死ぬために──生きるために──
『生きるために死ぬのか、死ぬために生きるのか、自分はどちらだろうか?』
この問題で真剣に悩んじゃうような人間は頭の使い方が極めて下手でなにをしても悪手をとるような無能。死にたい死にたいって言いながら明日生きるための準備をして、そのうえ一日が終わるころになって『今日も死ねなかった』と死に損なった原因と今まで身に起こった不幸を思い起こし、人生の間で何度もあった死ねたであろう瞬間を悔やみながらまた明日代わり映えのしない生の浪費をするために眠りにつく。
ワタシはそんな人生を送っている自覚がある。
生きるために死ぬのも死ぬために生きるのもどちらも似たようなもので、長く続く未来から目を背け俯いたまま時間を浪費する行為であることに変わりはない。
生きる上でワタシ達は後退が選べないようにできている。厳密に言えば時間を巻き戻すという選択ができない。これは決められたことであり平等なことである。
立ち止まるか進むかしかできない道で進む選択をし実行することを成長と呼ぶが、『生きるために死ぬ』『死ぬために生きる』この二つの選択しか頭に浮かばず、そのどちらを選ぶかで悩んでいるようなやつは精神の成長が止まったまま体だけが大きくなっている状態だろう。
悩むという成長の足がかりになる行為に踏み入っておきながらたった二択の選択で脳を占め、それでいて最も重要な?決定?を避けながら時だけが進み続けているかわいそうな個体。
そんな?かわいそうな個体のワタシ?が決定を避けながら『生きるために死ぬ』か『死ぬために生きるか』を考えた結果はそれに悩んだ時間がすべて水泡に帰すような内容だった。
第一に、それらを考えるにあたって指標を定めた。ワタシは死ぬために生きることを『死ぬ日を決め、その日が訪れたときに死ぬ予定の日付を更新するのを繰り返す行為』のこと、生きるために死ぬことを『死んだあと、なにかの拍子に自らが遺したものが特定のだれか、ないしは大勢の世間様から評価されるのを期待しながら死ぬ行為』とした。これら以外の定義も勿論あるだろうがそれを考慮し出すと収集がつかなくなるので今はひとまずこうする。
まず死ぬために生きることは無駄。明日死のう、明後日死のう、などと予定を立てたところでそれほどその日一日を生きる活力にはならない。死という目標はさほど効力を持ってはいない。それが常習的に繰り返されているのならなおさら『自分はいつ死ぬんだ?』と死ぬことでしか解消できない疑問を抱えるだけだろう。
変えようのない重要ななにかから目を逸らすことは子供のまま大人になる愚行を助ける。
死にたいのならば自分にとって都合の良い苦しみの少ない安楽な死や死んだ後の扱いなんてこだわりは捨てるべき。死ぬために必要なのは確実性のみ。そう頭で理解していながらそれら無意味な思考に囚われていつまでものうのうと死ぬことを考えながら生きているワタシは無駄の権化であろう。
そして生きるために死ぬ人間は自分の死を過大評価しすぎているうえに他人に期待しすぎている。ただの人間が世に遺せるものなんてたかが知れているのに、死んだら生きている間に遺したなにかが価値のあるものとしてやっとそれなりの評価をされるものだと思い込んでいる。なに一つ積み上げてこなかった、ただ少々生きただけの人間にそんな高評価は舞い込んでこない。遺書なんて遺したところでそんなものは生きている側にそれを尊重する意思がなければ意味がない。生涯かけて発揮できなかった膨大な運をそこにつぎ込むでもしないかぎりは無理な話だ。
それでもワタシは心のどこかで、だれかの、そしてワタシの利益になる死んだあとの将来を望んでしまっていた。
なにを遺そうだとか死後どのような評価をされたいなどという夢想を描く余裕があるくせに死にたいなんて抜かすからきっとワタシは悪運に好かれるのだろう。
死んでもなお遺したいものはどんなに遺言として大々的に謳っていてもその通りになるようにするのは難しい。ただし?遺したくないもの?であればすべてとは言えずとも意識すれば生きている内にある程度なら始末しておけるだろう。ワタシにとってそれは唯一『父から相続した多額の遺産』のみ。この問題さえ片付いてしまえばなんら苦労はないのだが……。
