結木真希奈の手記を手に入れてからの一週間、俺は幾度となくそれを読み返した。
記された懺悔を受け入れることも境遇に同情することも跳ね返すこともせず、俺はただノートの全ページを繰り返し読み込んだ。
二人の間で交わされる言葉の数々は夫婦のものというよりも、もっと遠くて近い別の何かのように感じられた。過剰によそよそしいわけでもベタベタしているわけでもないのにそう感じてしまうのは俺があの二人の関係性を把握しきれていないせいだろうか。
スマホの通知が鳴る。差出人は途草であった。そろそろ俺の家のそばに着くらしい。
俺は今から久安明に向かう。
「おはようございます。今日も一日よろしくおねがいします」
緑色のプルオーバーに黒のダウンジャケットを羽織った途草は自らの手に息を吹きかけながら小さく会釈をした。
先週までは秋服で充分だった気候も冬の装いが必要になるほど冷え込み始めていた。
「あぁ」
俺の生返事に途草は何も言わなかった。奴は充分に温めた手に手帳を持つとそれに目を下ろす。
「今日は一度千葉県茂原市に向かって須田さん達を拾った後、運転を生世くんに代わって久安明を目指します。行きも帰りも生世くんに代わるまではぼくが運転しますので能代さんはご自身のことに集中なさってください」
これにも変わらず生返事をしたが途草は気に留めず、寒いですねぇと一言呟いたかと思うとそのまま運転席へ乗り込んだ。俺も反対側から助手席に乗り、シートベルトを掛けると背凭れを少しだけ後ろに倒した。
途草はサイドブレーキ付近に置かれたプラスチックボックの中からタイトルも見ずに一枚CDを取り出す。それをカーオーディオに吸い込ませると慣れた手つきで再生ボタンを押し音量を目盛り二つ分下げた。車内に聞き覚えのある曲が流れ出す。……クライスレリアーナか。
「やるべきこと、話すべき事はもう考えましたか?」
「うるさい。お前は俺の保護者か」
「そのようなつもりはありません。ですが見守る者として万全の準備で挑んでいただきたいのです。その調子じゃ伝えたいことが多すぎるのにそれでもなお増え続ける様子に手を焼いているのでしょう?」
途草の言うことは嫌になるくらい核心をついていた。
じっとりとした何を考えているのか分からない瞳に見つめられ、俺は観念して口を割る。
「以前須田に言われた、『結木真希奈の問題を知ってお前は何に成る?』と。その時は真意を計りかねていたが今は大方見当が付いている。おそらくは結木真希奈が望んだ通りに九院能代に成るのか、という話だろう」
あの日の晩須田が俺に言ったことは確かに全てアドバイスと呼べる事柄だった。その中でも須田がわざわざ〝大事な話〟だと前置きをして話し出したことがこれなのだ。
「結果は決まっている。俺は九院能代には成らない。今から成ろうとすること自体が無理だ。俺はそいつとは遙かに懸け離れた存在として既にこの世に身を置いている」
「そうですね。あなたは誰がなんと言おうと冷徹な都内連続絞殺事件の犯人です。九院さんがどのような方かは存じ上げませんが、間違いなく真希奈さんが望んだ九院能代さんと今のあなたは違う者ですし、あなたの罪が九院能代を目指すことでチャラになることも絶対にない」
そう、俺は所詮人殺しで、今更九院能代を目指しようがない。ゆで卵が生卵に戻らないのと同じでそれは不可能なことだ。通り過ぎてしまった道に引き返せるほど世の中は甘くない。
「ぼくは何があっても人殺しの結木能代さんを肯定しますよ。ここまで付き合った提携者としてね」
途草はそう言うとオーディオの早送りボタンを押して曲を変えた。
「今の能代さんに最適なのはきっと第三曲ですね」
途草が選曲したそれは確かに俺の心を結木真希奈の件に引き込むのに適していた。
俺は結木真希奈が望んだ生を歩めなかった。それは後悔することではないし責任を感じることでもない。けれどどうしてだろうか、こんなにも、こんなにも親不孝だと思えてしまうのは。
◆
二時間の道のりを経て茂原に到着する。駅前には既に目当ての人影があった。その二人は俺達を見つけると足早に駆け寄ってくる。
「おっそーい」
「だーすはああ言ってるけど全然待ってないから気にしないで」
