平常、一転

「能代」

 俺を呼ぶ声が聞こえる。

 どこか懐かしい、記憶の片隅に覚えがある落ち着いた声に、あぁこれは夢なのだろうと考える。――はて、この声は誰のものだっただろうか。



 夢見の悪さに目を覚ました。枕元に置いてある充電器に繋がれたままのスマートフォンを手に取り電源を入れる。画面に映し出された時間を見るに九月十九日に日付が変わってすぐのようだ。

「……外、雨が降るな」

 窓の外に広がる曇り空を見つめ、夢の内容がぼんやりと薄らいでゆくのを感じながら、僅かに残ったそれさえも忘れてしまおうと必要な物だけを鞄に詰めて家を出た。行くあてなど決めていなかったが、足は自然と路地裏の飲み屋街へ向いていた。

 駅から少し離れ街灯も少ないあたりにある比較的手頃な居酒屋はどうにも馬鹿な大学生の溜り場になっているらしく、そのせいか終電がなくなる頃になると泥酔したクズ共が彷徨いていたり蹲っていたりする。

 黙々とその路地を歩き騒がしい連中も少なくなってきた頃、電信柱の陰で蹲っている女が視界に入った。かろうじて歩けそうにも見えるがかなり酔っているようだ。

 ――こいつでいいか。

「こんばんは、どうしたの、具合悪い?」

 腰を屈めて普段なら絶対に出さない反吐が出るような優しげな声で話しかけると、女はヘラヘラと笑いながら呂律の回っていない滅茶苦茶な言い回しで身の上話を語り出す。彼氏に振られただの終電がなくなっただの、挙句財布をなくしてタクシーも呼べない状態で友人に置いて行かれただの。俺にとってどうでもいい話に「大変だったね」と適当な相槌を打つ。

「この辺りで休めるところを知っているから連れて行こうか? 立てるかな?」

 フラつく酒臭い女に肩を貸して支えてやりながら、このあたりで都合の良い場所はどこだっただろうかと考えを巡らす。そして近隣に随分前に廃れた工場が今も壊されずに残っていることを思い出した。あそこなら人目につかずに辿り着けるだろう。

「それじゃあ、行こうか」



 目的の廃工場について早々、女を連れて階段を登り二階へと上がる。

 道中気を紛らわすために話しかけ続けていたからか、まだ酔いが覚めていないからか、はたまたどうしようもない馬鹿なのか。人気のないところを歩かされた挙句、古くさい工場に連れてこられても女はヘラヘラと笑い続け現状を理解していないようだった。

 階段を上り終え、一つしかない重たい扉のノブを回す。ギィと鉄の擦れる音を立てながら開けた先に女を通して、俺は再びその厚いドアを閉ざした。

「長く歩かせてごめんね。もう座って大丈夫だから」

 申し訳なさそうにそう言って、おそらく冷たいであろうグレーの床に腰を降ろさせた。床は随分と座り心地が悪いだろうに、それでも女はヘラヘラとムカつく笑みを浮かべ続ける。

 そろそろ目的を果たそうとスマホの画面に目をやると時刻はすでに一時を回っており、これ以上時間をかけるのは得策ではないと判断を下す。

 二時には事が片付くように、それでいて満足を得られるのがベストだ。

 床にへたり込む女に背を向け鞄を漁る。ポリエステル製の少しザラついていて手に馴染む、使い慣れた目当てのそれを握り、背中越しに話しかける。

「あのさ、君はもし輪廻転生ってものが存在したら、次は何になりたい?」

 女は、生まれ変わったらってこと? と俺の突拍子もない問いかけに戸惑いながら、もう一度人間になって小さい頃の夢を叶えたいと言った。俺にとってその質問の答えなどどうでも良かったから、「そう」と素っ気なく返事をし、話を続ける。

「まあ、君が来世に何を求めるとか正直どうでもいいんだけど、さっき彼氏に振られて辛いって言ってたでしょ。折角、俺が〝そういう気分〟の時に出会ったんだから、希望溢れる来世に臨むための第一歩をこの手で手伝ってやる」

