Mastermind
パーキングに車を置いて外に出る。資料置き場の場所は意外にも見知った場所であった。
そこは紛れもなく、かつて俺が結木真希奈と住んでいた家の近所であった。
見知ったとはいえ、ここを訪れるのは九年ぶりであったから、辺りは近代化も進み昔の面影はかなり薄れていた。車で母校の中学の脇を通ったときなんかは体育館が新しく建て直されている最中で、大した思い出もないのに何故だかとても名残惜しさを感じた。
それらはどれもひどく懐かしくて、吹き抜ける風すらも思い出の一部のような気がした。
資料置き場という呼ばれ方からそれは倉庫のようなものであろうと予想していたが実際には違っていた。そこに鎮座していたのは大きな邸宅で、表札の名は千葉で見た須田の家同様灰野になっており、ここも灰野の父の持ち家だということが窺えた。思い返してみると中学生くらいの頃に近所に金持ちの家が建ったと同級生が騒いでいたことがあった気がする。もしかしたらその家がここなのかもしれない。この家が建ったときから灰野の父が所有しているものであった場合、結木真希奈がこの資料置き場に通っていた可能性もあるのだろうか。
「表札を見ての通りここは生世くんのお宅だそうで、誰も居ないから入っても怒られないなどと言っていましたから、遠慮なくお邪魔させていただきましょう」
邸宅の門の内側に付けられた閂は外されており、途草の兄達が既に到着していることが読み取れた。門から玄関へ続く石畳を踏みしめて歩く。手入れの行き届いた庭は今でも定期的に誰かの手により整えられているようで、きっと普段は誰かが留守番でもしているのだろう。もしかすると灰野が事前に人払いをしたのかもしれない。
庭を通り過ぎた先の玄関前には見知った姿が二つ。一人は弟同様うねりのある黒髪に青いメッシュの入った青年――途草の兄――、そしてもう一人はいつぞやの油色の髪の男――山津――であった。
途草の兄は弟に手を振ったあと手招きをして側に寄せる。山津はこちらを見るなり挨拶代わりに舌打ちをかましてきたので俺はそれを嘲るように言ってやった。
「よお雑用係。よくその面下げて来られたな」
「うるせぇ。俺だって好きで来てんじゃねぇよ」
「お前のせいで千葉でとんでもない目に遭った」
「あーそうかい、千葉までビデオ回収ご苦労さん。俺を取っ捕まえたツケだ、イイザマだな絞殺魔、──っ!」
山津の減らず口を止めたのは途草の兄であった。彼は山津の脇腹すれすれにスタンガンを翳すとじっとりした視線を向けながら素っ気なく、だが確かな殺気を纏った語気で言った。
「口を慎んだ方がいい。作品のデータはこちらが握っているんだ。これ以上余計なことを言うようであれば全てデリートする」
山津は黙った。どうやら例のスナッフビデオのデータを質に取られているらしい。今日ここへ雑用係として連れて来られたのもその件で強請られたからであろう。
山津の気が退いたことを確認した途草の兄はスタンガンを下げると俺に向き直る。表情は先程とは一変し微笑を湛えていた。
「結木さん、お久しぶりです。途草了と申します。弟がいつもお世話になっております。菓子折の一つも用意せず、そして只今の山津の無礼な行い、本当に申し訳御座いません」
そう言っていつか見たのと同じくらい深々と一礼した。あまりにも長い礼にいい加減頭を上げろと投げかけると、途草了は素直に俺の指示に従い姿勢を正した。
「今日は資料探しだと窺って来たのですが、具体的にはどのような物をお求めですか?」
「久安明という組織に関する資料を探しに来た。代表者略歴の記された書物と所属者名簿を探す手筈になっている」
手分けして、兄弟は代表者略歴を、俺と山津は名簿を探すべきだと提案すれば、途草了は納得したように承知致しましたと短く返事をした。
要件の確認も程々に、途草了は「玄関の解錠は事前に済ませておきました」とそれを証明するようにドアを開け中へ先導する。開けたドアから遠慮なしに室内に上がり込む三人の後ろ姿に不法侵入に対する慣れを感じた。
