「改めておかえり。久しぶりだね、能代」

「……お久しぶりです」

 彼に能代と呼ばれるのも久しぶりという挨拶にもとても違和感があって、俺は顔を顰めた。能代はお前だろうとか、俺からしたら初対面も同然だなどと胸の内で呟く。

 彼は不機嫌な顔のままの俺に目の前に敷かれた座布団を勧めた。俺は大人しくそこに正座をし、九院の顔をまじまじと眺める。

 その容姿はやはり俺と瓜二つで、順当に年を重ねていけば俺もこのような顔に自ずと成長するのだろうと思わされた。俺の前に正座をする彼の髪は床の畳に毛先が届くほどで、結木真希奈が求めた俺の姿はこれだったのだと実感した。

「今日の要件はなんだろうか?」

 九院の声に意識を引き戻される。

 俺は徐に一冊のノートを差し出した。彼は表紙で何が渡されるかのを察したようで、悲しそうな顔で微笑みながらノートに手を伸ばした。

 彼の両手にノートが収まる。受け渡しは無事に果たされた。

「持ってきてくれてありがとう。大切な物なんだ」

「…………。中身、見ました。母さんが書いた最後の日記が記されたページに彼女の遺書が挟んであります。それに目を通してもらいたくて今日ここを訪れました」

 よそよそしい俺の言葉を聞き入れた九院は裏表紙からページを捲り、当該ページを見つけるとそれを開いたまま俺に声を掛ける。

「これを読んだ後で能代とゆっくり話がしたいのだけれど構わないだろうか?」

 その頼みを断る術を俺は持ち合わせてはいなかった。彼に聞くべきこと、問い詰めるべきことが俺にはあった。

「はい。構いません」



 彼はそれなりに時間を掛けて結木真希奈の遺書を読んだ。そしてその何倍もの時間を掛けて日記にも目を通していた。

 日記を全て読み終えた彼はそこに並んでいる文字をいつまでも眺めている。

 ふとノートに語りかけるように声を溢す。

「君はちゃんと、――だよ」

 あまりに小さな声で聞き取れなかったが、その言葉を呟いた彼は悲愴な面持ちでただノートを見下ろし続けた。

 満足いくまでそれを眺めた彼は顔を上げて俺に向き直る。鏡でしか見たことがないような瞳でしっかりと見つめられ、彼の瞳に俺の姿が映り込む。

「能代はこの日記を読んでどう思った?」

 俺の答は決まっていた。何度読んだって、それは初めて日記を読んだあの日から一寸も変わらない。

「とても愚かしいと思った。何がいけなかったのか死ぬ一歩手前でそれだけ書き出せるほど問題点を理解しているにも関わらず一つたりとも改善せぬまま妄執を抱いて死んだ。愚かの一言に尽きる。それ以外に言いようがない」

 彼は悲しげな顔をして日記を持つ手に力を込めた。ページの端が指圧で歪む。

 九院は責め立てるような声で反論した。

「それは真希奈への否定だよ」

「事実を挙げることが否定に当たるのならばそれを成したのは俺ではない。現実だ。現実が結木真希奈という女を否定している」

 両者の間に不穏な空気が一塊漂う。彼は睨みを利かせるとより一層俺に似た。

「今の発言で確信したが、真希奈の目的はやはり果たされなかったんだね。彼女にとっては残念なことかもしれない」

 〝彼女にとっては〟その文言に何故か俺の心内は荒れた。

「自分にとっては不都合じゃないってか? 真希奈の計画通りに事が運ばなくても不都合が生じなかったから九年前俺を迎えに来なかったのか? 迎えに来ようと思えば来れただろう。俺が十四歳の段階でなら計画のリカバリーは可能だったはずだ」

 出てきたのはまるで『何故結木真希奈の計画を遂行しようとしなかった』と責め立てるような文言だった。

 俺は結木真希奈の計画を否定したはずなのに、たまに出る言葉は彼女の計画が成功することを望んでいるようで、そんな声を発した喉はまるで氷の塊を飲み込んだように冷たく感じ、思わず首に手を当てて温度を確認した。冷たいどころか少し熱いくらいの体温と速まった脈が掌を伝う。

 九院能代は俺の問いかけを聞いて苦しそうに眉を顰めた。まただ、やめろ。俺のような顔をするな。

「……そう、君が十四歳であったならば充分に可能だった。無理矢理、誘拐のように連れ出すことだって出来た」

 まるで首を絞められているような顔をしたまま彼は続けた。

「でも君は十五歳になってしまった。俺の母さんの、そして真希奈の命日の一ヶ月半後に訪れた九月に誕生日を迎えてしまったから」

 誕生日を迎えたから、俺を保護できなかった?