父からワタシへの賠償金をあの女の好きにはさせたくない。賠償とはひとに与えた損害を贖うためにある。そして贖いとはだれかにその罪を許されるためにある。
父がワタシに与えた損害への贖罪として遺産を寄越したのであれば、それをワタシが受けて、ワタシが満足する使い方をしなければならない。そうでなければワタシは心の底から父に「もう大丈夫だよ。許したよ」と言えない。ワタシからのその一言がもらえない以上父は死んでもなお永遠に恨まれ続けなければいけないじゃないか。ワタシが父を許したという証明のためにもワタシ自身のために金を使う。ワタシは幸福を得たいわけではない。ただ許す理由を買いたいんだ。それくらいでしか、ワタシは彼の罪を水に流せそうもないから。
ワタシは結局のところまだ憎いものすべてを許せそうにないから生きているのだな。そのことに『生きるために死ぬ』のも『死ぬために生きる』のも関係ない。ワタシはただたくさんのものを許したいだけなのだ。それに気づくまでに二十二年と数ヶ月を費やしてしまった。
ワタシが死ぬそのときはいろんな罪を許せますように。
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二〇〇六年七月五日。今日もとくになにもせず、ただ意味のない一日を過ごしていた。
シスイに会いに行かなくなってから一ヶ月が経過していた。彼女のことだ、ワタシがいなくてもきっと上手くやれているだろうし今までワタシから稼い金で当面の間は問題なく生活できるだろう。
携帯電話が二二時のアラームを鳴らす。あの女を迎えに行く準備をはじめなければ。
女は日中ほとんど毎日リハビリやマッサージなど身体のメンテナンスのために外出している。そして夕方頃すべての予定を終えてからパチンコ店へ向かう。行きは介護タクシーで店の近所まで送ってもらうようにしているが帰りはパチンコの勝ち負け次第で持ち金が足りなくて乗れなかったり、勝ったとしても儲けをタクシー代に費やすのが惜しくて利用しなかったりすることが多かった。
ワタシと女が住んでいる家とパチンコ店の間には長く勾配の急な坂道と電車の往来が多い踏切がある。女が常用している電動車椅子は坂道に強い作りになっているがそれでも長く急勾配の下り坂は怖いらしくワタシの介護なしで一人で帰宅することは一度もなかった。
丁度坂を下ったあたりにある踏切も特殊な作りをしていて、道路と線路が斜めに交差しており車椅子の前輪のような小さく細い車輪は脱輪しやすく女はそのことも気にしていた。
パチンコ店についたワタシはひとまず以前大当たりが出ていた台を見に行く。案の定女はその台の前に座っていた。ドル箱の数を見るに、それなりに当たりを出しているようだ。
ワタシは女の方に歩み寄ると大きめの声で迎えに来たことを伝える。それなりの勝率だったことに気を良くしているのか、女はすんなりと帰り支度をはじめた。
「今日は沢山確変が出てねぇ。小さな当たりも多かったし」
「………………」
帰り道も女の機嫌は良いままだった。それはワタシにとって楽なことであるはずなのに、この女が楽しそうなことが気に入らなくて、日頃の仕返しのように無視をきめ込んでいた。
坂を下って踏切を越えたころ、やっと女はワタシの機嫌に言及した。
「銀花ちゃん、今日は機嫌が悪いのね」
「いつもこんなだよ」
「嘘よ。今日は?あの日?の晩のあなたのお母さんみたい」
「あの日って――」
「すっとぼけないでよ。私が言うあの日なんて?銀花ちゃんのお母さんが銀花ちゃんのお父さんを殺して私の足をダメにしたあの日?に決まっているじゃない」
車椅子を押すワタシの足が止まる。
「銀花ちゃんのお母さんが機関部に細工なんてしなければだれも不幸にならなかったのにね」
「足が動かなくなったのは母にも非はあるが元を辿れば不倫したアンタ達の自業自得でしょ」
冷たく言い放ったワタシの一言で一瞬にして女の頭には血が上ったらしい。高く振り上げた杖をワタシに向けて振り下ろす。
顔に衝撃が襲う。今日は額に当たった。ズキズキと刺さるような痛みが額に満ちるがここのところ頻繁に杖で殴られているものだからこの程度の痛みにはもう慣れてしまった。
その後も何度も振り下ろされる杖から腕で身を守る。女の気が済むまでそうしていようと思ったところ、存外早く女は喚くのをやめ、杖を振るう手を下ろした。