「生世くんの話によればこの部屋なんですけど……」
そう不安げに示されたドアには手のひらサイズの電子ロックが設置されていた。それはドアの傍らに備え付けられており鍵穴などは見当たらなかった。
途草了はポケットから取り出したハンカチ越しに電子ロックのパネルに触れ、少し観察したあと、俺達にそれを見せるように隅に移動した。
「海外製の電子ロックでそれ以外には特別変わった様子は見当たりません。キーパッドがないところを見るとカード式のようですが」
「壊せないのか」
「ドアを壊すのであれば別ですが電子ロック自体を壊すことは無意味ですね。解錠不能になり、最悪の場合警備会社に連絡が行きます」
途草の表情は目に見えて焦っていた。そして「少々お時間いただきます」と残して俺達から少し離れた位置で誰かに電話をかけ始めた。相手の予想は容易だ、間違いなく灰野生世であろう。
「生世くん? 今ちょっといい?」
『なに~?』
スピーカー設定になっているらしく灰野の間の抜けた声がこちらに筒抜けだった。だが途草はそれに気がついていない。
「あの、資料置き場のことなんだけど」
『おう』
「それのさ。電子ロックの解除の仕方とかって分かる? カードの場所とか」
『え、なに電子ロックって』
「え」
『最近付けたのかな? 悪い、父さんに聞いてみないと分かんないや。――あ、そろそろ講義始まるからまた掛け直すね』
「まって、せめてヒントになりそうなこと――……切れた……」
手元で通話終了音を鳴らすそれに途方もないような視線を浴びせ、ふとこちらを見たかと思えば言葉を決めあぐねているように何かを言いかけては止めるを繰り返す。
「丸聞こえだったぞ。ざまぁねぇな、情報屋名乗っておきながらロクなこと得られなくて」
山津は半笑いで途草を挑発する。途草自身は何も言わず冷めた目で山津を捉えるのみであったが、近くでそれを聞いていた身内はそうはいかなかった。
「――っお前、口を慎めって言っているだろう」
今度は寸止めではなく、確実に電極部を押しつけるという敵意や憎悪を持ってスタンガンを構えた途草了は山津の首元まであと数センチの所へと距離を詰めた。だがその手は素早く振り払われたジャケットにより弾かれ、途草了自身も押し返されるように一歩後ろに下がった。
それから沈黙を挟む間もなく、斜に構えた態度で山津は途草了に言い放つ。
「オイ了、調子乗んな、口を慎むのはお前の方だ。今この場で唯一この鍵を解錠出来るのは俺しかいないんだからな」
その発言に空気が張り詰める。山津はそのまま電子ロックの側に寄りパネルに二度ほど触れると、俺達に向き直る。画面には先程までなかったテンキーが表示されていた。その挙動から山津がどれほど目の前の電子ロックの操作方法を理解しているかが窺えて、場がより一層緊張感に包まれる。
「認証モードを変更した。これで暗証番号を入れれば開く」
「お前、もしかして開けられるのか? パスの手掛かりなんてないんだぞ」
「手掛かりなんてものは不要だ、お前らの態度次第でいつでも解錠出来る。少なくとも了、テメェが大人しくしてりゃここが開く可能性も高まるだろうよ」
そして山津は「これは交渉だ」と宣言した。
「俺の作品と俺の身の安全を高良成寿――要するにお前ら二人の上司に掛け合え。それさえすればひとまずここを開けてやる」
「無茶を言うな。あの人がどんな人間か知っているだろう」
途草了の意見を聞いた山津はあの細めた目で俺を見ると口元を歪ませた。
「どんな人間か知っているからお前らを使うに決まってんだろ。まぁいい、了は解錠に反対だそうだ。どうする能代?」
「待て、話を持ち出す相手が違うだろう。今回の件は結木さんに深く関わりがある問題だが、彼は高良さんと面識すらないひとだ。結木さんが高良さんと交渉するわけじゃない、最終的に頭を下げることになるのは俺と終だ」