「居場所は分かっていた、亜利紗さんの家だって。でも居場所を突き止めたその時には既に九月七日を迎えていて、君は十五歳になっていた。法律上、苗字の変更なんかは子供が十五歳以上になっていると本人の認め証が必要になる。そのために能代本人に一筆書いてもらわなければならなかったが亜利紗さんはそれを頑なに許さなかった。終いには、俺との問答もそこそこに自らとの養子縁組を成立させてしまった。……この養子縁組も能代が十五歳の誕生日を迎えたことで出来るようになったことだ」

「俺が誕生日を迎えたせいだって言いたいのか」

「いや、一番悪いのは君の居場所が判明するまでの間、弁護士などに頼らずおろおろするばかりで早急に手を打たなかった俺の落ち度だ。すまなかった」

 ぽつりぽつりと語る九院の顔は床の畳を見ていた。俺の顔を見ないまま、彼は黙りこくる。その不抜けた様子に無性に腹が立った。

「尤もらしい理由を語っておいて結局は自分が悪かったと謝るのか? 何がしたいんだあんたは」

 いっそ全部お前が悪いと開き直られた方が胸がすいた気さえする。

 帰りたかった。帰って、二度とこいつの顔も声も思い出したくなかった。夢を見るたび、鏡を見るたびにこいつを思い出すのかと反吐が出る。

 だが俺は立ち上がって足を襖に向けようとはしなかった。まだ聞くべき事が残っていたから。

「結木真希奈はどうして俺をあんたにしたがった?」

 先の腹立ちはまだ残っていたが物言いは幾分か落ち着いていた。

 九院は畳から顔を上げると「能代には理解出来ないと思うけど」と前置きをして話し出す。

「真希奈は欲張りだったんだ。彼女は複数の俺の願望を一度に叶えようとしたんだよ。それを成せば今を生きる俺が幸せになると信じて」

 九院能代が複数いるわけがないと思ったが強いて言うなら俺が二人目にあたるのだろうか。だが結局俺は結木能代のままであるし、九院の言葉の真意を捉えあぐねていた。

「なんてこと無い話なんだ。彼女は自分勝手な母親を首吊りで亡くし最も傷ついていた十四歳の俺の願望と、真希奈と初めて出会った頃の十七歳の俺の願望と、家族というものを望んだ十八歳の俺の願望を叶えたかったんだ。過去の不幸な俺の些細だが大きな願いを叶えれば、今を生きる俺が幸せになると考えて」

「その答えが俺を九院能代にすることだったのか」

「いや、正確に言えば『子供を作って、その子に十四歳までの俺と同じ人生を課し、最終的にその子供を大人になった俺が幸せにする』ことが真希奈の選んだ道だった。その総合が九院能代をもう一人つくるという言われ方になっただけだ」

 滅茶苦茶な計画だった。結木真希奈が望んだことが本当にそうであったのならばそれを途中まで成していたことに俺は言葉が出てこなかった。

「この方法なら、何をしてでも救われたかった十四歳の俺の願い、十四歳の自分を救いたかった十七歳の俺の願い、そして家族を欲した十八歳の俺の願いが全て叶う。十四歳当時の俺を今の俺が救うには物理的に同じ境遇のもう一人俺を作る必要があった。それが君だ。真希奈は俺一人をどうにかしたかったんじゃない、複数の俺の願いを叶えたがった。……これも全て、彼女に打ち明けすぎた俺の責任だ。もしかしたら『こうしたかった、ああしたかった』という後悔の解消をしていけばひとは幸せになると真希奈は解釈したのかもしれない。結局、幸せを教えてもらったのは俺だけで、俺から彼女に正しい幸せを教えることは出来なかったんだろう」

