雨の壁とぼやけた世界
無数の雨滴が地面に打ち付けられる音、稲光の後に轟く雷鳴。周囲は街灯の明かりが眩しく感じられるほどの闇に包まれていた。
俺は自家用車の運転席からその闇を眺める。頭の中は今日何が起きるのかで満ちていた。
フロントミラー越しに後方へ目をやると後部座席に座っている途草はごそごそと小さなボストンバッグの中を漁り、手にした何かをシートの上に並べていた。
左腕にはめられた腕時計が二十時を指し示す。
時間だ、とミラーに向けて声を掛けると、途草はシートの上に並べていた物を一つ俺に差し出した。
手渡されたのはホルスターと拳銃 ――形状的に拳銃に見えるが玩具のように安っぽい見た目――だった。銃が乗せられた左手にかかる重みから察するに本物なのだろう。
「今回は生きたままの捕獲ですから、実弾は避けるべきだと思いテーザー銃を用意しました。出来る限りリーチを稼ぐために中距離特化の物をお渡ししましたが、もし近接格闘を行わざるを得ない状況になった場合は迷わず拳で応戦してください」
「それなら初めから殴った方が早いと思うが、まぁいい。それで、お前は何もしないなんてことはないだろうな?」
俺の質問に応じて途草はシートの上に置かれていたもう一つを手に取り自らの顔の横で自慢げに振った。
「じゃーん、スタングレネード! 相手もリーチの長い武器を所持していたり、不測の事態が起こった場合はこいつで意図的に隙を作ります。一応伝えておきますが、これは自作品でもジョークグッズでもありません。ぼくがこれを使う場面が来たら、不発を恐れず、対象へ背を向け、目を閉じ耳を塞いで口を開けてください」
身振り手振りを交えて動作を説明し、後遺症が残っても保証はないと俺に警告する。こちらからしても後遺症なんてまっぴらだ。
「俺が合図したとき以外は絶対に使うな。そうだな、合図は――」
途草はスタングレネードを服の中に忍ばせる。それに倣って俺もホルスターを肩に掛けテーザー銃を収めると上からジャケットを羽織った。
「それでは、いざ敵陣へ」
いつも飄々としている途草の声も今日ばかりは冷静で真面目そうだった。
俺達に降り注がれる雨粒が傘のカーブを滑り落ちぼたぼたと水溜まりに落ちる。波紋が揺れるそれを踏みしめ先を急いだ。
◆
俺達の目の前には大きな自動ドア。その隣にはタッチ式のカードリーダーが途草の目線のやや下に設置されている。
「昨晩山津からぼくの元へICカードが一枚郵送されてきたので、それで入れということなのでしょう」
「それ以外に何か送られてきたか?」
「その他だと『カードを使ってエレベーターで最上階へ』と印字されているだけの名刺サイズの紙が一枚のみです。とりあえず開けま~す」
間延びした声と共にカードが翳され、なんの障害もなく左右に扉が開く。
足を踏み入れたビルの一階にはエレベーターと上へ続く階段のみが設置されていた。エレベーター横のフロア案内に目を通すと一つ上の階にエントランスがあると表記されている。
「二階のエントランスで人目に付かないようにエレベーターを使わせてるんでしょうかね」
エレベーター横にも入り口同様にカードリーダーが取り付けられていた。それを見て「面倒な仕様だ」と呟くと、途草も苦笑いを浮かべながら「まったくですね」と賛同を口にした。
ICカードが認識されるとものの数秒でエレベーターが一階まで降りてくる。音もなく開いた扉から二人続いて狭い箱の中へ乗り入れる。
最上階までの短い待ち時間にエレベーター内部を見渡して違和感を抱く。
階数ボタンのパネルに小さなカメラが仕込まれていたのだ。目立たぬようスピーカーの穴に紛れて。他にも後方の天井や床の隅、確認できただけでも五つ。人間を輸送するだけの役目を担うにしてはここはあまりに監視カメラが多すぎる。
だが不信感を抱くには些か遅かった。
一階に俺達を迎えに来たとき同様、音もなく扉が開く。小綺麗に整えられ清潔感があるにも関わらず妙な威圧感を発するそこは既に指定された最上階であった。
左右に伸びる広々とした廊下に不釣り合いなたった一つだけのドア。その前に立ち尽くしている間にエレベーターは連れ戻されるように一階へ下がっていった。まるでここに入るしか道はないと言われている気分だ。
「ぼくが扉を開けて先に入ります。能代さんは後に続いてください」