 声を軽く潜めながらそう告げて、女の肩を掴んでそっと床にくっつけるように押し倒すと服が捲れてほんの少し肌が露わになった腹部に跨がった。

「苦しまずにとはいかないけれど、来世への期待とか抱負とか、そういったことを考えていればきっとすぐだ――その余裕があるかは俺の知ったことではないが」

 細い首に三つ打ちのロープを一巡させ、加減をしながら絞め上げる。

 やっと現状を理解したらしい女は慌てて声を上げようとするが、それを遮るようにロープを引く力を強めると悲鳴は面白いほど簡単に潰れ、女の目から涙が流れ頬を伝い落ちる。

 足をバタつかせて踠き、立てた爪で纏わり付くロープを必死で引っ掻く姿につい笑い声が漏れた。

 ロープを引く力を緩めると女は大きく噎せ返りながら荒く息を切らし、止めどなく溢れる涙と鼻水を気にも留めず、ぶつぶつと譫言のように、許して死にたくないと呟く。

 そうだ、これだ。ロープで首を絞められて命乞いをする女、この状況が堪らなく興奮する。巻きつけられたザラついたロープで首を強く絞め上げられ、今までのうのうと生きてきた中で実感したことのないであろう死に抗おうと踠きながら無様に命乞いをする。その姿は俺にあの日の事を想起させ、そして――

 そしてあの人も本当は生きていたかったのだと、馬鹿な頭に思い込ませることが出来る。

 こんなに気分が高揚するのだからすぐに終わらせてしまうわけにはいかないと、限界に達するまで何度も焦らした。

 それなのに、馬鹿な女は俺の興を醒ますことを平然と言ってのける。

 命乞いを止め、早く殺して、と。

 その台詞は嗜好と合わないどころか、耳に入れた瞬間に自分がやっていることを客観視してしまい快楽よりも嫌悪が勝ってしまう。

 すっかり冷めてしまった俺は汗ばんだ手にロープを握り直す。

「それじゃあアンタはもう死ぬけど、来世はそんなに馬鹿じゃなく、精々良い人生を送れるといいね」

 一言吐き捨てて、数回繰り返した中で一番強く絞め上げた。細い首に食い込むように深くロープが埋まっていく。皮膚には茶色のような赤紫のような、汚い痣が広がっていた。

 十数分ほど、ただロープを引き絞っていた。その間考えていたことといえば、冷蔵庫に入れっぱなしにした昨日の昼飯を食うなり捨てるなりしなければとか、歯磨き粉がそろそろ切れそうだったとか。そんなぼんやりした思考は痙攣が止み筋肉が緩んだ女から発せられた放屁と排泄音によって掻き消される。

 死後硬直が始まる前の柔らかくなった身体から溢れ出た体液を見て、服に付着すると面倒だと汚物の上に寝転がる女の上から退いた。この異臭はいつになっても慣れない。慣れたその時が人間でいられなくなったときかもしれない。

 じきに女から体温は失われ、冷たく固い肉の塊に成り果てた。

 丁寧に束ねたロープを元あった通り鞄の底に仕舞う。鞄に突っ込んだ手に今度はミネラルウォーターを掴むと一口飲み込み、残りを汚物が染み出た女の下半身へぶちまけた。

 空になったペットボトルを片手に出口へ歩を進める。

 扉の一歩手前で立ち止まり、湿ったコンクリートに横たわる死体へ向けて

「さっきの話だけど、輪廻転生なんてものはないよ。ないらしい」

 それだけ告げるとまた歩き出し、廃工場を後にした。

 外はやはり雨が降っていた。当たり前だ、雨の日を狙って実行しているんだから。

 傘でもあれば良かったが生憎俺は小雨ぐらいで長傘を持つのを面倒がり、かと言って折りたたみ傘は嫌いという、そういう人間なものだから、今日もそれを持ち合わせてはいなかった。

 月も見えない暗い空を見上げて、今日もなんてことないつまらない一日を過ごすのだろうと、なんの進展もない現実にほんの少し嫌気がさした。

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