「そんなもん、能代がお前らに頭を下げて、お前らが高良に頭を下げれば良い。そんで全員揃って俺に頭を下げれば丸く収まる」
沈黙が流れる。
この件は俺の一存で承諾出来る事柄ではない。こいつらの上司がどんな人間かは知らないが、途草了が言ったように最終的に危険な目に遭うのはこの兄弟であろう。だが俺だって、ここまで来て手ぶらで帰るわけにも行かない。山津の言う通り二人に頭を下げる程度であればそうするが、間違いなく途草了が異議を唱えるであろう。
その沈黙を破ったのは声変わりしつつも高い男の声だった。
「じゃあぼくが高良さんにお願いします」
声の主は俺を見て笑っていて、目が合うと頷いて見せた。そして山津に「だから鍵を開けて」と頭を下げた。
「終、駄目だよ。どういうことか分かっているの? 痛いことをされるかもしれない、今よりもっと危ない仕事をやらされるかもしれない」
「分かってるよ。だから了くんは一緒に行かなくていい。ぼくはとにかく、能代さんとの約束のためにここを開けなければいけないんだ」
途草は兄を宥めるようにそう言うと今度は俺に向けて口を開いた。
「これは貸しということにしておきます。等価交換は基本ですからね、いつかかならず、ぼくが高良さんに意見することと同じくらいのことを能代さんにお返ししてもらいますよ!」
そして笑った。だが今度の笑みは普段のにやけ顔でも時折見せる子供っぽい笑みでもなく、恐怖を押し留めるために作られた張りぼてのような儚い笑みだった。
「おい山津。高良さんに交渉はする。だけどそれは安全の確約ではなく、あくまで交渉だ。分かっていると思うけどぼくも了くんもあの組織の中では偉くない」
「あぁ構わない。それならどちらか一方でも安全の確保が出来なかったときは能代とお前の半生を洗いざらい俺に提供しろ。それでいい」
「……半生の提供なんて、なにをするつもりなの」
「なんてことはない。それをネタにして一本映像を撮るだけだ。お前らみたいな人間の生き様というものは味付けなぞせずとも娯楽に成り得る最高のコンテンツだ。だからノンフィクションは一定の地位を得ている。さっきのお前の行動も映画だったらかなり映えただろうさ」
山津は黒い手袋を外すと指先でタッチパネルを操作する。指紋が残らないかと危惧を口に出せば、人差し指の指紋は焼けて潰れたと途草了を見ながら返答された。
迷いなく動かしていた指を一度止め、最終確認といった様子で「これを開けた段階で俺とお前らの交渉は成立だ。いいな?」と投げられた言葉に、途草は間髪入れず「早く開けて」と返した。
高い電子音が短く鳴った後ガチャリと重い音を立てて鍵は外れた。山津はドアを開けると手近にあったらしい段ボールを壁とドアの間に挟みドアストッパーにする。中に入るよう、顎で室内を指す山津になぜ鍵を開けられたと問うと、奴はなんてことないように呟いた。
「デバッグモード」
山津の言うところによると以前ビデオの取り引きの際に訪れたあのアトリエの電子ロックと今回設置されていた電子ロックは同じ会社の同じ機種の物らしく、デバッグモードの開き方や初期設定ならばそれに関するパスも同じで、少ない要点さえ把握していれば開発者向けプログラムで一時的に解錠が可能だということらしい。山津の説明を聞いた途草は国内で流通している全社のデバッグモードの開き方と初期パスワードを覚えなきゃと小さく呟きメモを残していた。
資料置き場の室内は灰野の話通りにごたついており、大きな棚から溢れるほどの荷物が部屋一面に置かれている。手近にあった段ボールの中身を見るに、久安明以外の物もここに仕舞い込まれているようだ。
「この中からピンポイントで名簿と代表者略歴を探し出すのは骨が折れますね。千葉で豪邸を漁ったときのことを思い出す……」
途草は冷ややかな目で山津を見つめ、山津は我関せずといった顔で欠伸を一つ溢した。
「とりあえず探すしかないだろう、先程伝えた通り、兄弟は略歴を、俺と山津は名簿を探す」
須田の言っていた事が正しければ、それらの内容を見ればきっと、事の全容が見えてくるはずだ。