「……銀花ちゃんだって、船の事件のときにお母さんに殺されていたか雪野さんの家から飛び出して崖から落ちたときにそのまま死ねていればよかったのにね」
女の目に浮かぶ哀れみに晒され、ワタシは心の中でまったくその通りだと自嘲した。
ワタシの過ごした二十二年と数ヶ月の人生の中で死ねたタイミングは二度あった。
一度目は母が起こした船の爆破事件、二度目はたくさんの流星を見たあの日。
十五歳の冬に母が起こした船の事件の引き金は父と当時ハウスキーパーだった女の不倫が原因だった。それを当時まだ幼かったワタシが母にチクったのだ。「お父さんとお手伝いさんが付き合ってるみたい」って。母もそのことにすでに気がついていたようだったがワタシが彼らの罪に気がついてしまったことがとてもショックだったらしく、その告げ口を聞いた母は涙を浮かべながらワタシに謝罪した。その姿は今でも鮮明に思い出せるほど痛々しかった。
その晩、母はらしくもない様子で船庫にこもった。普段おとなしくおしとやかな母が明日船を出すためのメンテナンスをするという父と怒鳴り合いの大喧嘩をしてまでだれも船に近づけようとはしなかった。特にワタシには「明日お父さんが帰ってくるまで船に近付いてはダメよ」ときつく言い聞かせた。
その言いつけをワタシは早々に破る。
翌日父はあの女と二人で船に乗ると聞きつけたワタシはどうにかして二人の間を邪魔してやろうと思った。罪を犯した父へ向けた反抗期の娘からの罰のつもりだった。
船に忍びこみ、逢瀬を阻害しようと機をうかがった。無論母にはなにも伝えていなかった。
それから沖へ向けて出向してからの展開の八割は母の思い描いた通りだっただろう。
沖に出た船の機関部が爆発し潤滑油に引火。父は火だるまになり死に、女は崩れた瓦礫に足を潰され身動きが取れなくなる。黒煙と炎が噴き上がる船上で父が死に不倫相手の女もじきに死ぬ状況はおおよそ母の計画通りだったはずだ。
だが残り二割の失態をワタシが起こす。
母の作戦に唯一組み込まれていなかったワタシが無事かつ自由に動ける状態で生きていた。そして助けてと懇願する女を放っておけず、船が完全に炎に飲まれるギリギリまで居残ってあの女を助けてしまった。父とその不倫相手を殺すための犯行をワタシが潰した。
ワタシのせいで母はただ父を殺して不倫相手に怪我をさせただけの女になってしまった。
出来ることならワタシは、例えそれがいけないことだったとしても、母にちゃんと二人を殺させてあげなければならなかった。自分もその場で死ぬ結果になっていたとしても。
後はどうということはない。足が痛いと泣く女を抱えて海を漂って、偶然停まっていた漁船に助けを求めて拾われて……。ワタシ達が陸に戻ってから母が捕まるまでもあっけなかった。
あのときワタシがダイバー講習で受けた水難事故に関する事前知識やライフジャケットの着用など万全の準備なしに海へ出ていたり、偶然沖に出ていた漁船に見つけられずいつまでも海を漂っていたら溺死ないしは低体温症でじきにあの女諸共死ねていただろう。
あの日乗船した全員が死んだ方が幸せになれるひとの数が多かったのに、ワタシのせいで。
二度目は十五歳の春だった。父が死に母が捕まったのち雪野という親戚に引き取られたワタシは高校に進学したのを機に一人暮らしをするように言われる。原因はなんとなくわかっていた。ワタシがいると車椅子に乗ったあの女が親戚の家を訪れて玄関先でもっと慰謝料をよこせと喚くからだ。伯母さんが「書類上の保証人にはなるからお父さんの遺産で生きてちょうだい。あの女をうちに近づけないで」って泣くくらい酷い有様だったのをワタシもこの目で見ていたから、同情や哀れみを抱きながらそれに了承した。そのときにはもうすでに死ぬつもりでいたから、その程度の許可を出すのはどうってことなかった。
その日の晩、ワタシは仮住まいしていた家から飛び出し親戚が所有している山に登った。山のどこかから飛び降りて死ぬつもりだった。
死ねる場所を探していたワタシは山中を歩き回った。そして見つけた崖は飛び降り自殺にはうってつけな、いかにも過去に死者を出していそうな雰囲気を醸し出していた。
