七月十九日に自ら命を絶たれました。もしかして能代さんが求めているものは真希奈さんの、お母様の死の原因でしょうか?」
また、黙って頷く。どれも事実だったから。
「真希奈さんが命を絶つまで追い詰められた原因ですが、うーん……。一部の身内と上手くいっていなかったとか、小さなトラブルがちょくちょくあっったとか、心療内科に通って安定剤を処方して貰っていたとか。心が疲れていると思しき様子はいくつか見つかりましたが、どれも自殺するほどかなという気がして、決定的なものは……」
そこまで聞き終えて俺はずっと噤んでいた口を解く。
「決定的なものは無い。だとするとただ疲れていて自殺したでお終いだ」
途草は黙って、何を考えているのか分からない瞳でじっと俺を見ている。
「でもな、俺だって理由なくこんな面倒な問題に固執しているわけじゃない」
そう言って席を立つ。
「どこに行くんですか」
「お前にこれ以上の協力を仰ぐなら、俺からもお前に結木真希奈の情報を提供すべきだ。だって等価交換だろ。すぐに戻る」
歩を進めた先は自室の、例のチェストの前だった。
やはり今日はこういう日なんだ。
ポケットから引き抜かれた手には今朝の小さな鍵が握られていた。
先端を鍵穴に差し込んで軽く回すと音も立てずにすんなり開く。その様子はまるでずっと開けられるのを待っていたようだった。
とうとう追い求めるフリをして逃げてきた問題に向き合う時が来た。
開かれた引き出しの中には一枚の写真と白い封筒。
俺は封筒へ手を伸ばすのを少し躊躇った。けれど怯む気持ちを押し退けてそれを手に取る。これがないと話が進まないと思ったから。
持ってきた封筒をテーブルの上に置き、途草に中を見るよう促す。
真っ白で何も書かれていない封筒だったがこれが何であるかはすぐに理解したらしい。失礼しますと律儀に断りを入れ、途草は便箋を取り出す。
『 能代さんへ
私、結木真希奈は七月十九日の夕方、自室にて首を吊りました。
今、この手紙を読んで能代さんは様々なことを考えていることかと思います。けれどなにも不安に思うことはありません。大丈夫です。だってあなたは能代さんだから。
この死に方を選ぶ理由は以前それとなくお話しましたね。そのために私が出来る最後の行いがこれなのです。
あなたのこと、今でもとても大切に思っています。生まれてきてくれて、出会ってくれてありがとうございます。あとのことはどうぞよろしくお願いします、 』
便箋一枚に収まる字数を途草が読み終えるのにさして時間は掛からなかった。
手紙を元に戻すと俺に一言礼を添えて手渡してくる。
「内容に関しては理解しただろう、読んだ通りだ。今見せたものは結木真希奈の遺書であり、俺がもっとも引っ掛かりを感じている代物だ」
封筒を受け取りながら「遺書について気になる点があれば手短に述べろ」と告げると、途草は紙に書き留めながらいくつか要点を上げていく。
「真希奈さんからの呼ばれ方はこの手紙以前から『能代さん』でしたか?」
「あぁ昔からだ。あだ名みたいなものだろう」
ずっとそうだ。物心がついた頃には既にそう呼ばれていた。
「文中では『以前それとなく話した』とありますが、首吊りの理由に何か覚えはありませんか?」
「ない。それに心当たりがないからこうも手を煩わせている」
途草は愚問でしたねと苦笑を浮かべた。
「最後に一つ。便箋は本当にあの一枚のみですか?」
…………。
それは俺も一番気に掛かっていることであった。
「文末が不自然に読点で終わっていることについてだろう? ミスの可能性もゼロではないが遺書は流石に書き終えた後に読み直すなりするだろう。結木真希奈は確認して書き損じに気がつかないほど馬鹿でも、書き損じを見つけて放っておくほどいい加減でもない」
途草の口角がやや上がった。恐らくこいつも俺と同じことを考えている。
「二枚目以降の便箋が存在しているのでは、と俺は疑っている。その手紙を俺に手渡したのは伯母だ。彼女は何かを知っていて、そして隠しているはずだ。何度か問い質したことはあったがあしらわれる一方で何も得られなかった。核心をついて揺さぶりをかけないと何も聞き出せないだろう」
洗いざらい話した。途草は前のめりになりながら何度も頷いている。その顔は満足げだ。
「大方理解できました。いえ、真希奈さんの問題ではなく能代さんについて。ぼくはね、ずっと気になっていたんです。どうしてあの日、能代さんは『結木真希奈について調べろ』って言ったのか。あなたはこんな広い部屋に住むくらいその年齢じゃ珍しいほどお金を持っていますし、探偵でも興信所でも他にも手はあったんじゃないかって」
そうだ、金ならあった。
