報された嵐
単調で無機質なアラームが室内に鳴り響く。今日もいつも通り七時の起床、いつも通りの最悪な夢見、いつも通りな退屈な朝。
機械音の在り処を探ると自分のスマートフォンが手に当たる。いつまでも一定のリズムで同じ音を鳴らし続けるそいつの画面には音が鳴り出してから二分経過したことを表す七時二分と今日の日付を示す十月十九日の文字。
途草と接触してから丁度一ヶ月が過ぎていた。あの日から明確に変わったものは日付だけで、途草からはこれといった連絡も無く、九月十九日の事件もメディアでは取り扱われなくなっていた。
あれだけの事が起きて何もないという事実に気味の悪さを感じる。嵐の前の静けさに嫌な予感を覚えるのは一般的な感性であろう。
寝起きの頭が少しずつ動き始めた頃、また室内に無機質な音が鳴る。この特徴的な音は来客を知らせるインターホンだ。一度鳴ったあと少し間をあけて二度目が鳴る。
スマホの画面を点け、時刻を確認すると俺が目を覚ましてから十五分も経っていないことが見て取れる。
こんな早朝に荷物は届かない。嫌な予感で留まっていたものがその範疇を越えたことに気がつき悪寒が走る。
三度目が鳴らされた。その音に従い体を起こす。面倒なことだと分かっていても、俺には行動しなければいけない理由がある。
四度目が鳴る。何かが纏わりついていると感じる程に重たい足を動かして玄関へと向かい、物音を立てないよう意識しながらドアスコープから外を窺う。
その先には曇った灰色の空を背景に、こちらの生気を奪い取るほど楽しげなにやけ顔を携えた緑色のそいつがいた。
最後の砦だと言わんばかりに俺とそいつを隔てる一枚のドアを、開けるか否か選択する権利なんて、家主の俺は持ち合わせていないのだろう。
肺に溜まっていた空気を全て押し出すように盛大な溜め息を吐いて腹を括る。ドアノブを握り捻るだけの易い動作がやけに重労働に思えた。
俺の手により開け放たれたドアの隙間から外気と共に気に障る溌剌とした声がなだれ込む中、そういえばこいつこんな声だったなとどうでも良いことに意識を逸らして平静を保つ。
「のっしろさーん! お久しぶりです、おはようございます」
「玄関先で騒ぐんじゃねえよ」
舌打ちさえも面倒だ。もはやこいつの顔を見るだけで気力が無くなると言っても過言ではない。
「うるさかったですね、ごめんなさい。――それじゃあ玄関先だと邪魔になりますから上がらせてもらいますね! お土産にお高いゼリーも買ってきたんで!」
それはお前が言う台詞じゃないだろうという俺の言葉には耳を貸さず、ご丁寧に靴を揃えて玄関のフローリングに足を伸ばしたそいつはリビングに向かうと持ってきたゼリーをテーブルの上に広げ「見てください! 味がいっぱいのやつ買ってきました!」と誇らしげな顔をしてみせる。
「ゼリーの種類なんてものはどうでもいい。早急に、そして手短に、アポ無しで他人様の家に上がり込んだ要件を言え」
反応が薄くてつまらないと口を尖らせながら抗議する途草の足に軽く蹴りを入れて急かすと蹴られた箇所をこれ見よがしに擦りながら仕方がないなぁと本題を話し始めた。
「結木真希奈さんの件、一通りまとめてきましたよ」
その名前を聞いて表情が強張るのが自分でもわかった。途草にもそれが伝わったのだろう、ぼくを邪険に扱うとあとで困りますよと眉をつり上げていた。
「それが要件ならば詳細を話せ」
「能代さん、まさかたった一ヶ月でぼくとの取り引きの仕方を忘れちゃったんですか?」
……等価交換か。要するに〝結木真希奈の情報と同等の働きをしろ〟と言いたいのだろう。こいつの言い分が理解出来てしまう自分が心底嫌だ。
「なにしろって?」
「話が早くて助かります! 流石!」
ニコニコと意気揚々と、笑顔を見せながら俺を茶化すそいつにもう一度蹴りを入れる。途草は「暴力反対!」と暫く文句を吐いた後わざとらしく咳払いをして続きを話し始めた。
「今回能代さんにお願いしたいのは〝関東全域で行われているある取り引きとそれに伴う殺人の首謀者兼実行犯の捕獲〟です」
「捕獲か。殺す必要はないんだな」
「はい。むしろ生きていないとダメです」
途草の話をまとめると、関東全域で怪しい取り引きがなされるようになったのは一年半ほど前から。実行犯は東京をメインに動いていたはずだが何故か最近になって途草がテリトリーとしている神奈川へ多く出張ってくるようになった。そいつの事業が途草の上司の気に障り、情報収集ついでにネズミを生け捕りにしてこいと途草へ指令が出た、ということらしい。
「この上司って言うのが一応ぼくの師匠にあたる人で、この人の機嫌を損ねるとぼくに仕事が来なくなっちゃうんです。でも情報を集めるだけならまだしも一人で捕まえるのはいくらなんでも無茶だと思って」
「それで俺のとこに来たってか。この件を突っぱねて放棄すればお前に仕事が行かなくなり俺に面倒事が巡ってこなくなるな」
そう冷たく吐き捨てると「もう! 結木真希奈さんの情報を握っているのはぼくですよ!」と途草は喚く。
「なにも全く頼る相手がいなくて能代さんのところに来たわけじゃないんです。実はこの件は能代さんにとっても無関係じゃないんですよ。もっと詳しく聞けば能代さんだって重たい腰を上げるはずです」
俺にも無関係ではない?