 馬鹿げた内容を大真面目に語る九院は少し息を切らしていた。俺はそんな彼を軽蔑し始めていた。

「馬鹿げている。それを本気で止めなかったあんたもどうかしている」

「そうだね。俺も彼女もどうかしている。どうかしていたから出会って、どうかしていたから惹かれ合ったようなものだ」

 諦めたようにそう言って、またも俯く。

 その様子に我慢ならず、俺は立ち上がってそいつの胸ぐらを掴み力任せに上を向かす。彼は首に痛みを感じたようだったがそれ以上に驚きが勝ったらしい。息を飲み目を丸くして俺を見上げている。

「結局俺の今まではあんた達に浪費されただけってことだろう。それに関してはどうも思っていないのか。計画通りにお前が救っていたならまだしも、お前の怠惰のせいで俺は最も不幸だったと言われるような状態のまま取り残されたんだぞ。それがこのザマだ。現実を見れば誰一人幸せに成っていないこの現状を見てもお前は結木真希奈を、ただ身勝手に俺の人生を決めて、独りよがりに死んでいったあのひとを肯定するのか」

「誰一人としてなんかじゃない。真希奈は幸せだった、幸せを抱いたまま死んだ。彼女が幸せだった以上、俺はその幸せを信じ、彼女を肯定する」

 頑として譲らないという意思をそのまま音声にしたような声色で結木真希奈の幸福を唱える。

「真希奈は今、永遠であり無の存在だ。彼女がこの世で死んだことで得た無を誰も侵せない。それでいいんだ。俺は真希奈に上書きされた呪いに掛かり続け、真希奈の幸福を肯定し続ける。それで彼女の幸福が続くのであれば、俺は残りの生の全てを彼女に捧げる」

 彼女にその人生を歩ませてしまった者として一生彼女を幸せにする義務があると言い切り、九院能代は声を抑えぬまま続ける。

「君が真希奈の幸福を否定するのならそれでいい。それは仕方が無いことだと思っているし、当然の権利であるはずだ。そうなると俺が残りの余生をかけてやることは真希奈の幸福の持続だから、本意ではないけれど俺と君は対立することになる」

 九院は「能代はどうする」と俺に握られてよれた襟もそのままに問いかけてくる。気迫に満ちた態度に圧され俺は思わず黙った。

「黙るんじゃない。君のやるべき事は何かと聞いている。その目的がないならば、俺と対立しようとも今日から久安明に住むことを勧める」

 その面構えは先程まで俯いていた弱気な男のそれとは違っていた。

 だが俺は少したりとも返答に悩んだりはしなかった。今後やるべきことなんぞそもそも一つしかないのだから。

「……ここに住むだなんて御免だな。俺がやるべき事は決まっている。俺が九院能代じゃなく結木能代であることの証明以外に無い。そのためには自己の確立が必要不可欠だ。俺は、俺を確立するために今後生きる」

 九院は一見納得したようにも、はたまた後悔しているようにも見える顔でやっと襟のよれを直した。

「そうか、その目的があるのなら大丈夫。それが君の選んだ道ならば、俺は父親としてそれを見送るよ」

「今更父親面しないでくれ」

「これくらい許してくれよ。俺は紛うことなく君の父親だよ。昔からずっとね」

 彼の眼差しは親愛と温かみに満ちていて、それは確かに親そのものだった。

 もしかしたら俺は、それと同じ眼差しを結木真希奈からも受けたことがあったのかもしれない。記憶の彼方に葬られたどこかに、それは確かに存在したのかも。

「……あんたは、俺にどうなってほしかったんだ? 結木真希奈の思う通りにしたかったのか、それとも自我を貫き通してほしかったのか。父親なんだろ、そのくらい考えたことはあるだろう」

 彼は一度ちらりとあの日記を見た後、再び俺の目に視線を戻した。

「こんなことを言ったら真希奈に怒られてしまうと思うけれど、俺は君がどう育ったってよかった。やりたい仕事があるなら将来はその仕事に就けばいいとか、好きな子ができたらその子と結婚すればいいとか、そんな風に昔から今までずっと変わらずに思っているような、無責任で甘い無知な親だ。ずっと君がただ一人の俺の息子であればどんな人生を歩もうともそれで満足なんだよ」

