夢と現と
「能代」
俺を呼ぶ声が聞こえる。どこか懐かしい、記憶の片隅に覚えがある落ち着いた声。
この、声は――
「……ろさん……! 能代さん!」
途草の高い声が頭に響く。それを止めるように鬱陶しいという表情で睨みつけると、奴はあれ? と素頓狂な声をあげてきょとんとした表情を浮かべる。そして気を取り直したようにおはようございますと言った。
車の中から外を見ると快晴の青空が広がっていた。時計が示す時刻は朝の七時で、深夜に寝てから四時間も経過していることが分かった。
「随分とうなされていたようでしたので声を掛けたのですが、もしかして不要でしたか?」
寝ている間の俺は辛そうで、起こした方が良いと判断したと途草は申し訳なさそうに弁明した。
「夢見が悪いのはいつものことだ。いちいち気にしなくていい」
そう言いながら俺は腹部に掛かっていたタバコ臭い毛布を畳んで脇に置いた。
「どんな夢を見るんですか? ぼくはあまり夢を見ないので少し興味があります」
途草は遠慮がちにだが確かに興味をはらんだ目をしていた。
「大したことはない。誰かがずっと俺の名前を呼んでくるってだけだ。相手の姿は見えず俺自身の姿もない、ただ永遠と声が降ってくるだけの夢」
「それを頻繁に、ですか。声の主に心当たりなどはありますか?」
「さぁな、聞き覚えはあるが誰の声かもわからない……おい何をしている」
途草は鞄からタブレットを取り出し何かを調べ始めていた。
「夢占いです。――えっと、あった。ネットで調べたところによると、誰かに名前を呼ばれる夢は誰かに必要とされていることの暗示や物事の成功の兆しだそうです。けれど能代さんが不快に思う呼ばれ方だった場合は大切な人とイザコザが起こる前兆なんだとか。うなされていましたし、後者の方が適しているのかもしれません。誰に呼ばれているかでまた結果が変わってくるらしいのですが心当たりはないんですものね。ちなみに呼んでいる方が真希奈さんだった場合はあまり良い夢ではないみたいです。故人から名前を呼ばれる夢は災いの前兆だと記してあります」
俺はすかさず最後に付け加えられた言葉を否定する。
「いや、結木真希奈ではないことは確かだ。なぜならあの人は俺を『能代』とは呼ばない」
「そういえばそうでしたね。夢占いなんてさほど信憑性が高いとも思えませんが先程の結果の良い方であれ悪い方であれ、何かが解決されるたびにうなされるのも徐々にマシになれば良いですね」
途草はタブレットを仕舞い終えるとサイドレバーを跨いで助手席から運転席へ移動し、いつまでも他人の駐車場では話にくいと言いながら車を発進させた。俺が運転する予定だったはずだと意見すれば、寝起きの人に運転させるのは如何かと思いましてとミラー越しに笑いかけてきた。
「資料置き場に着くまでの間にお互いが離れていたときに得た情報のすり合わせをしましょう。ぼくは生世くんから久安明について少しだけ聞きました」
「俺は結木真希奈についてを少し、アドバイスだと言って伝えられた」
途草はアドバイスという言葉を疑問げに復唱して続きを促す。それに応えるため、俺は寝る前に書いた手帳を開いた。
『自殺する者は不幸か』『結木真希奈の自殺を回避する方法はあったのか』『俺が五歳の頃には既に結木真希奈は久安明に関わっていた』
寝て起きて改めてそれらを読み返してもやはり腑に落ちることなどなく、これがアドバイスであるのかと今なお疑問に思う。ただ須田が言ったように本当にこれが歴としたアドバイスであるのならば、全てが結木真希奈の死の真相に関係していると考えるべきだった。
「浮かない顔をしていますね。ひとまずぼくにもそちらの手帳に書かれている内容を教えてください。悩むのはきっとそのあとでも良いはずです」
俺は先に言う二つがアドバイスであると明言されたもので最後の一つは話の流れで判明したものだと説明をして手帳に書かれた三つを読み上げた。
途草は黙ってそれを聞き終えたあと、それでは一つずつ意見を述べ合いましょうと言いながらアクセルを強く踏み込み高速道路の合流に入っていった。
「まず自殺する人間は必ずしも不幸かについてですが、ぼくは一概にそうだとは言えないと思います」
「精神に異常を来たしていない奴でも自分で死ぬということか?」