少なくとも今までの話に出てきた怪しい取り引きに心当たりはなかった。俺が放っておけない問題なんてそう多くはないはず。一体今回はなんだって言うんだ。
「一ヶ月前、ぼくと初めて会った日に言ってましたよね、〝都内連続絞殺事件には模倣犯がいる〟って」
俺を乗り気にさせるという触れ込みで模倣犯の話を出してくるということはそういう事なのだろう。ある程度合点がいき、今まで立ちっぱなしで行っていた会話を一旦切り上げソファに浅く腰掛ける。話を聞く気になったのだ。自分に関係があると分かった途端こうも興味が湧くあたり、俺という人間は現金なやつだ。
顎で向かいに座るよう示すと途草も遠慮なく腰を据えた。
向かい合って座席に掛けると一ヶ月前のカラオケでの事を思い出す。あのときと違う点をあげるとすれば、お互い正面に席に着いたことと俺が会話に明確な興味を示しているところだろうか。
さっさと話せよと目で指図すれば、途草はにやけ顔を一変させ真面目な表情を浮かべた。
「関東全域で行われている取り引きの内容はスナッフビデオの売買。その制作者兼売り手が山津という男です。彼が今までに制作販売したビデオの中に絞殺描写があるものがいくつか存在します」
「それが俺の真似だって?」
「はい、いくつか根拠もあります。小さな要素で言えば、一つ目はロープを用いていること、二つ目は被害者が女性であること、三つ目はいつも雨の日に撮影していること。現段階で発見できている絞殺スナッフビデオの六本全てでそれが確認できていますし、そして何よりタイトルが能代さんの事件を彷彿とさせるものになっています。あなたの事件が大きく騒がれ始めたころからやけにその系統の物を売るようになっているようですし間違いないと思います」
凶器や被害者はニッチな層にウケるだろうが天気まで真似て六本も制作している話を聞くと疑うことなく露骨に意識されていることを感じる。
「能代さんはご自身の犯行にこだわりを持っていらっしゃる様子ですし、以前話したときも気に食わないって言ってましたよね。物真似風情を野放しにしておけるような性格なんでしょうか?」
「お膳立てが過ぎると思うが?」
露骨な煽りに釘を刺す。途草はそれを物ともせず、滅相もないと笑って手を横に振る。
明確な断りを入れなかった俺の様子を肯定と捉えた途草は自らの鞄からハードケースを取り出し、今回の契約書だと用紙を差し出す。
〝山津の捕獲〟と〝結木真希奈の情報と微量の金銭報酬〟の取り引きをややこしく記したそれに乱雑にペンを走らせながら実行日を確認する。
「明後日の二十一日を逃すと来月になってしまいます。多少無理をしてでも明後日を実行日に設定したいです」
「構わない」
「ビデオの購入者を装って接近する手筈になっています。二人で赴くことは事前に伝えてあり、山津から指定された取引場所は彼がアトリエとして使用している比較的最近建ったばかりのビル、その最上階です」
指定場所はビルか。他階層の人間の目に付きやすそうだがわざわざそこを指定する何かがあるのだろう。
「流石にデカい凶器は持ち込めないので、もしもの時の強行手段用にぼくも幾つか道具を持参します。能代さんにもなにかお渡ししますからそれを用いて対処してください」
怪しい取り引き場所の指定といい、もしもの時が来そうな予感をまざまざと抱く。かと言って俺が持って行ける物なぞたかが知れているのだからこの件に関してはこいつに一任しよう。
俺の考えなど余所に、途草は「そういえばぼく、まだ能代さんにお話ししておきたいことがあるんです」とさっさと話題を切り替える。
途草が笑顔で鞄から取り出したのは青い表紙の小さなメモ帳。
俺は知っている。こいつが笑っているときは俺にとって笑えない話が飛んでくることを。
「じゃっじゃーん! 題して『能代さんの個人情報答え合わせ大会』を始めましょう!」
「これ以上用がないなら帰れ」
俺のあしらいなど気にも留めず、意気揚々と喋り続けるこいつをどう追い出そうか思考を巡らしていると途草は俺の冷え切った顔を見ながらやれやれと両の手のひらを広げて講釈を垂らし始めた。