灰野はそそくさと途草と運転を代わる。須田は当たり前のように運転席の真後ろの上座を陣取るとにやにやしながら俺に手を振ってくる。
この二人と顔を合わせるのもたかだか一週間ぶりなため双方に目立った変化はなかったが須田と俺の関係にはやや変化が生まれていた。
「このまま久安明に向かうね。すぐに着くとは言えないけど一時間は掛からない」
そう言いながらエンジンを掛けシフトレバーをドライブに移動させる。車が徐々に動き出し、灰野はハンドルを回して車道に出るとよりアクセルを踏む力を強めた。
「それで? わざわざ久安明に行く決意をした理由はなんなのさ?」
俺の顔を見つめ続けていた須田は、そのくらい聞いたっていいでしょ、と言いながら背凭れにふんぞり返る。
「お前が言ったんだろう。ノートを探せって」
電話口で再び一方的に伝えられたアドバイス。それはまたしても、俺に決意をさせ次の行動に移させる力を持つものだった。
「あぁ、交換日記のことね」
「最後の日記を九院能代に手渡す。そのために久安明に向かわなければならない」
須田は大口を開けて笑った。別に郵送でもいいだろうにと。
「俺さ、最後の日記はずっと結木真希奈が持っていたから内容を知らないんだ。何が書いてあった? それが重要だったからこそ、君はわざわざ自らの足で赴きその手で届ける気になったんだろう?」
須田の発言に途草は眉間にしわを寄せ、少し嫌そうな顔をする。
「日記の内容を聞くなんて、プライバシーって言葉の意味をご存じですか?」
「ハイノの家に不法侵入した挙句資料置き場のロックを無断で解錠した人間がプライバシーを語るなよ」
途草はふて腐れたように、中に入る許可は貰ってたし、と口を尖らせた。
何度も読んだんだ。結木真希奈が最後に書いた日記の文言なんて空で言えるくらい。
だが俺はその詳細を他者へ伝えなかった。須田にも、途草にも。伝える意味はあったのであろうが、そうする気分になれなかった。
「日記には懺悔とも取れる内容が書き連ねてあった、それだけだ。ついでに遺書も手に入れたが、そちらは精々副産物程度の代物だった。やはりお前は他の日記の内容も把握しているのだな」
須田は目を細めて「当たり前だろう」と言ってのける。
「君みたいに自分の事を知るために探り回ったと電話で言っただろう? そのときに久安明の中をひっくり返したんだ。いっぱいあったよ、ノート。まぁその内容の殆どはなんてことない日常のゆるーい報告書みたいなものだったけどね」
「……」
「まぁ黙るなよ。俺はこの一週間の間にきみのことをある程度理解したつもりだよ?」
須田は眼鏡のブリッジを上げると姿勢を前屈みに構え直し、先程から俺を捕らえて離さない瞳孔を一際大きくさせた。
「結局のところきみは、どうして自分が絞殺魔になんてものに成り果ててしまったのかを知りたくて、その理由探しのために結木真希奈を用いたんだろうね」
「知ったような口を利くな。俺は真希奈の死を人殺しの言い訳にしたくなくて……!」
「まぁまぁ大きな声を出しなさんな。何故だろうかね、きみのことをきみ以上に知ったような気分になってしまうんだよ。――そんな俺からまたアドバイスだ。君にとって結木真希奈の死はいつだって二番で、一番はずっと自分の為になることを成すことだったって、そう割り切れよ? 人を殺さないと生きていけないような弱者の優先順位はいつだって自分を一番に設定しとけ」
須田の口元は微笑んでいた。その笑みはまるで全部お見通しだと語っているようだった。
「またアドバイスか」
「そうだとも。君はこれから結木真希奈を断ち切って自分のために生きる選択をしに久安明へ向かう。そうだろう?」
「あぁ」
「ならお利口ぶるな。結木真希奈と自分自身、どちらも都合良く取ろうとするな。これは有害な者同士の約束だよ、結木能代くん。自分の一番はいつだって自分だろう。理不尽に人を殺してきてそうじゃないだなんて言わないよな?」
須田はまたふんぞり返って足を組む。視線は前方の灰野の頭を見ていた。