 まただ、またあの父親の目をしている。それが俺の胸を裂こうとする。

「本当にそれでいいのか。俺は間違いなく結木真希奈のためにも、あんたのためにもならないことをする」

 彼は笑った。笑って、俺の髪を撫でた。

「そうだね。君がまだ十四歳の俺のまま全く成長していないようであればリカバリーを行おうと躍起になったかも。だが君はもう違うのだろう? さっき宣言していたじゃないか。九院能代には成らなかった、これからも結木能代であり続ける、と。君はもうあの日の俺じゃない。俺が真希奈なくして解けなかった呪縛を君は自力で解決しようとここまで辿り着いた。それは俺とはまるで違う生き方で、羨ましいくらい君らしい人生なんだろう」

 慈しむように、壊れやすいものに触れるように数回俺の髪を撫でると、昔と違ってすっかり短くなった襟足を経由して九院は手を引いた。

「彼女が呪いを掛けたかった相手は君じゃない。俺なんだ。結果的にそれは君を苦しめることになったけれど、本来君は今のように傷つかなくても良い存在だった。そうさせてしまったのは真希奈じゃなくて他ならぬ俺だ。恨むなら真希奈ではなく俺にしてほしい」

 いつまでもいつまでも、結木真希奈は悪くないと庇い続けるそのひとは本当に結木真希奈に呪いを掛けられてしまったのだと感じた。

 この人が一身にその呪いを受けるのであれば、俺はもう、彼女の死を自分のせいにしなくてもいいのだろう。

「君は君であればいい。君は自分がやりたいように生きていけばいんだ。今まで制約を課していた存在が言うにはあまりにも無責任な言葉だけれど」

「好きに生きろと言いたいのか。あんたは結木真希奈の幸福を持続させたいんだろう? その提案は間違いなく幸福の持続には繫がらないと思うが」

 気にしていないと言えば嘘になる。俺でも死んだ肉親の幸せを少しくらい願うことだってある。

「そのことなんだけどね、実のところ先程の提案とは別に真希奈の幸福の持続に関するお願いはあるんだ。少しだけ、頼み事をしてもいいだろうか? 願いは二つ。君の認知をさせてほしい、そして定期的にここへ帰省をしてほしい」

「それが結木真希奈の幸福の持続となんの関係がある」

「分からないかな? 突き詰めていけば彼女の幸せとは君が九院能代に成ることではないんだよ。彼女にとっての幸せは俺が幸せであり続けること。俺は今挙げた二つが末永く続けばそれで幸せなんだ、結木能代の父親の九院能代としてね」

 引き受けようと口を開き欠けたが一瞬だけ亜利紗さんのことが脳裏を過り、再び口を噤んだ。彼女は俺が正式に九院の息子になることに胸を痛めないだろうか。彼女が俺の親として生きた数年をこの約束でなかったことにしてしまわないだろうか。

 俺は思案し、そして妥協案を考えつく。

「……それなら、一つだけ条件がある」



   ◆



「あっ、やっと戻ってきた」

 車外で俺が戻るのを待っていたらしい途草の第一声はそれだった。須田や灰野は父親に挨拶に行っているらしく今はいないようだ。

「おかえりなさい。顔色も悪くない、機嫌もいつも通り。話し合いは良い結果でまとまったようですがいかがですか?」

「あぁ、ある程度双方の納得がいく形で終わった。九院には俺のことを認知させることになった」

「正式に親子になるのですね」

「まぁ、そうなる。だが九院の戸籍には入らないことを条件に出した。それに向こうも同意した。だから苗字は結木のままだ。……九院を名乗ったら、伯母にも、結木真希奈が死んでからの九年間にも示しがつかないからな」

 俺はこれからも結木を名乗り続け、亜利紗さんには九院に認知させたことを隠し通す。彼女の前でだけは彼女の息子を演じ続ける。彼女が墓に入ろうとも、ずっと。それが例え偽りであっても。

 途草は事が片付いたようで何よりですと微笑む。

 助手席の扉を開けて、詳細は車内でゆっくりと聞かせて頂きたいですと中に入るよう俺を促した。外は冷える。俺は途草の誘導に従った。

「そうだ。まず最初に聞くべきことがありますね」

 そう前置きをして途草は俺の目を見た。

「あなたは誰ですか?」

 その答えはひとつだった。

「結木能代だ」

「あなたが今後するべきことは?」

「結木能代の確立、そのためには九院能代との差別化を図らなければならない。方法は簡単だ。結木能代が決定的に九院能代と違う所を突き詰めればいい。そんなものはきっと多くはないだろう。その数少ない相違点をこれから発展させていく」