ワタシは崖に背を向けて、そのまま後ろに倒れるように落ちた。体が地面に着地したとき、言い表せないくらいすごい音が鳴って、足や背中が熱を持って異常に痛くなる。息が全然吸えなくて、やっと空気を吸えても肺に空気がたまるのが痛くて何度もむせたり、どこの骨が折れたのかわからないくらいどこを動かしても痛くて、骨がきしむたびに顔をゆがめた。
けれど死ぬことはできなかった。骨がどんなに折れても、頭から血が出ても死ねなかった。
仰向けのまま空を見上げれば現在地は先程いた場所のすぐ下であることがわかった。死角に一つ段差があったらしく、落ちたといってもせいぜい四階か五階程度の高さだったのだろう。死ぬには少し足りなかった段差を恨めしく睨みつける。
もう一度、今度はこの段差から下に落ちれば死ねるかもしれない。立てないけれど、転がってなら落ちられるかもしれない。そう思い体を捻ろうとすると、落ちたときとはまた違う刺すような激痛が身を苛む。ワタシは荒い息を吐きながら自力で動くことを諦めた。
苦痛と同時に襲いくるいつまでも続く時間に耐えられなくなってきた頃、一筋流れ星が降った。ワタシは幸せになりたいだとか現状を変えたいだなんて発想に至らなくて、けれど脳が勝手に、流れ星を見たら願い事をしなければいけないと言いつけられているみたいに無意識に「今見た星が偽物や幻ではなく本当にあったものでありますように」って願ってしまっていた。
そうしたらみるみる星が流れていって、でも体中が痛くてそれどころではなくて、ワタシはやっとの思いで優先順位の一番上にあるどうしても叶えたい二つの願い事を伝える。
『今この場で死ねますように』
『ワタシのかわりに今年もまたあのひまわりが咲きますように』
結局どちらの願いも叶わず、ワタシは親戚が呼んだ救助隊に救出されてしまったうえ、数ヶ月後にひまわりは群れごと全滅。随分と最低な星に願ってしまったと思う。
やはりワタシは死ぬべきだ。それも今まで失敗した分を贖うために目一杯苦しんで。
そうでなければだれも、ワタシが今まで生きてしまったことを許してはくれない。
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翌朝八時に午前のリハビリに向かう女をマンションのエントランスまで送り「今日は閉店までパチンコを打つ予定だから二十二時くらいに家を出て迎えにきて」と伝えられ了承する。
それからなにをするでもなく惰眠を貪ったが幾度となく夢に出てくるシスイの姿を意識から消すことができず、夕方五時半ごろに体を起こした。夢の内容がおぼろげになるのを感じながら、ワタシは忘れたいはずのシスイのことばかり考えしまう。
少し風に当たりたくてバルコニーへ出た。目下に広がる運河は以前天王洲アイルで彼女と見たものと同じ。あの日と変わらず穏やかに流れる潮風は一層シスイのことを思い起こさせる。もう会うことのないシスイという一人の人間の存在がワタシの中で大きくなりすぎている事実から目を逸らすことはできなかった。
ワタシは薄手の半袖パーカーを羽織り鞄を持つと外に出た。エレベーターで十一階から一階へ降りる僅かな時間さえシスイと過ごした六月一日のことを思い出すことに割いた。
自宅から徒歩十分程度の場所に天王洲アイルはある。港南公園D面付近にある遊歩道と天王洲アイルを繋ぐ天王洲ふれあい橋はあの日シスイと一緒に写真を撮った場所だ。
橋の真ん中あたりで立ち止まって運河を見下ろした。七月に入って日が延びたのもあり上空はまだ明るく、あの日写真を撮ったときと違って周囲の景色はよく見えた。
ふと、偶然あの日と同じショルダーバッグを持ってきていることに気がついた。勿論カメラを入れたままにはしていなかったがフィルムは出し忘れてしまっていたらしい。それほど明るくない街灯の側、暗い橋の上で撮られた写真が入ったままになっていた。写りが良いとはお世辞にも言えないできあがりだったが薄いフィルムに写る二人の女は笑顔であった。
この写真を撮ったとき、シスイは幸せだったかな? 対面した人間の感情を読み取ることはできても写真の中の人物のそれを読み取ることはワタシにはできない。
シスイがどうかはわからないが少なくともワタシは不幸ではなかった。もしかしたらあのときのワタシは少しくらい幸せだったのかもしれない。今のワタシにはなにが幸せかなんて判断は難しいけれど、そうだったならそれは喜ばしいことなのだろうか?