重苦しい濁った緑色をした扉を見つめたまま要件だけを伝える途草は緊張した面持ちでドアノブを捻った。
ドアを開けて踏み入れた先には束ねられた黒いカーテンとプロジェクタースクリーン、デスクトップパソコンが設置された黒い机。僅かな範囲しか窺えないが、黄色く落ち着いた照明に満たされたそこはまるでシアタールームのようだった。
後ろ手に扉を閉めると、ガチャンというやけに重たい音が鳴った。その音に続いてドンッと身体に響く破裂音と風が俺と途草の間を通り抜けていった。
それが何を意味しているのかくらい俺も途草もすぐに理解できた。
だが渡されたテーザー銃を構える暇も、ましてや体制を立て直す隙さえ与えず、二発目の銃声が響き渡る。
俺からわざと外して打ち込まれた弾丸は壁にめり込み薄らと煙を漂わせている。
硝煙の香りが鼻腔を撫で、煙と緊張による乾燥で俺は小さく噎せた。
音の先、弾丸が向かってきた方に目をやると、穴が空いたスクリーンの奥から油色の髪をした男が姿を現す。そいつは気怠げに息を吐いてからこちらへ向けて口を開いた。
「どうも、山津と申します。我がアトリエまでご足労痛み入ります。二人組のお客様は珍しくてね、まずは俺の作品に興味を持ってくれたことに感謝します、ありがとう。そして――」
山津と名乗った男は悠々と礼儀を重んじるかのように語りながら俺達に向けて銀色に輝く銃口を向ける。
「ご丁寧に指定通りエレベーターを経由してくれてどうも、手間が省けて助かるぜ」
先程のゆったりした口調が一変して乱暴な物言いになる。俺達を客として扱うのはもう終わりのようだ。
両手でグリップを握り、引き金に指をかけて俺を見据える。恐らくこいつは俺が銃を持っていることに気がついている。俺がテーザー銃を構えるより、いや、ホルスターから抜くより速く山津が発砲するだろう。
「あのエレベーターな、入り口には金属探知機、内部には別のセンサーが付いてんだ。お前らどっちも何かしら持ってんだろ? 精々使う機会があればいいな」
そのとき後ろ手でドアノブに手を伸ばす途草の姿が目の端に見切れる。退路を確保しようとノブに指先が触れた瞬間、バチッという強く弾かれるような音がなり、途草は咄嗟に右手を押さえ片膝を突いてその場にしゃがみ込んだ。額には脂汗がにじみ、ノブに触れた指が僅かに痙攣を起こしている。
「もうお帰りかお客様? 外からは誰も来ない、内側は俺がロックを解除しない限りノブに電流が流れ続ける。さて、どうする?」
無駄な身動きをせず無言で静止する俺達を細めた目で捕らえたまま、質問に答えろと奴は言った。
「お前らはどこの人間だ? 武器持参で来たあたり東京か神奈川もしくは千葉だろうが」
「はっ、全く見当が付いていないようで。ぼくが神奈川、隣の彼は東京。おそらくお前が把握していない組織の者だ」
痺れた指を抑えながら途草が素っ気なく応対する。そんな態度は意に介さず、山津はつまらなそうに「ふーん」と呟く。
隙を見て懐のテーザー銃へ手を伸ばそうとしたとき耳の真横を空を切る音と共に一発の銃弾が通り抜ける。やはり撃ったか。
「オイ動くな。今ので威嚇射撃のサービスは終わりだ。お前達は俺に生かされていることを理解しろ」
クソが――。
実弾を放たれても怯みより殺意と怒りが先行する。相手に恐怖心を抱かない以上、転機さえ得られれば確実に形勢逆転は狙えるだろう。
「お前。なぁ、お前は何のために何を思って此処に来た? 言えるか?」
馬鹿にした言い草でなおも俺に銃口を向け続ける。言えるか? なんて聞いておきながら答えなければ撃つ気でいることが明白だ。
「俺の事がそんなに気になるかよ。そうだな、お前が好き勝手脚色して撮ってくれた都内連続絞殺事件の正犯だと、そして元ネタとしてお前の作品を酷評しに来たとでも言ったらどうする?」
予想を外れた素性に山津は興味をはらんだ瞳で俺を凝視するとけたたましく耳障りな笑い声をあげた。
「ははは! そりゃいいな、最高だ。お前があの絞殺魔だって言うんなら、称賛と感謝を贈ろう。お前の犯行はなかなか需要が高いぞ。おかげでロープ絞殺の売値は三倍近く跳ね上がった。あんな味気ない画で儲けが出るだなんて微塵も思っていなかったさ!」