「人殺しの頭の中はいつだって自分のことで一杯なんだ。誰かのためだとか、何かの目的のためだとか、誰に頼まれただとかそんなことは所詮は二の次で、言い訳でしかない。人を殺すやつはいつだってそれらしい理由以前に〝そうしたいから〟人を殺す。俺も能代くんも、他のこいつらも、いつだって自分のために人を殺している。今後もそうなんだよ、だからクズなんだ。……――おっとごめん、話が逸れてしまった。なんの話だっけ?」
先程まで張り詰めていた空気を嘘にするように、須田はちゃらけた笑顔を浮かべて窓の外に視線を逃がした。
全て自分の為だと割り切れ、か……。
「あ、あの~!」
その時運転席の灰野が真正面を向いたまま遠慮がちに声を張る。
「今の話と全く関係ないんだけど、ふと疑問に思ったことがあるから一端話遮っていい~?」
「ハイノお前、今の俺の話を全く理解しようとしていなかったな?」
「え? だってのっしーとの話でしょ? 俺関係ないじゃん」
須田は運転席の座席を蹴り上げる。すかさず途草がうちの車汚さないで下さい! と行儀の悪い足を叩いた。それに仕返すように須田は途草の手を強く払う。
睨みで威嚇し合う二者を放って灰野に話す許可を出してやると「あのさぁ」と軽い雑談を始めるように気掛かりを口に出す。
「俺からすれば不思議なんだけど、どうして今まで父親の所在を知ろうと思わなかったの? そうしたらトグサの手を借りずともすぐに久安明に行き着いただろうに。役所に問い合わせるとかそういったことじゃどうにもならなかったの?」
灰野が求めたのは結木真希奈のことでも久安明のことでもなく九院のことであった。俺にとって九院の事情は二の次であったため少々答えるのが面倒に思えたが、俺をちらりと横目で見た灰野の視線は無知そのもので、簡潔にでも説明するべきかと悩みながら、渋々口を開いた。
「いや、父親についてはかなり前に調べている。いくら俺が物心つく前にいなかった存在であっても結木真希奈の死の理由を知っている可能性はあったからな。だが早い段階で手詰まりになってしまった」
灰野は両眉を持ち上げ目を丸めて口を結んだ。
「……! それに関してはぼくが説明しましょう! ぼくも能代さんのお父様を調べた経験がありますからね。十分な説明が可能です」
灰野の様子を見かねた途草が待ってましたと言わんばかりに意気揚々としゃしゃり出てくる。そういえばこいつは教えたがりなところがあった。水を得た魚という慣用句がこれ程までに当てはまる様も珍しい。
「とても簡単な話です。能代さんの場合はお父様、もとい九院さんは能代さんの認知をなさっていなかったんです」
灰野は、認知……? と繰り返す。
「認知してない親を見つけるのはそんなに難しいの?」
「そうですね、難しいと思います。能代さんは非嫡出子のため一般的に戸籍に父と記載される部分が空欄になり、それだけで戸籍上の父親が誰だか完全に分からなくなってしまいます。その上、九院さんと真希奈さんは常に別の住民票を取得していたようで、いくら真希奈さんの住民票を遡ろうとも九院さんの情報が出てくることはありませんでした。これは二人の間に関係があることを周囲に隠していたと判断して申し分ないかと」
途草は分かっていただけましたか? と灰野を窺う。彼はなるほどーと軽い調子で納得を口に出した。片や須田は「それって結局、認知の有無程度で所在を割れなかった自称情報屋ですって自己紹介しているようなものだよね」と冷ややかに嘲笑った。
「途草の説明で大方理解出来たと思うが、要するに結木真希奈自身が九院能代の存在を隠していたんだ。それも法的に追えない程度にな。幼い頃から俺に父親の記憶が希薄なのも長らく別居していたせいだと思う」
この件に関しては幾分か理由に見当が付いている。ひとつは九院の所在を俺や親戚に悟らせないため、もうひとつは俺が九院に引き取られた後の所在を分かりにくくするためだろう。
灰野は俺達が説明したところまでは理解したようだったがそれでもいくつか疑問が残っているようだった。もぞもぞと口を動かして言い淀んでいたかと思えば、辛うじて耳に届く程度の声量で続きを話し出す。
「だけど最初から夫婦として生活していたらこんな面倒なことにはならなかったんだよね。それを放棄してまで別居したり認知をしなかったり……俺には分かんないや」