雪野銀花が幸せであったという事実など存在してはいけないのだろうに、ワタシはそれでも自分が幸せだったかを考えてしまう。なんて往生際が悪いんだ。
ワタシは踵を返して来た道を戻っていく。これ以上天王洲アイルにいるとなにもしていないとき以上にシスイのことを考えてしまう。脳に浮かぶあの晩秋に咲いたひまわりみたいな笑顔を振り払うように頭を振って自宅へ向かうワタシの足取りは名残惜しげだった。
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朝言われたとおり二十二時に改めて家を出た。外はもう真っ暗で街灯の明かりが目立つ。
パチンコ店の中は相変わらずしかめた面をどうにかする気にもなれない程の喧噪で溢れかえっている。その轟音を浴びながら椅子と椅子の間を通って目当ての車椅子を探す。
だが一向に見つからない。この店にも他階やエレベーターはあるが今まで何年も一階フロアしか利用していなかったあの女がいきなり別の階を利用するとは思えない。
ワタシは受付へ向かい顔見知りの女性スタッフに「いつもの車椅子の女はどの席にいる?」と声をかけた。スタッフはきょとんとした笑顔のまま返答した。
「先程……五分前くらいですかね。三つ編みの女性が付き添われて出て行きましたよ」
三つ編みの女? 介護タクシーを呼ぶならいつも事前に連絡を入れるように言っているし、それを破ったことは一度もない。偶然携帯の充電が切れていて連絡できなかった可能性もあるが、それにしても胸騒ぎがする。店を出て間もないということはまだそう遠くには行っていないはず。走りながら探せば追いつけるかもしれない。
ワタシは店員に短く礼を言って店外へ飛び出した。
車通りの多い大通りを抜け商店街の前を横切りいつもの下り坂の手前まで来たがそれでも女は見つからない。ワタシは坂の上から目の前の暗闇を見つめる。マンションや街灯で照らされている闇夜はいやに輝いていて一層ワタシの焦りを駆り立てる。
そのとき不意に近くであの女の喚き声が聞こえた気がした。声の発生源はそう遠くない。
ワタシはおもむろに坂を下り出す。そうすると徐々に女の声も鮮明に聞き取れるようになってきた。
坂を半ばまで下ったあたりでとうとうワタシは女の姿を見つける。腰かけたままの彼女の上体が斜めになっているのはきっと車椅子の片輪が脱輪を起こしてしまっているせいだ。
その側で車椅子のハンドルを握ったまま立ち往生している女性の姿にも見覚えがある。
あれはシスイだ。いつもの華やかなドレスとは違う、シンプルな恰好をしているがあの子はシスイで間違いない。――けれどどうしてシスイが?
浮かんだ疑問は遠くに見える車両の存在にかき消される。
彼女は鳴り響く踏切の警笛の中で必死に足掻いているが電車は止まることなく迫ってきている。シスイ達と車両との距離がみるみる狭まっていく。
脱輪から抜け出せないままの状況にシスイは完全にパニックを起こしてしまっている様子で、女が座ったままの車椅子を必死に持ち上げようとしている。だがただでさえ電動車椅子だけでも重いのに、加えて五十キロ以上もある人間が乗ったままで持ち上がるわけもなく、ただ電車が近付くばかり。
駄目だ……あの距離じゃ緊急停止ボタンを押したところでブレーキが間に合わないだろう。このままでは二人諸共死んでしまう。
ワタシは駆け出した。ただ一人の人間を救うことのみを考え数メートルの距離を全力疾走して、坂を下り終えると遮断機をくぐり抜け彼女の腰を抱き後ろへ飛び退いた。
二人してアスファルトの上に倒れ込んだ。半袖から覗く二の腕が道路のざらつきで擦れる。
途端響く衝撃音。車椅子の一部だったものが線路の向こう側へ吹っ飛んでいく。あの女の姿はわからない。けれどきっと、あの車椅子のように……。
甲高いブレーキ音が鳴り響く中、ワタシは喉が渇くのを感じながら呟いた。
「なにしてるんだ……シスイ……」
シスイはただ呆然とした様子でワタシを見つめ返した。