◆
各々が目当ての品を目指してひたすらに部屋をひっくり返す。あれやこれやと溢れかえる物品の数々を手作業で漁り初めてから既に二時間が経過していた。
今までに出てきた久安明関連の品といえば建物の外観と思しき木造家屋の写真のみで、それすらも何度も移転を繰り返している点からあまり有益な情報とは言えなかった。
「くっそ面倒くさいな。名簿だの略歴だのを探せって言った奴にやらせろよ、こういった雑用は」
山津は小言を言いながら棚に並べられた冊子を一冊ずつ手に取りぱらぱらと捲っては元あった場所に戻すといった行為をひたすら繰り返している。かれこれ二時間もの間この作業を続けているせいで、そろそろ苛立ちが溜まってきているらしい。ぶつくさと聞こえる独り言が徐々に増えている。
山津がまた何か言いかけたその時だった。不意に喋りかけの独り言が止んだ。奴の方に視線を向けると一冊のファイルに目を通している最中で、一ページずつ紙を捲り、とあるページに辿りついた瞬間ファイルから目を上げて今度は俺をまじまじと見つめてきた。何度か俺とファイルの中身を見比べて来たため、いい加減にしろと怪訝な顔をして山津をどついた。
「手を動かせ」
「うるせぇ、あったぞ名簿。そんでこれがお前の母ちゃんか、あんま似てねぇな」
山津が掲げて見せてきた女の写真は紛れもなく結木真希奈であった。
「そんなことよりお目当ての結木真希奈の項目だけ他の奴に比べてあまりに情報量が少ないが」
他の所属者に比べて情報量が少ない? どういうことだとファイルをひったくり中を見れば、確かに他の所属者のページに書かれている事細かな略歴は結木真希奈のページには殆ど書かれていなかった。
そこに書かれていたのは氏名と生年月日と加入日、そして略歴とは呼べない、幼い頃から彼女の胸に残っている小さなしこりのような些細な小話。
『当時十歳だった彼女は初めて飼育したペットのハムスターを亡くして酷く心を傷つけた。その傷をより深めたのは親が代わりに用意した以前飼っていたものとよく似た新しいハムスターであった。『生まれ変わり』だと言ってそれを渡した親に彼女は憤りを感じた。『あの子は生まれ変わってなどいない。来世なんて迎えてしまったら〝私の飼っていたあの子が永遠ではなくなってしまう〟じゃない。私と過ごしたあの子の生が次のなにかになってしまうじゃない』と。そして親に生まれ変わってなどいないことを証明するために、彼女はハムスターの墓を掘り返して腐敗した死体をケージに入れて毎日世話をした。それを切っ掛けに両親は彼女を精神科に通わせる』
その内容は今までの仮説の一部をひっくり返すには充分であった。
輪廻転生の否定は久安明に出会ってから出来たものではない。彼女が少女の頃にはすでに存在していた。
俺は加入日に目を向けた。それを見た瞬間、胃に冷たいものが流し込まれる感覚に襲われる。だが悪寒の元凶であるそれから目を離すことが出来ない。
結木真希奈が久安明に加入した日の西暦は俺が産まれる二年前のものであった。
結木真希奈は首を吊る九年前どころかもっと前、俺が産まれる以前から久安明に所属していた……? 久安明に関わったことが自殺の原因であるならば、下手したら俺が産まれる前から死ぬことを決めていた可能性すらあるのか? それは即ち俺をわざわざ産んでから死んだ可能性すらも持ち合わせている。
「結木さん!」
俺の思考を止めたのは途草了だった。一冊の正方形の小さなアルバムを手にし、その二ページ目を開いて俺に手渡してきた。
そこに写されていたのはまだ若い結木真希奈とどこか既視感のある髪の長い人物。その二人だけが写された写真の裏には先程結木真希奈の名簿に書かれていた加入日と同じ日付、そして久安明設立の文字であった。それは髪の長いもう一人の人物が九院であることと、設立時点までには既に二人の間に接点があったことを表していた。
――もしかして、久安明は〝九院と結木真希奈が作った〟のか?
