沈む星

 シスイは震えた声を絞り出す。彼女を抱きしめたままのワタシの腕も同様に震えていた。

「……ごめんなさい、あの。わたし、わたしが余計なことをしたばっかりに……」

「落ち着いて。どうしてきみがこの場にいるのか理由はわからないけれどここら一帯は監視カメラが多いからその映像からきみがあの女の付き添いをしていて事故の原因を最も知っているだろうことがすぐに警察に知られるはずだ。一つ聞くが、あの女と面識は?」

 問いを受けたシスイは首を横に振る。青白い顔はワタシの一言一言に怯えている様子だ。

「どうして面識のないあの女と一緒にいたんだ? 時間がないから手短に簡潔に話して」

「昨日の夜銀花さんがあの女性に杖で殴られているところを偶然見てしまったんです。以前顔に痣を作ってお店に来たことがあったでしょう? 常習的にそういうことをされているんだと思いました。それでどうにかして銀花さんに暴力を振るうのを止めてもらいたくて……」

「それで直談判でもしようとしたわけか」

 そっと頷いて肯定を示したのを確認してからワタシはシスイに指示を出す。

「まずどうしてあの女と面識のないきみが付き添いをしていたかを不審がられると思う。そうなる前にワタシと話を合わせておこう。上手いことそれらしい理由とともに殺意を完全に否定して事故だったと証明できればいいが……。とにかく今から警察に連絡を入れる。そこから短時間で話をつけよう」

「……はい」

 か細く返事をするシスイの隣でワタシはあまり力の入らない指先で携帯の文字盤を押す。

「ここの踏切は道路に対して斜めに線路が引かれているせいで脱輪しやすいから気をつけて渡らなければいけないんだ。ワタシにあの女の迎えを頼まれたきみはそれを知らずに脱輪させてしまった――そういう設定にしよう。一応聞いておくけどどうして脱輪が起きたんだ?」

「あの女性と口論になりかけたんです。そうしたら突然杖を振りかぶって殴ろうとしてきたから、わたしびっくりして車椅子から手を離してしまって……。車椅子はすごい勢いで坂を下っていったけれど踏切の中くらいでやっとそれを捕まえました。車体が斜めになっていたから真っ直ぐに直そうとして後ろに引いたらガタンって溝に片輪が落ちてしまって……」

「その様子なら故意ではなかったんだね」

「勿論です……! 信じてください……!」

「それなら今からワタシが言う文言を完璧じゃなくてもいいから覚えて。『電動車椅子だから介助はそこまで必要なかったようだが以前から踏切前の下り坂が怖いと言っていたため帰りだけパチンコ店から迎えをしていた。いつもはあの女の知り合いの雪野銀花がその役を請け負っていたが今日は急用が出来てしまったから代わりに友人のシスイが申し出た。坂を下っている途中で女性と口論になりかけ杖を振りかざされ驚いて咄嗟に手を離した』――ここからはシスイが知っている通りに説明すればきっと大丈夫だ。坂の付近にも踏切にも監視カメラがある。供述と映像が合致していれば事情聴取から解放されるのも早くなるはずだ」

 そこまで伝えたところで遠くから特徴的なサイレンが耳に届く。駅員も様子を見にやってきてワタシ達の側で警察の到着を待っている。

 到着した数台のパトカーにワタシとシスイは別々に乗せられる。ワタシはシスイが上手く言い訳しきることを願いながら車内に乗り込み聞かれたこと以上口を滑らせないよう意識しながらシスイやあの女との関係をシスイの調書と食い違いが出ないよう慎重に言葉を選びながら話した。

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 日付が変わったころ先に車内での事情聴取を終えたワタシはシスイのことを気にかけながら自宅へ帰った。第一発見者かつ被害者に同伴していた人物だということもあり彼女の聴取はもう少し長引くようだ。

 これからどうしようと考えて、ふと自らの思考に疑問を抱く。

 どうするもなにも、あの女が死んだことで最も重い枷が外れたようなもの。もう早々に金を使い切ることに躍起になることもない。あの女がワタシの死後ワタシの全財産を継ぐだろう母に金を無心することもなければ、あの女が今まで以上に親戚達へ迷惑をかけることもない。願ったり叶ったりじゃないか。

 そうか、もうワタシは金のことを気にしなくていいのか……。電車との接触事故の賠償金はそもそもあの女と血のつながりもなく養子縁組もしていないワタシには無関係だし、最後の最後で金を食い潰される心配もせずに済む。これは本当に縁が切れたと判断しても良いだろう。

 喜ばしいことなのに、なぜだかあれだけ望んでいた現実を前に心が虚無に包まれている。

 ……残りのお金、どうしよう。

 父の贖いを受けその罪を許すために金を使うことが正しいと思って、それを成すために邪魔なあの女を疎ましく感じていた。ワタシが父を許すために用意された金をあの女に食い潰されてたまるかと意地のような思いを抱き、足掻きながら自分が最低限満足できる金の使い方を想像し、その通りに使っていた。けれど突然その恨み疎む対象が消えてしまうとどこに感情の矛先を向けて良いかわからなくなる。あの女が生きていたときは急いで金を使わなければと着もしない服を買ってみたりキャバクラに通ってみたりしたが今はその時間制限が取っ払われてしまった。制限がない状態ではなにをしていいのかわからない。指標がないとなにも行動を起こせない。ワタシ自身がワタシのしたいことを理解しきれていない。

 自分のために金を使って父を許すって言ったって、欲しいものなんてもうほとんど手元にあるし、これから死ぬ人間が新しくなにかを買ったところで金の無駄も甚だしい。

 わたしはもしかしたら生きる言い訳のためにあの女や父の犯した罪を利用していたに過ぎなかったのではないか? 父を許すと息巻いていたが自分がより長く生きられる適当な理由付けがほしかっただけではないか? 本当は罰すべき不倫をした父を許すことなんてどうでもよくて、ただ自分の手元に舞い込んできた多額の遺産をもう一人の悪たるあの女に渡したくなかっただけなんじゃないか? 許す許さない以前に、ワタシはそもそもそれほど彼らに憤ってはいなかったのではないか? 