「でもね能代さん、もし山津の件が終わって、順当に取り引きが行われ結木真希奈さんの情報の譲渡が行われた際、情報の真偽を確認するのはぼく達二人の力じゃ難しいでしょう。そこで! 絶対に能代さんが正しい答えを知っている〝能代さん本人の情報〟をぼくが一から調べ上げて来てそれが正確であったならば、結木真希奈さんの情報にも幾分か信憑性が生まれるとは思いませんか?」
情報の正確さの確認。それは確かに必要な事だと感じた。
今しがた引き受けた仕事の報酬として件の情報を提供されたとして、俺が途草の話を素直に受容する可能性はあまり高くはないだろう。
「表情から察するにご理解いただけたようなので、ぼくは勝手に話し始めますね!」
手にしたメモ帳を最初から三ページほど捲ると喉を整えるように二度咳払いをしてみせた。
「結木能代さん二十三歳、九月七日生まれのB型。普段のクールな立ち振る舞いとは裏腹に短気で手が出やすい性格、そのせいか高校生のとき同級生を殴って五日間軽い謹慎処分を受けていますね。大学では商学を学んでいた……、ぼくはそちらの分野に疎いのでよく分からないんですけれど、なんか能代さんって金融ならまだしもマーケティングとは無縁っぽいので、なんだかイメージし難いですね」
「正確ではあるが余計なお世話もいいところだな」
「正しいならいいじゃないですか。卒論のテーマを航空会社のマーケティングについてにしたり、小さい頃の夢がパイロットだったり、もしかして飛行機が好きなんですか?」
「わかった、もういい。それ以上この話題を続けてみろ、ベランダから吊るしてやる」
肘置きに凭れながら、曇り空を切り取る額縁のようなベランダの引き戸を指さし険しい顔で睨みを利かす俺を見て「どうやら答え合わせは全問正解みたいですね」と締め括る姿に微かな苛立ちを感じた。
「学生時代の話は伝手さえあればどうにでもなるだろうが、小さい頃の夢なんてもの出処はどこだ」
「小学生時代の二分の一成人式とかいうやつの文集から引っ張ってきました。ぼくの手腕を認めていただけたようで光栄です」
自分の腕に対する自信を表したようなそんな表情。その顔を見て沸いた全ての感情を込めて「あっそ」と素っ気なく相槌を打つ。
「不服ではあるが正確性は及第点と言って申し分ない。結木真希奈の情報もそれくらいの量と精度があると確約するか?」
「えぇ、お任せください。何を隠そう、ぼくは超絶有能なのでね、期待以上のものを持っているとお約束できます」
「超絶有能ね、どうだか。威勢が言い返答に免じて、今回の山津捕獲に俺も尽力しよう。道具の調達はお前に一任する。……とりあえず今日の話はそれで終いだ」
手短に切り上げると途草も納得した様子で広げた書類などを鞄に仕舞い込み帰り支度を始めた。
◆
去って行く途草の後ろ姿を見届けてから玄関の鍵を閉める。先程まで途草と対談していたテーブルに置かれたままになっていたゼリーを冷蔵庫に仕舞い、明後日の事に気を巡らせた。
模倣犯の件があったから、情報の信憑性を高める過程がなくても面倒ではあるがきっと最初から手伝っていただろう。だが情報への信用が以前より高まった今、結木真希奈の件に期待を寄せずにはいられなかった。
テレビを点けるとニュース番組の天気予報が映し出された。女子アナが台本通りに明日明後日の天気を読み上げていく。
『関東は明後日の夕方頃から深夜にかけて激しい雷雨が予想されます。暴風、雷警報が出る可能性が高いため、外出する際は足下など細心の注意を払って――』
当日は雨か。
取り引きは室内だからあまり関係はないが、俺は雨という天気があまり好きではないから、それは気分の良い報せではなかった。
テレビの電源を落とす。画面が暗くなると同時に俺の気力も落ちたらしい。体に重い眠気が押し寄せてきた。
時計を見ると短針は十を指していた。
朝っぱらから色々な話を頭に突っ込まれた俺はとても疲れてしまったらしい。自室のベッドに体を埋めると、すっかり覚めてしまった目を無理矢理閉じた。今の俺に出来ることは寝ることだと、寝入ってしまえば、俺の心内を占めているこの不明瞭な思いも消えると言い聞かせて。