「要するに絞殺はこれからも止めないのですね。安心したという言葉はあまりにも不謹慎ですが、そうですね、結木能代さんらしいです。あなたのアイデンティティと言えばそれですものね。意思は固そうですし、その調子ならきっと大丈夫でしょう」

 望んでいた返事が戻ってきたことに途草は笑っていた。

「あはは、勿論その返答は分かっていましたとも。それではこれからぼくたちの今後のことについてお話しましょうか」

 今後、という部分をやけに強調しながら途草はお決まりの仕草で鞄から手帳を取り出した。

「……今後も何も結木真希奈の件はもう終わった。これ以上お前に頼むこともない」

「そんなことは知っていますよ?」

 悪寒が走った。今までこいつのにやけ顔はいやと言うほど見てきたが、その中でも最上の悪巧みを携えた笑みで俺を見ていたから。

「まずは結木真希奈さんの件のご解決おめでとうございます、そしてお疲れ様です。――それはそうとぼくたちの契約は何を原則として行われていたか覚えていらっしゃいますか?」

 その問いに、等価交換と口の中で呟くと、途草はより一層口元を歪めた。

「そう。ぼくたちは等価交換を原則として取り引きを行ってきました。今もそうです」

「今も? 結木真希奈の件は――」

「はい、まずですね、先日背後から生世くんに襲われた際にぼくが手首を負傷してまで助けた分。二つ目は資料置き場探索用の人手の手配。三つ目は山津との交渉の際、身を挺してロックを解錠させた分。四つ目は今日の送迎や須田さん生世くんの手配、そして問題解決への精神的サポートとアフターケア。現在挙げただけでも未消化の問題がこんなにあったりします!」

 頬がひくつく。こいつ、バレないようにこそこそと恩を売って今までわざと黙っていたな。

「故意による不利益事実の隠匿が行われた契約は法によって騙されたと気付いた時から六ヶ月以内であれば取消権がある。これは消費者事業者に関わらず発生する」

「ぼく達の間で法が成立した試しがありますか? 少なくとも山津の交渉分は払って頂きたいですね。あれに至っては了くんにも協力してもらっていますし高良さんに頭を下げる必要もある。終いには山津のアトリエに赴いて半生の提供なんてものをしなきゃいけないんですから」

 途草は病んだ目でははは……と不気味に笑う。小さな声で「大丈夫です、死にはしませんよ。たぶん」と呟く声は普段よりも格段に――テンションも音程も――低い。

「……。……俺にこれ以上なにしろって?」

 最早諦めていた。断る以上に今後受けるであろう何某から話を逸らしたかった。

 クソ。予想は出来ていたが全て片付いた後にヤクザ商売の餌食になろうとは。人生の汚点をまた増やしてしまった。それも漂白剤を使っても消えなさそうなどす黒いやつを。

「能代さん商学科卒ですよね? 金勘定も得意ですし税についての心得もある、公認会計士の資格も持っている。ぜひうちの事務所で税理士をやりましょう!」

「公認会計士と税理士は別物だが?」

「細かいことはいいんですよ! 脱税さえ出来れば高良さんはとやかく言いませんし、ノウハウも直々に仕込んでくれますから! もう大船に乗ったつもりで!」

 何が大船だと、泥船ですら勝っている。お前が提示してる船はきっとオブラートかなにかで出来ている船だろうと。もう俺の頭の中は大荒れだ。

 乾ききった喉からやっと出てきた言葉はか細く短かった。

「職場の、PR」

「アットホームなあたたかい職場です! 出勤時間はまちまちで深夜に突然お呼び出しが掛かったりもしますが昨今の社会ではそれも珍しくはないのでお気になさらないで下さい! 呼ばれなければ基本ずっと休みです! さぁ共に黒い労働を強いられましょう、結木能代さん!」

 アホを抜かすなと思った。思った通りに口に出せば「アホだろうとなんだろうと事実ですので」と悪びれた様子のない笑顔で突き返させる。

 断ろうにも断れない。あまりにもこいつに情報を握られすぎていて不利としか言いようがない。完全に外堀を埋められていることに俺自身が気がついていた。

 喉の渇きがピークに達し、俺は水を飲んだ。やっと普通に喋れそうなくらいには潤いが戻る。

「お前は脱税のリスクを理解していないだろう。ただの金勘定とは違うんだ。例えば源泉徴収の――」

「脱税と言わずとも租税回避程度でも構いませんよ。まぁその辺は高良さん次第ですが……――あ、その顔。租税回避なら出来るかもって一瞬思いましたね? やりましょう、レッツ税法違反、つけよう二重帳簿」