 ずっとずっとワタシが死にたいのはあの女がいるせいだと思っていた。あの女が父をたぶらかして不倫して、母を人殺しにして、ワタシに面倒ばかり寄越すから、だから死にたいんだって思っていた。全部全部あの女が悪くて、あの女がいなくなればワタシはいろんな事を許せて、父のことも母のことも親戚のことも自分のことも折り合いをつけられると思ってた。

 だけど違った。

 だってあの女が死んだ今でもワタシは死にたいもの。

 混乱している間はなにがなんだかさっぱりわからなかったが現実を認めるとワタシは案外すんなり次の行動に移れる人間のようで、もうだれも使うことのないあの女の部屋へ行きありったけの筋弛緩剤をいちいち数なんて数えず、ただひたすら作業のように飲み干した。

 今ワタシがするべきことは父を許すことでもあの女を許すことでも、ましてや人類を許すことでもない。早急にこの生を終わらせることだ。

 先程まで使っていたショルダーバッグの中から一枚、笑顔を浮かべた二人の女が写ったフィルムだけを片手に持つと家を出た。

 行き先は決まっていた。海だ。

 本来ワタシは十五歳の冬に海で死ぬ予定の人間だったのだ。けれど手違いで死に損なってしまった。ワタシが今までの生を清算するには海で死ぬしかない。

 真夜中の空気は生温くて、冷や汗をかいたワタシの肌をじっとりと包みこむ。

 天王洲ふれあい橋までの徒歩十分の間に徐々に効きはじめた薬のせいで足の下の方が軽く感じる。地を踏みしめる感覚を意識して立たないと宙へ浮いてしまいそうな感覚に陥る。

 ふらつく足取りでワタシは橋の真ん中の一番高いところにまで行くと縁石と平行に棒が縦に並んだ柵の一番下に足をかける。そのまま一段二段と慎重に上って、四段目の棒に足をかけると残りの段を残して柵の向こう側へ身を移した。風がパーカーの裾を大きくなびかせる。

 足下から奥に向かって真っ暗な闇が広がる。暗すぎて水面との距離が測れないが下手な落ち方が出来ればどこかの骨の一本でも折れてそのまま沈んでいけるだろう。

 ワタシは以前シスイと天王洲アイルに来たときのことを思い出す。そのとき彼女から強引にされた約束をワタシは今から破る。

 片手で柵を握り、もう片手で持った写真を胸に抱く。

「約束、全然守れなくてごめん」

 小さくけれどはっきりと呟いて、流星を眺めたあの日みたいに背中から倒れるように落ちた。目を見開いて見上げた先には真っ暗な空と灰色の雲しか見えなくて、とても寂しかった。



 小さな頃飛び込みをしたときはバシャンなんてかわいげのある音が鳴った気がしたけれど今日は違った。ドンッという鈍い衝撃音と噴き上がった水が落ちて水面に打ち付けられる音が鼓膜がおかしくなるんじゃないかと思うほど大きく聞こえた。

 あぁ、痛い。痛い。背中か腰の骨にひびが入ったかもしくは折れたらしい。これは最高に運が良い。そのまま三半規管もやられてくれれば無事に入水自殺成功だ。

 最初は冷たくて痛かった水温も水中にいる間にじきにぬるくて心地良い温度になる。コポコポと水泡が上昇していく快音に落ち着くのはなぜだろう。羊水の中を思い出すからかな。おかしな話だ。そんな記憶一切ないのに。

 もう右も左も上も下もわからない。どこもかしこも、目を開けても閉じても真っ暗で、なんだかすべてがどうでもよくなる。こんなとき星の明かりでも見られたらよかったんだけど。宙を見ようとも今はどこが空かもわからない。

 シスイはワタシのことを『ひまわりみたい』だなんて言ったけれどやっぱり違うよ。わたしはあんなにきれいな存在じゃない。山吹色に輝く一面の光でも、絶対の肯定でも、霞まないものでもない。きみや晩秋に咲いたひまわりのように生きることに執着もしていない。

 それじゃあ、わたしは……なんだろうなぁ……。なにかの手助けがないと輝けなくて存在すら認知されない、だれの目にも届かない星屑とかかな。

 わたしがあのひまわりのように輝いていたとシスイに錯覚させられたのはきっと、きみが隣にいて光らせてくれていたからなんだろう。ごめんね。そんな勘違いをさせて。

 最後の酸素を吐き出して、代わりに塩辛くてへんな味がする海水を飲み込む。気管も食道も関係なしに入り込んだそれが苦しくてむせたけれど、だんだんと意識が朦朧としてきて一つのことしか考えられなくなる。

 目を閉じて最後に見えた景色は、ひまわりを抱きながら夕陽を背負ってこちらへ微笑むあの子の姿だった。 

 どうして……ワタシの最後を締めくくるひとがきみなんだろうなぁ。

 眩しいのにぼやけることのない、不思議な鮮明さの幻を見ながらワタシは沈む。

 ――シスイは、これからもずっと、あのひまわりのような笑顔で笑って生きてくれるかな。

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