こいつが俺に向けているものは称賛でも感謝でもなく他ならぬ嘲笑であり、たった数秒声帯を振動させ口を開閉しただけで俺の人生もこだわりも尊厳も愚弄した。
お前ごときが俺の生き方を笑うな。
なおも俺を笑いものにする奴の後ろに見える濁った雲と降りしきる雨は嫌な思い出を穿り返すには充分過ぎた。
「どうやらお前は俺の嗜好や生き様を味気ない金儲けの道具だと認識しているらしい。いいだろう、一生そのまま生きていけ。地獄を味わった後にな」
「俺にとって地獄は味わうもんじゃねぇ、この手で作るもんだ」
目を細め、俺の頭に狙いを定める。照星を睨みつけ引き金に掛けられた指に迷いはなかった。
「絞殺魔様には絞首刑がお似合いだろうがテメェの今世は銃殺で締め括らせてもらうぜ。死ぬ前に言い残すことはないか? 命乞いやら家族への遺言とかお決まりだろ? 来世への抱負でもいいぜ」
俺は山津の発言を鼻で笑い一蹴した。そして中指を立てた左手を前に突き出し、銃口を見据える。
「来世なぞない。馬鹿馬鹿しい、執行人気取りか? 笑わせるな。どうしてもコメントが欲しいというのなら、作家を自称する以上視野はもっと広く持つべきだとでも言っておこうか。その節穴でよくも俺の頭を狙ってくれたな――――『もういいぞ』」
俺の足元から山津の足元へ、カラッと小さな音を立てて鉄の塊が転がっていく。その行く末を見届ける前に背を向け身を屈める。
耳を塞いでも肌で感じる爆音、強く瞼を閉じても分かる閃光。まるで低速再生の動画に入り込んでしまったような、途方も無い間その中で丸まっていた気がする。
次に目を開けたときに見えたのは蹲り片手で顔を覆う山津の姿だった。
床に放り出された拳銃を握ろうと手探りで周囲に腕を伸ばすそいつに幾度か蹴りを入れ、無様だなと吐き捨てる。少ししてから俺が鬱憤を晴らし終わるのを待っていたかのように「それじゃパパッと身柄を拘束しましょうか!」と途草が顔を覗かす。ひらひらと振られる手はもうなんともないようだ。
「まさか能代さんがぼくから山津の気を逸らすために一役買ってくださるなんて思ってもいませんでした。ナイスタイミングな合図どうもありがとうございます!」
「お前がいつまでも痛がるフリを止めなかったせいで損な役が回ってきただけだ。俺だって、お前が動けて自分の命さえ掛かっていなければ、わざわざ絞殺魔だと名乗ったり、挑発して刺激するような態度も取らなかった」
「もしかして結構早い段階で動けるようになってたってバレてました? まあそれにしても能代さんも山津のことをよく観察してくれていたようで助かりました。よく勘付きましたね」
「……あの男、会話の最中や何かに集中するとき、そうだな特に銃を構えるときは分かりやすく睨みつけるように目を細めていた。奴はおそらくそれなりの近眼だろう」
「ご明察の通りです! ただでさえ不明瞭な視界をどこか一点に集められさえすれば、それに伴い視野もある程度狭まる。そうすればしゃがみ込んだぼくは視界から外れ、スタングレネードの成功率も上がる。博打に足を突っ込んでいるような作戦でしたが、スタングレネードの準備時に生じるカチャカチャ音を紛らわす為に山津に無駄打ちをさせて発砲音で奴の耳をイカレさせてくれたり、中指を立ててぼくからより視線を遠ざけてくれたり。あなたの最善の行動のおかげでぼく達は生きています」
山津を絞めあげて入り口のロックを解除させる。途草は「作戦大成功ですね」とピースサインを見せつけてきた。
「どこが大成功だよ。元はと言えばエレベーターの金属探知をお前が事前に把握しておけばよかった話だろう」
「面目ないです。成功報酬の上乗せで免じて頂けたら幸いです」
あまり反省した様子が見受けられない応対をするそいつの耳を引き千切るかの如く思い切り引っ張る。
「痛い痛い! ほんとごめんなさい! 誠心誠意の謝罪と感謝をあなたに!」
果たしてこいつはこれで謝っているつもりなんだろうか。
俺への謝罪――らしきもの――も程々に途草は誰かへ電話をかけ始めた。馴れた軽い話し口調から親しい相手だろうと推測する。通話の内容に聞き耳をたてると山津の受け渡しとその後の俺達の動向に関する事だった。
立って壁にもたれ掛かる俺の足元で、縛られたまま床に寝転がされ放置されている山津は口汚く喚き散らしている。