「きっと全部試した後だったんでしょう? でも全部無駄で、結局金を使っただけで、もう最後の手段は遺書に細工したであろう伯母を問い質すしかなくなった。それも結局あしらわれて終わり。もし伯母から聞き出すのであれば〝ほとんど答えを導き出せた状態〟まで自分で至らなければいけなかった。どんなに遠回りでも、伯母に聞き出すことが一番確かだって信じて、その状態まで辿り着こうとした。そんな最中に出会ったのがどんな情報でも調べ上げると豪語したぼくだ」
だったらなに? と笑えば、「いえいえ、それを踏まえた上で一つ質問に答えていただければ」と微笑み返された。
「深い意味はない、ただの十九歳の疑問です。どうして能代さんは〝結木真希奈さんの死〟にそこまで執着しているんですか?」
あまり聞かれたくないことだった。その質問はどうやったって自分の本心を言わなきゃいけなくなる。……だがいくら躊躇しようとも言うべきなのだろう。こいつに調べさせたいのなら。結木真希奈を知りたいのなら。
「……俺が、今こうやって女の首を絞めてまわってんのも、俺がこうしてろくでもない性格をしてんのも、元を辿れば結木真希奈が首を吊って死んだことに行き着く。それは事実だ」
傾けられたコップから水が零れるように自然と言葉が出てくる。
「だがな、結局は結木真希奈の死を人殺しの言い訳にしているだけだと思っている。真実に辿り着いたとき、母さんが自殺した理由が尤もな物であればあるほど比例してそれを言い訳に使えなくなるだろう。そういう結果を俺は望んでいる」
背もたれに身を預け、天井を見上げて言葉を発する俺は、今どんな顔をしているのだろうか。
「真面目な理由で安心しました。その真面目さに敬意を払い、もう一つぼくから能代さんにとっておきのサプライズを捧げましょう」
まだあるのかと。最初に言った勿体つけるつもりはないとは何だったのかと、呆れと疲労を半分ずつ含んだ溜め息を漏らす俺に「いやいや! 能代さんが急に遺書を取りに行くからタイミングがずれたんですよ!」と反論する姿は、俺にもう一度同じ溜め息を吐かすのに充分だった。
「今から話すのは真希奈さん自身のことではなく、真希奈さんを調べている内に得た副産物みたいなものなんですが、少なくとも関連性はあるはずです。ですが情報提供するにはちょっと足りないところが多くて――」
長くくどい前置きがうざったくて、テーブルの下から途草の足を蹴り、急かす。
「いったいなぁ! もう、わかったよ! 本題いきますよ。あのですね、真希奈さんは九年前の梅雨に入ったあたりからある組織団体の施設によく足を運んでいたらしいんです。その組織に所属していたと考えて良いと思います。能代さんはご存じだったでしょうか?」
身に覚えがなかったから首を横に振って応えた。含みのある言い方をするあたり大衆で認知されているような組織ではないのだろう。
「やはりご存じではなかったのですね。真希奈さんが所属していたと思しき団体は『
久安明
』という組織で、千葉に本拠を構えているらしいです。ですがその、この団体、頻繁に場所を移動させているらしくて正確な所在が不明であったり、設立したのが今から二十五年前くらいの新しい部類のもので歴史が浅かったり、よくある新興宗教のように講演会を開くわけでもなく、何か大きな騒ぎを起こして話題になるわけでもなく……。よって情報がとても少ないです。真希奈さんがこの施設に出入りしていたことは分かりましたが団体のこと自体は足を使って調べた限りでも噂程度のことしか分からず、発足した年も情報が途切れた年からぼくが逆算した仮説ですし、何をしている団体なのかもはっきりしませんでした。この組織に関してはこれに詳しい人を探さないと確かな情報源を確保できそうにありません。お力になれずすみません、面目ないです」
いつもだったら、お前情報屋だろ仕事しろと焼きを入れるところだが、肩を竦めてバツが悪そうな顔をする姿からは悔しさが伝わってきて。俺は「そうか」と言い残して口を噤んだ。
「仮説としては梅雨頃から頻繁に出入りするようになるこの組織に何らかの影響を受け突発的に……、とかそれっぽいかなって思いますけど、それはあまりに釈然とせず、なんだかなぁって感じですよね」
煮え切らない表情というのだろうか、途草は自説に納得できない様子でなんとも言えない顔をしていた。
数分互いに黙りこくっていたが途草の方から話を切り出す。
「あー、次の仕事の話なんですが、能代さんはこれからどうしたいですか? 最初に頼まれていた〝結木真希奈について調べろ〟は〝山津の捕獲〟と引き換えに今日の時点で完遂したと判断しました。というか、真希奈さんについてはもう調べられるところは調べちゃったので、次に調べたいことを何か提示していただきたいです」
契約の更新みたいなものかと納得し、言われた通り次のことを考える。そしてすぐにこれが無難だろうというものに見当が付く。同時に、こいつはきっと俺が次に何の情報を求めるか分かった上で聞いているんだと気がついた。