今までの仮説を崩し新たな仮説を作り出すには充分な出来事の数々に、胃の気持ち悪さ以上に自らの結木真希奈に対する理解の足らなさに吐き気がした。
おかしい、これはおかしい。久安明に関わったから母さんは死んだんじゃなかったのか? それ以外の可能性なんて、もう――
それは揺るぎようのない真実に等しかった。俺の仮説を確かにしたのは途草が足早に持ってきた一冊の冊子だった。
「見つけました、代表者略歴です。真希奈さんを知るためにはこれを見る必要があると須田さんは言いました。それは確かです。ですがこれはきっとそれ以外の目的もある。能代さん、須田さんはあなたに〝能代とは何かを理解させるため〟にこれを見るように言ったんだと思います」
そう言って手渡された冊子を、おそるおそる開いた。
それには久安明が発足されるに至った経緯が記されていたが、大半が九院の半生で埋められていた。
その半生の略歴に俺は〝身に覚えがあった〟。
片親で、宗教まがいのおかしな組織に執心してる母が居て、意味の分からない躾を施され、その母を十四歳の頃に首吊りで亡くしている。彼は俺と全く同じ十四年間を過ごしていた。
傍らに掲載された写真の主は先程見た、久安明が設立された際に撮られた写真に写っていた髪の長い人物で、改めてその顔を見た瞬間あのとき感じた既視感の正体に気がついた。
九院の顔は顔立ちや髪色、髪の長さまで十四歳の頃の俺と瓜二つだった。
胃が冷たい。手が震える。あの日の晩に食べたハンバーグの味が口や喉に広がって、雨音と宙に浮いて揺れる影が鮮明に思い起こされる。
写真の隣に記されている名前は見慣れた二文字。その二文字は、今まで自分が自惚れていた事を自覚するにはあまりに過剰で、足場が崩れたように、俺はフラついてその場に膝をついた。
久安明 代表 九院 能代
九院能代と同じ名前を持ち、九院能代と同じ人生を辿った俺。それを成したのは紛れもなく結木真希奈である。
『五歳のきみは、果たしてきみなのか?』
あのとき須田が言った言葉の意味をようやく理解した。
少なくとも十四歳までの俺は九院能代であることを望まれ、九院能代であるように育てられた存在だったと考えて間違いないだろう。それは即ち五歳の俺は結木能代としての自我を僅かにしか持ち合わせていない、完全に結木能代だと断言出来ない不明瞭な存在であったということになる。
俺は急いで途草に電話を掛けさせた。須田の元へ。
数回コール音が鳴ってから奴は出てきた。まだ寝起きのような声だったが俺は構わず捲し立てるように話し出した。その態度に状況を察した須田は「見たんだね」と静かに言い、自らに投げかけられる俺の自問に耳を傾ける。
「俺は九院能代になることを望まれていたのか? 結木真希奈は九院能代と共に久安明を発足した段階で俺をそのように育てようと決めていたのか? そうするように仕向けたのは九院能代か、それとも結木真希奈自身か? 九院能代がいるから結木真希奈はおかしくなったんじゃなかったのか?」
お前なら知っているのだろうと問い詰めると須田は落ち着いた声のまま俺を諫めた。
「落ち着けよ。わかるよ、わかる。だって俺も一度通った道だからね」
「どういうことだ」
「俺もね、一度自分の人生が狂った原因を調べたんだ。主に親のことをね。元から久安明には詳しかったから能代くんほど手間取らなかったけど」
そして須田は追い詰めるように、責めるように、だけど哀れむように言った。
「ねぇ能代くん、他のことはどうか知らないがさっきの質問の内の一つはきみだってもう答えに気がついているんだろう?」
分かっているさ、決まっているだろう。けれど自分でそれを認められないからお前に聞いているって、それすらも理解した上で、尚もそんなことを聞くのか。