「いいえ、そうは言っていません。不幸の中で死のうと幸せの中で死のうと自ら死を選ぶ時点でその人の精神やその人が置かれている状況は正常ではありません」
途草はそう言い切った。
「ですが今のは自殺する人間は必ずしも不幸かどうかについてを広範的に考えたときの感想であって真希奈さんの件とはまた別物です。これはぼくが調べた限りの真希奈さんのイメージから考えた所感ですが、真希奈さんからは辛さのようなものはあまり感じられませんでした。なんとなくですが、苦しくて死ぬタイプだとも思えない女性だなと」
確かに当時のことを思い返してみても普段と変わらないように見えたし、実のところ俺の所持している断片的な遺書にさえ『辛かったこと』など一言も書いていなかった。そのようなことは二枚目以降に書いてあると解釈すれば片付く問題ではあるが、俺の知る結木真希奈の性格を考えても、少なくとも今の段階では概ね途草と同意見であった。
「そして回避する方法はあったのか、ですが、これはとても難しい問題ですね。過ぎてしまった今ではそれがあったかなかったかなんて分かるわけがないですし」
その通りだ。過ぎてしまったことなど、どうとでも言える。だが須田はわざわざこの問題を挙げてきた。それは即ち俺達の方向性が間違っていることを暗に指摘してきているようなものであろう。
「最後に能代さんが五歳の頃には既に久安明と真希奈さんの間に繋がりがあったことについてですね。これは結構良い手掛かりなのではないでしょうか。だって九年前に突然おかしくなった説を完全に否定出来ますもの。まぁじわじわおかしくなった可能性も捨てられませんが。――しかしここまで意味深な材料が揃ってしまうと久安明と真希奈さんの自殺が全くの無関係でないことも明らかですし、須田さんがその繋がりを完全に把握していることも明らかですね」
以上がぼくの意見ですが、能代さんはどうお考えですか? と途草は俺に問いかけた。俺の中では須田のアドバイスと途草の意見がじっくり咀嚼され続けていたが、幾度と理解し飲み込もうとしても体がそれを拒んだ。
俺は途草に「これは須田のアドバイスと途草の意見を織り交ぜた継ぎ接ぎだらけの仮説を前提とした疑問だが」と前置きをして話し出す。
「結木真希奈は俺が五つの頃、要するに実際に首を吊る九年前には既に組織に在籍しており、自殺と組織には必ず何かしらの関係が存在し、不安などないが確かに精神に異常を来たしている状態で回避出来ないほどの固い意志の元で首を吊ったということにしよう。だがしかし、それならば何故〝首を吊ることに拘っていた〟? その死に方を選んだ何かしらの理由があることは遺書に明記されていた。久安明とは、充足を感じさせながら浸食するようにひとをおかしくし、縊死を美化するような組織なのか?」
俺は捲し立てるように説いたあと、あまりにもいい加減な話だと自分に向けて呟いた。
「その疑問を解消できるような論をぼくは提供できそうにありません。ですがぼくは今まで以上に真希奈さんに不信感を抱いています、久安明ではなく、真希奈さん自身に。真希奈さんの遺したものから推理した以前の仮説よりも、須田さんのアドバイスを繋ぎ合わせたその一見滅茶苦茶な仮説を信じた方が正解に近い気がしてなりません」
俺は火照った顔を冷やすために僅かに窓を開けた。隙間から入り込んでくる風は酷く冷たかった。
途草は真っ直ぐ車道を見つめたまま、それでは今度はぼくが生世くんから聞いた話をしましょうかと俺を落ち着けるように喋り始めた。
「久安明の現在のトップについて聞いてきました。正確に言えば、現在というより前からずっと一番上のひとらしいですけど」
久安明のトップともなればきっと結木真希奈とも何か接点があるはず。俺は身構えながら話の続きを待つ。
「一番偉い方は
九院
さんという男性だそうです。年齢はおおよそ五十代くらいだと生世くんが仰っていました。生世くんはそのひとのことを信頼しているようで、変な人じゃないよと言っていましたが、聞くところによると須田さんはそれなりに嫌っているようで、本当に普通のひとかどうかは真偽不明です」
「九院? それは苗字か?」
途草は疑問げにそうらしいですよと返事をし、なにか心当たりが? と俺を窺う。
