アリス・ロスと思い出の味

 小さな頃、写真を撮られるのがとっても苦手だった。理由は覚えていないけど、たぶんなんだか恥ずかしかったのかもしれない。撮られている姿が不服そうでも、もっとたくさん撮ってもらっておけばよかったと一冊のアルバムに十分収まってしまった写真達を眺めて後悔した。いまさら取り戻せない過去の記録達をこれほど惜しいものだと思える日がくるとは想像もしていなかった。
 
生後数ヶ月頃から一、二歳のものは潤沢だが三歳くらいから歳を重ね大きくなって自我がしっかりしていくごとに写真は年々減っていく。所謂イヤイヤ期というものもあっただろうからわたしが三歳くらいの頃は親もカメラを向けるのが嫌になっちゃうほどの理不尽な反抗をしていたのかもしれない。
 
写真の数はとても少ないのだけれどそのなかにでも記憶に残っている情景はあって、それを見て、ああこんなこともあったなぁと不思議な感傷にひたる。感傷と呼ぶくらいだから、わたしはきっとその思い出達が過去のもので、もうまったく同じ状態では巡り会えないものだということを寂しく思っているのだろう。
 
物思いにふけっていたら遠くからエリオット・ペレスの声が聞こえてきた。きっと今も『たとえばの話』をしているのだろう。彼女は『たとえば』という仮定をよく持ち出す。
 
たとえば、いまから過去に戻って小さなわたしとお話しできたとしたら「どうして写真を撮られたくないの?」って優しさにほんのちょっと責めるようなニュアンスを含めて聞くだろう。そうしたら、あの頃のわたしはなんて答える? なにぶん小さな子だしきっと意地でも写真を撮らせないような子だったところを考慮すると随分頑固者で偏屈なんだろうから、「教えない」と一言で拒絶されてしまったり、もしくは返事もせず無視をきめこまれてしまうんだろうなぁ。
 
……今からでも間に合うかな。たぶん、ここでなにもせずに過ごしたら十年後あたりのわたしはまた「十年前もっと自分の写真をとっておけばよかった」と後悔する。わたしはもう過去の思い出を振り返りながら感傷にひたる味を知ってしまった。その甘くて苦いおいしさを知ってしまった。ならば、わたしが写真を撮るという選択を実行しない理由はないだろう。
 
せっかくなら友人も交えて、思い出らしい、未来のわたしが見たときに格別な味わいを感じられるような写真が撮りたい。

一覧に戻る