「租税回避は一応合法だ……ものによってはかなりグレーだが」

「まあまあ、小難しい話は抜きにして。九院能代さんとの相違点を突き詰めるのであればぼくに加担するのも充分手だと思いますよ?」

 俺は観念して窓の外を見上げた。晴れ渡る空には灰色の雲がまばらに散っている。ふと、その中から雫が零れた。その粒は雨音を立てずに地面に落ちると土の色を変える。不思議と雨を見ても気分が沈むことはなかった。

 俺はそっと外へ出た。途草は止めもせずそれを見送る。

 顔に掛かる雨粒が少しずつ激しさを増し、それにつれて雨音も大きくなっていく。空には依然太陽が昇っていたが、それでも雨は引くことなく、俺に雫を垂らす。

 上を向いて瞼を閉じた。太陽の光に照らされ目の前が白くなる。雨滴はなおも降り注ぐ。

 この雨は禊ぎだ。雨音響く夏に掛かった呪いは雨で流さなければ。

「おっとシャワーかい? 良い趣味しているね」

 目を開き、それが発せられた方に視線を向ける。声を掛けてきたのは須田だった。共に駆け寄ってくる灰野は風邪引くよと車内に戻るよう勧めてくる。

 助手席へ戻ると途草が白いスポーツタオルを準備して待っていた。それを借りて顔を拭くと今日溜まったストレスも一緒に拭えた気がした。

「話し合いお疲れ様! やっぱり九院様は嬉しそうにしてたよ。丸く収まったみたいでよかった」

 灰野は自分のことのように喜びを口に出したが後ろに座る須田は随分と面白くなさそうな顔をしている。

「させるんだってね、認知」

 こいつが灰野とは違って九院の喜びに不満を覚える質であることは事前に把握していた。だから不機嫌そうなこの言い草にも納得出来る。

「あぁ。だからといって父親面されるのは御免だがな」

 今までいなかった存在なのだ、それを急に父親だと扱えるわけもない。俺の認識では九院能代とは父親面をしたがる血の繫がった他人に位置づけられている。

 四人を乗せた車は走り出し、久安明を後にする。

 帰りの車内は静かだった。すっかり太陽を隠しきった雨雲から落ちる雫がボンネットを叩く。ザーザーと雨が落ちる音、タッタッと雫がフロントガラスを叩く音、バシャとタイヤが水溜まりを通過した音。色々な音が異様によく聞こえる。

 あれだけ嫌いだったその沢山の雨音が不思議と聞き心地の良いものだと感じられた。

 産まれた時から着実に俺を蝕み、九年前に完全に浸食しきった結木真希奈の呪いは、九院能代が全て引き受けた。俺はやっと結木能代として生きる権利を手に入れたということになる。だが権利というものは持っているだけじゃ何も変わりやしない。それを行使しなくては。

 鞄のファスナーを開けて手を突っ込む。中にはザラついた質感のそれがあった。手に馴染むポリエステル製のそれを鞄の中で弄ぶ。

 窓の外が急に明るくなった。雨雲が密集していた地帯を抜けたらしい。雨は止み、空には澄んだ青が広がっている。

 この調子じゃ東京も晴れているだろう。今まで通りなら雨の日以外は避けるのだが……。

 僅かに思案した。本当に僅かに。何故なら答えがすぐに出たから。

 ――雨の日以外でも殺せばいいじゃないか。結木真希奈の呪いは解けたのだから、雨の日に首を吊った彼女を思い出すために雨音を聞きながらロープで首を絞める理由は無くなった。

 再度頭の中で唱えた。『俺は俺の為に生きる権利を手に入れた』

 続けて須田の言葉が脳裏を過る。『人を殺すやつはいつだってそれらしい理由以前に〝そうしたいから〟人を殺す』

 なら俺も、ロープで首を絞められて命乞いをする女が見たいという願望のみを抱いて人を殺そう。それに天候や場所や時間なんてものは関係ない、そうしたい時がやり時だ。





 俺は結木能代だ。

 では結木能代とはなんだ?

 その答えは鞄の中に突っ込まれた手に握られていた。

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