「その名前は少し聞いた覚えがある」
「えっ、真希奈さんからですか?」
「いいや伯母からだ。かなり前に一度や二度程度だが電話口で相手の名を呼ぶような声を聞いたことがある、その名が九院だったはず。話の内容や事の顛末は不明だがあまり穏便な雰囲気ではなかったことは確かだ」
途草は眉を顰めて小さく唸った。
「伯母さんと九院さんの間にも何かしらの関わりがあるんでしょうかね? 電話口で九院さんのお名前を呼んでいたそうですが伯母さんも久安明関係者だという可能性はありませんか」
「それはないと断言しよう。伯母を含め俺の知っている親戚は全員その手の組織や団体を毛嫌いしている。所属していたとは考えられない」
テレビ番組で新興宗教特集が始まったときなんかは気持ち悪いと露骨に嫌悪を示し、自宅に宗教勧誘が訪問した際は目の前で宗教新聞を破り捨てたりする人間ばかりなんだ、その上、世間体もかなり気にする。いくら目に付く問題のない小さな組織でも受け入れるとは考えにくい。
「それでしたらもしかすると九年前の時点で伯母さん達は真希奈さんと久安明の繋がりを知っていたのかもしれません。最初に真希奈さんについて調べたときも身内と仲が良くなかったという情報を得ましたし、真希奈さんと久安明の関係を知っていたために親戚達との間で諍いが起こっていた可能性は高いと思います」
俺だけが久安明の存在を隠されていたということか。
「伯母さんが久安明の存在を知っていた場合、子供の教育に悪影響だと能代さんから遠ざけていたのかも。母親が関わっていた怪しい組織の話なんて無理に子供に話す内容でもないですしね」
途草の言うことには賛同できる部分が多くあった。確かにあの伯母なら教育に悪いと言ってその話をすること自体を避け、出来る限り隠すだろう。だがまだ疑問は残っている。
「なぜ伯母はそんなに久安明に詳しかったのだろう。伯母がその手の存在を毛嫌いしていることは結木真希奈も把握していたはずだから二人の間で話題に上ることもなかったと考えられる。それならなぜ組織のトップの名前なんぞを知っているのか、そしてなぜ電話口でその名が上がるのか。あの様子は紛れもなく〝九院本人〟と通話しているような様子だった」
これには途草も納得いく持論を導き出せなかったらしい。大きな溜め息を吐きながら分かりませんねと呟いている。
「どれもこれもあまりに情報が足りない。やはりまずは資料置き場探索に乗り出すしかないのだろう」
「そうですね。生世くんから資料置き場に関しても少し聞いておきましたが話によると敷地の規模自体はさほど大きくないようなのですが中がかなりごたついているらしく、もしかしたらぼく達二人じゃ一日では足りないかもしれないと言われました。あまり何度も足を運ぶと怪しまれるかもしれませんので出来る限り今日で決着をつけたいです。そこで人手を増やすことを提案します」
「構わないが人手というのはお前の職場の人間か?」
「兄と雑用係を一人、夜のうちに手配しておきましたが差し支えないでしょうか?」
以前会った途草の兄を思い出す。派手な見た目によらず礼儀はしっかりしていたから恐らく変なことはしないであろう。
「お前の兄なら構わないが、もう一人の雑用係というのは得体が知れない者だ。何かあるようならばそっちで対処しろよ」
「はい。雑用係が下手な真似をするようであれば兄弟で力を合わせて締め上げますのでご安心ください!」
程なくして車は海ほたるのパーキングエリアに到着した。
「兄達に連絡してそろそろ資料置き場に向かうように伝えて来ます。ぼくたちも少し休憩したら再出発しましょう」
そう言って途草は望遠鏡の前に並べられたベンチに座り電話をかけ始めた。
途草の通話が終わるのを待つ間、俺は展望デッキに足を運び、東京湾の青に浮かぶ白い漣を眺めていた。それを見つめながら物思いに耽るのは容易かった。
もし、結木真希奈が幸せの中で死ねたのならば、それは喜ばしいことなのか。もし、結木真希奈の死を回避出来たとして、その場合に生じる幸福は首を吊ったとき以上のものに成り得たか。もし、結木真希奈が久安明と関わっていた期間に生じた幸福が俺と過ごしてきた十四年間よりも勝っていた場合、結木真希奈にとって俺とは何だったのだろうか。