「結木真希奈については引き続き調べるとして、それと久安明についてだな。結木真希奈が件の得体の知れない組織と関わりがあるのならその究明だ」
こいつが予想していたとおりの返答をするのは非常に癪だが、俺がそれを求めていることは事実だった。
「まあそうですよね。だと思ってそれに合った仕事と契約書を持ってきました」
やはりこいつの挙動は癪に障る。
鞄の中からプラスチック製のケースを取りだし、用紙を一枚俺の前に差し出す。
「ぼくは久安明の所在地、即ち千葉へ向かうことを提案します。同日に千葉で仕事をしてちゃちゃっと帰りましょう!」
〝千葉での久安明調査〟と引き換えに出された条件は〝当日の送迎と、ある男に買われたスナッフビデオの回収〟。この手書きの契約書へのサインもこれで三度目だ。
「お前の管轄は神奈川だろ。わざわざ千葉までビデオ回収なんざご苦労なことだな」
「全くですよ。千葉の仕事が欲しいって言ったら「丁度良いから行ってこい」って言われてしまって。ぼくの本職は情報屋なのに」
ぼやく途草を見て、小さく「左遷」と呟くと、「そんなことないです~! ぼくは唯一無二の存在なので左遷されません!」と強く否定される。自分にそこまで自信が持てるなんて、大した者というより単純に馬鹿なのだろう。
「車はお前が用意しろよ。俺のはもう使わないからな」
「安心してください、最初からそのつもりですよ。今回は解体を行うことも視野に入れていますから、能代さんにもロープを使っていただくかもしれません。なにが言いたいか分かりますよね? 検問なんてあった日には参っちゃいますから、細工が利くやつ用意しますよ」
男を殺すのはポリシーに反するという俺の意見は「そこは気合いで頑張ってください」と雑な根性論でねじ伏せられてしまった。
途草は先程契約書を取り出したケースからもう一枚紙を引き抜く。それには行き帰りの経路と警官を見かけた際の注意事項が書き連ねてあった。
決行は十一月六日に決定された。
おおよその予定のみを提案する途草にもっと計画を煮詰めなくていいのか問うと「綿密に組みすぎると不測の事態に上手く対応出来ないって学びましたので……」と、参ったといった様子で両手を広げて首を横に振っていた。
この程度決めておけば何とかなる、と適当なことを言いながら帰り支度をする途草は何かを思い出したようにまたこちらに向き直る。
「そうそう、能代さんの次の目的は久安明の調査で決まりですが、調査が済んだ後のこともちゃんと考えておくべきですよ」
調査が終わったあと――
「調べるだけで満足ならばそれでいいです。でもきっと、その先には知りたかった結果も知りたくなかった結果もあるはずです。人生ってそういうもの……まぁ年上に語る話じゃないですね。言いたかったのはそれだけです」
どちらにせよぼくには関係のない話ですけどねと呟いて、 荷物を詰めた鞄を肩に掛け、笑みを浮かべながら玄関へと去って行く。
ガチャンという音が玄関から聞こえた後、しんと静まり返った部屋に音を取り戻すべくテレビを点けるとたまたま映し出された中身のないくだらない主婦向けのバラエティ番組を点けっぱなしにして玄関の鍵を閉めに向かう。
大したインテリアもない、傘と靴しか置かれていない殺風景な玄関。昔、玄関には鏡を置けって誰かが言っていたなと思いだした。これは誰から聞いたんだったか。そんな考えはリビングへ引き返す頃にはすっかり忘れていた。
机に置かれたままの封筒を開け、歩きながら文面に目を通す。
遺書っていうのはどういう気持ちを抱えながら書くのか。明確に俺に宛てて書かれたこれに何の意味があるっていうんだろう。そもそもこれに意味なんてあるのか? もしかしたら伝えたい事などなく、自己満足でなんとなく書き上げられた代物だって可能性もゼロではない。
封筒を元あった場所に戻そうと五段目の引き出しに手を掛ける。ほんの少し開けた隙間から差し込むように入れようと思っていたのに想定していたよりも大きく開いてしまって、そのせいで遺書よりも見たくなかったものがしっかりと見えてしまった。
真新しいブレザーに身を包んだ髪の長い少年と笑顔の女性が並んでいる写真。背景に写る入学式と書かれた看板とほとんど散ってしまっている桜、そして少年の着ている制服から中学の入学式の写真だとわかる。
その写真の上に封筒を重ねて引き出しを押し込む。そしてまた、鍵を掛けた。
ここ数日どうにも神経質になっている自分を鎮めたかった。そうだ、次の木曜はまた雨が降るらしい。いつかの廃工場に向かったときと同じように鞄に最低限の物だけを詰め、最後にロープを仕舞いこんだ。
きっと、これから先、母さんの件を言い訳にしない未来が来ようとも、俺はこういう生き方を選ぶんだろう。ずっと、ずっと