灰野のその言葉には同調する他なかった。俺にも彼女達の行動は理解出来ない。
「結木真希奈の意思がそれほどまでに強固だったとしか言いようがないだろう。俺が生まれる前から俺が十四歳の七月十九日に死ぬために行動してきた女だ。おそらくは彼女にとって最もこの計画を破綻させかねない人物が伯母だったのだろう。だから伯母にその居場所を悟らせないために何年も前から念入りに九院能代の隠匿を行ったのかもしれない」
「でも伯母さんだけじゃなくてのっしーにも九院様の存在を隠したから今回の騒動に繫がったわけだよね。死ぬことは流石に言えなかったかもしれないけどさ、実の父親の所在くらい死ぬ前にちゃんと伝えておいても良かったんじゃない?」
「結木真希奈にもその意思はあったのだと思う。だが俺と結木真希奈との間に生じた遺書の在り処の伝達不行き届きが結果的に最悪の引き金になった。遺書には九院能代の連絡先が記してあったから、それを俺が計画通りに発見し、九院能代に保護の要請を出していればこうはならなかったと断言出来る」
深く溜め息をついた。意識したものではない。思わず、勝手に出ていた。
結局俺宛の遺書を発見できなかった当時の俺は、九院能代ではなく伯母である結木亜利紗へ電話を掛け、伯母方に保護された。それこそが結木真希奈の計画の決定的な破綻原因であることは間違いないだろう。
沈黙が数秒流れた。その間を途絶えさせたのは男にしては少し高い声だった。
「不思議なのですが、九院さんは間違いなく能代さんの居場所を特定できていたはずです。ですから伯母さんへ何度か連絡を入れることが出来たわけですし。引き取ろうとはするものの伯母さんと口論になって一方的に連絡を絶たれたりしていますが、無理にでも実力行使に出て引き取ろうとすればある程度は叶ったのではないかと思えて仕方がありません。それを躊躇った理由はなんなのでしょうか」
途草は須田に問いかけた。奴は不満げに途草を一蹴する。
「知るわけないでしょ。俺が詳しいのは久安明のことについてだけ。他人のお家事情なんて知っている方がおかしな話だろう」
九院は何故俺を引き取る事を諦めたのか。結木真希奈の計画を事前に把握していたことは遺書で明らかになっているし。それを知った上で引き取る事をやめたとも考えにくい。
可能性は幾つか思い浮かぶがどれも決定打に欠ける。
少なくとも俺が把握しているだけでも二度伯母へ引き取りについての連絡を入れていることが分かっているし、それは明確に引き取る意思があったことを表しているだろう。伯母に断られたから引き下がったと考えるべきだろうかとも思ったが、それだと九院能代という男性に些か軽薄な印象を受ける。交換日記を読んだ限りの人柄はどちらかと言えば篤実な印象であったし、また、やはり俺と共に生活することを望んでいるような文面もいくつか残されていた。
彼がそれを諦めるに足る理由がなにかしらあったように思えるが……。
「考え事中にすまないね。そろそろ着くよ久安明」
窓から外の光景に目をやる。樹木達の間をぽっかりと空けた空間にそびえる大きな木造家屋とまるで小さな公園のような広い庭が見える。庭には子供用のブランコや簡易滑り台などが設置されており、持ち運べる野外用の玩具は大人が二人入れるくらいの大きさのトタン屋根のついた扉のない建物にまとめられているようだ。その脇には庭とは別に背の短い雑草が僅かに生えた空き地がある。
灰野は空き地に車を駐車させるとドアを開けた。
「俺はのっしーを連れて中に行くけど、だーすとトグサは?」
着いてくるかと問えば須田は手を振りながらそれを断っていた。
「俺はパス。あとでハイノの親父さんには挨拶に行くけどね」
続いて途草を見ると奴も同じく断りを口に出す。
「ぼくもひとまず車内待機とします。身内の話をぽつんと正座して聞くわけにもいきませんから」
その返事を聞き終えてから車外へ出てドアを閉める。二人並んで庭を経由し目の前の木造家屋を目指す。あれが現在の久安明の本拠地なのだという。
俺は家屋に続く庭を興味深く見つめた。小屋にまとめられている玩具に目を通せばバケツにスコップ、三輪車に小さなショベルカーなんて物まで置いてある。灰野に聞けばショベルカーはもうボロボロだが今でも取り合いになるほど大人気なのだという。