「いつまで〝久安明や九院と関わったから結木真希奈がおかしくなった〟という考えを捨てないんだ? それとも現実から目を逸らしているの? もう一度言うよ。きみは気がついているんだろう? 逆だって。〝結木真希奈がいるから久安明が出来た〟って〝本来おかしいのは結木真希奈の方〟だって」
名簿と設立時の写真を見たときにはもう分かっていた。やはりそうなのか。久安明を作ったのは九院能代ではない。結木真希奈だ。輪廻転生はないという価値観や理念も十歳の頃から彼女の中に巣くっていたものを利用しただけに過ぎず、久安明という組織を設立した理由も『九院の母親が宗教まがいの組織に執心していたから』だ。自分で設立した場所の代表に九院を指名し、自分は一所属者に収まる。彼女の性質上、既存の組織に属するよりもそれが一番やりやすい方法だったのだろう。
「能代くん、まだだ、まだ正解じゃないよ。もう少し。ほらよく考えて、結木真希奈は何故死んだ?」
「まだなのか、九院能代と同じ人生を歩ませるために死んだじゃ、まだ足りないのか」
「まだ、〝結木真希奈は何故結木能代を九院能代にしようとしたのか〟が分かっていないよ。あと少しだ。それを知るために、きみは遺書を手にするんだろう?」
そうだ。遺書を見なければ。
須田はまた「アドバイスをあげる」と囁いた。
「結木真希奈の遺品の中にあるノートを片っ端から見て周りな。そして、これだ、と思うものがあったら死守しなね。それを見て、手元に置く資格がきっときみにはあるはずだから」
それだけ言い残して須田は一方的に通話を切った。それは俺に残された結木真希奈を知る術がもう、遺書とそのノートしかないことを示していた。
いくらはぐらかしたところで、最早伯母は遺書の件を俺に隠し通すことは出来ないであろう。それ程までに俺はこの件に詳しくなっていた。
俺は既にあの遺書の内容で悩むことの出来ない人間になってしまっていた。結局俺は、首を吊った理由も、結木真希奈自身のことも本当に何も知らず、〝何も知らないことさえ知らなかった〟だけの愚か者であっただけだと証明されてしまった。
途草にスマホを返すと奴は俺の顔色を窺うように覗きこんできた。その目は多分に迷いをはらんでいた。結木真希奈のことは理解出来なかったが、コイツのことは幾分か理解出来るようになったらしい。伝えようか伝えまいか言い淀んでいる事柄に見当が付いてしまった。
「九院のことだろう」
途草は肩を揺らして浮かない顔をした。そして俺に一言問いかけた「どこまで自覚していますか?」と。
「お前が何か言わずとも、もう九院の素性には目星が付いている」
「そうですか。実のところ、ぼくは須田さん達に話を窺ったときには既に違和感を抱いていました。ぼくは真希奈さんのことを散々調べたんですよ? 勿論お顔だって拝見していました」
「やはり似てないか?」
「はい。率直に言いましょう、能代さんと真希奈さんはさほど似てないです。故にあなたの顔を見て真っ先に真希奈さんの顔を思い浮かべることはないでしょう。あの時彼らが思い出した人物は……」
「分かっている」
俺はジャケットの裾を翻して外へ出た。他の三人も俺の後ろを追ってくる。
「俺はこのまま伯母の家に行く。ここまで揃えたんだ、遺書の件は易く聞き出せるだろう。お前らはもう帰っていい。手こずらせて悪かった」
「それが能代さんの目的ですものね。いってらっしゃい、健闘を祈ります。事が片付いて、新たな目的を見つけたそのときはぜひまたお呼び下さい。というか呼んでいただかないと困ります、あなたはぼくに借りがあるのだから」
途草は俺に自らの連絡先を手渡すと兄の元へ戻っていった。手渡されたメモに書かれた番号に視線を落とすと、そういえば俺はあいつの連絡先すら知らなかったのだと改めて実感した。
兄と談笑する途草を数秒眺めたあと、俺は足早にその場から離れた。
これでやっと本来の目的を果たせる。九年もの間に積もったこの胸の靄が、これで晴れることを願って、俺は西大井に向けて電車に乗った。