通話を終えた途草によると山津の引き渡しとこの部屋の処理は途草の関係者が直接こちらに赴き行う手筈になったようだ。室内にあるもの、特にスナッフビデオがダビングされたディスクとパソコンには触れるなと指示が出た。
この空間は退屈だ。暇つぶしに自分の犯行が元になった作品を一本くらい観ておきたかったが先手を打たれてディスクに触れることさえ出来なくなってしまった。
三十分ほどその場に留まり、あとどれくらい待てば良いのかと考え始めた頃、部屋のドアが開き何人かの小間使いを引き連れた派手な風貌の男が部屋に踏み入る。服装の系統や雰囲気は違うがどことなく途草に似ている。先程の通話相手はおそらくあいつだろう。
派手な男は俺に小さく会釈をすると途草に歩み寄り頭を撫でる。
「了くん遅いよー」
「ごめんね。お疲れ、後は任せてもう帰っていいよ」
話を盗み聞きして、やっと帰れると壁から背を離した。
「結木さん、弟がお世話になりました。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします」
声の主である派手な男を一瞥した。深い礼は何故この業界にいるんだと思わせるほど非常に育ちが良さそうに見えた。
俺は何も言わずに部屋を後にする。扉を閉める直前にもう一度振り返るとそいつは扉が完全に閉まるまで、俺に向けてずっと頭を下げ続けていた。
「あれは兄か」
「そうです。ぼくの仕事の管理や責任は全て兄が請け負ってくれてます」
兄弟揃ってこんな業界にのさばっているのか。世も末だなと思ったがそれを口には出さなかった。
「能代さんはご兄弟とかいらっしゃらないんですよね。そういう身内に憧れたりしませんか?」
「興味ないな。今までそれを必要だと思ったことがない。聞くが、お前はそれらを得ていることを利点だと思っているのか?」
「そうですねぇ。利点とか利益とかって言い方だとそぐわないですけど、兄ちゃんは優しいですし、妹は可愛かったですし、ぼくにとっては兄弟っていいものです」
下っていくエレベーターの中で途草はそのように話したが、身内がいいものという考え方が俺にはいまいち理解できなかった。
◆
ビルから少し離れた駐車場に止められた自家用車の運転席に腰掛け、使い時を逃したテーザー銃を手持ち無沙汰に弄る。そんな俺を見た後部座席の途草は軽い口調で「それ差し上げますよ」と言った。
「いつ使えってんだよ」
「まあまあ、人生何が起こるか分かりませんし!」
銃刀法違反には気をつけてくださいねなんて笑えない冗談も程々に、途草はそれではと咳払いをする。
「改めて、お仕事お疲れ様です。能代さんにとってはここからが本題ですね」
そう、俺にとって重要なのはここからだ。模倣犯なんてものは所詮ついででしかない。
「勿体ぶるわけではないのですが、この話、たぶんかなり長くなると思います。もう夜も遅いですし日を改めることを提案します」
その話を俺はすぐにでも聞きたかった。だが早る気持ちを抑え留め、途草の提案に同意した。
二十時の時点で大雨だった台風は随分と落ち着き、ぽたぽたとフロントガラスに落ちる雨粒も小さなものになっていた。あの話は雨雲が完全に過ぎ去ってから聞いた方がいい。そうじゃないと、きっとまた嫌な気分になる。
明日の早朝、一昨日のように俺の自宅に来るよう伝えると途草は短く返事をして車から降りた。
後部座席のドアを閉める直前、傘を肩に引っかけた途草に念を押される。
「一ヶ月でぼくが調べられる限りのことを調べました。けれど得た情報のどこまでが能代さんの承知しているもので、どこからが未知のものかは判断を付けていません。だってその判断はぼくがつけていいものじゃないから。あなたにとって衝撃的なものもあるかもしれません。それだけはどうか忘れないように」
言うべきことは言ったという様子で小さく息を吐き、途草は最低限の力でドアを閉め、ビニール傘を差して去って行く。
あいつが何を知っているのか今の俺には理解が及ばないが、明日になれば全て知れる。
帰路につく為キーを回してエンジンをかけた。クラッチが繋がりゆっくりと走り出す車のフロントガラス越しに見える黒い景色の中に灰色の小さな雨粒がまるで壁をつくるかのように降りしきっている。
思えば雨が降るたびにあの日のことを思い出している。
「明日は、晴れるといいな」