久安明に向かう灰野の面持ちは軽く、そんなに楽しみかと問えば「九院様はきっと喜ぶ」と笑顔で返された。こいつにとってそれは自らも喜ぶべきことのようだ。
「ここも、須田や資料置き場同様お前の家なのか?」
「俺の家って言うとなんか変な感じだから強いて言うなら親父の家かなぁ」
「どうして久安明にそこまで資産提供をしている。それ程までにお前の親父はこの組織に入れ込んでいるのか」
灰野はどう答えようか迷っているように空を見上げる。空は微かに曇っていたがたまに太陽が顔を出して陽を注いでいく。その陽を浴びながら「入れ込んでるっていうか、居場所を貰ったからそのお返しみたいな? そんな感じなんだと思うよ。たぶん、ね?」そう疑問げに答えてみせる顔は自分の答えに自信を持っていないようだった。
「俺所詮二世だからさ、親父にくっついて在籍してるだけで実を言うと九院様がどんなことをして久安明を発展させたとかよく分からないんだ。だーすみたいに調べるつもりもないしね。だーすが言うところによれば真希奈さんが色々してたみたいだけど俺はそこの所詳しくないし。でも九院様に沢山お世話になったのは本当だよ、親父の次に世話になったと言っても過言じゃないかもしれない」
灰野の様子から察するに九院能代という存在は久安明という組織でその地位に見合うかそれ以上に大事にされているらしい。須田のように邪険に扱っている人物の方が珍しい印象を受ける。
九院の立場を最初に確立したのは結木真希奈だったのであろうが、それでも結木真希奈がいなくなった今もなお崇められる立場に居座れているということは、九院能代は人を惹きつける一種のカリスマ性を有している人物なのかもしれない。端的に言えば人柄が良いとかリーダーシップがあるという言葉が当てはまるような人物であるのだろう。
それなら尚更息子を見放すといった軽薄とも受け取れる行動をとった意味が読めなくなった。
久安明の玄関の引き戸を開け中に踏み入る。玄関には大きな姿見があり、そこに映る自分の全身を立ち止まって一度見たとき、ふと誰かから聞いた話を思い出した。
『玄関には鏡を置くといいんだよ。風水的にも身嗜みを整えてから外へ出るという意味でも』
何故だろう。普段はぼんやりとだけ思い起こされる鏡の話がやけに鮮明に蘇る。
待てよ、これは……
「あ、そうだ。九院様にはのっしーを連れてくるって事前に伝えてあるよ。そうじゃないとびっくりして死にかねないから」
俺の思考を止めた灰野は廊下の角を曲がりながらそう言った。そして奥に見える部屋を指差す。
「あの部屋の中に九院様がいる。優しい人だし話も通じるから安心して行ってこいよ」
俺の背中をバシッと一度叩いた後、開けるよと小さく呟いてから和花の模様が描かれた襖を滑らせた。
開け放たれた襖の前で灰野は深々と頭を垂れ「息子さんをお連れ致しました」と宣言した。目の前に鎮座するのは中学生の頃の姿で成長した俺のような容貌の男。その姿は間違いなく九院能代――俺の土台になったひと――だった
俺の姿を認めた九院は一言発した。落ち着いた、ゆったりとした声色で「おかえり」と。
その声は確かに聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。今日だって既に聞いた声だった。
そうだ、今日も昨日も夢の中で聞いて、うなされた。さっきも、鏡の前で、この声が頭の中で聞こえたんだ。玄関には鏡を置けって。すぐには思い出せないけれど他にもきっとこの声で聞いた事を俺は脳のどこかに置いているはずだ。
あの声の持ち主が今、目の前に居る。
俺はずっと声だけは覚えていたのだ。人は声から他人を忘れていくというのに、いつまでも声だけを。姿さえ覚えていない、名前すら覚えていない父親の声だけを唯一脳に刻みつけて、今日という日まで繰り返し繰り返し夢に見ていた。
灰野の足音が遠ざかる。その音が消えてもまだ、俺は、長い髪を、優しげな目を、結木真希奈が俺に課した九院能代を、立ち尽くして呆然と眺めていた。
俺の頭の中ではまだ彼の慈しみに満ちた「おかえり」が鳴り響いていた。