同伴
二〇〇六年六月一日、晴。最高気温二八・七度なだけあってもうすっかり夏の陽気と言える。日が暮れて気温も落ち着いてきたがそれでも少し暑い方だ。
天王洲アイル駅のトイレの鏡で自分の顔を確認する。あの女にやられた顔の痣は目立たない程度には治ったが完全に消えてはいない。けれどガーゼで隠したりなんてしたらシスイのことだ、きっとワタシにいらぬ心配を寄せたり以前の意地悪を思い出して嫌な気持ちになってしまうだろう。そんなことはあってはならない。
不意に鳴った携帯の着信音に思考は中断させられる。初期設定から変更されていないその音源の元を取り出し蓋に設置されたサブディスプレイに流れる名を確認した。登録名には馴染みのある三文字のカタカナが表示されていた。
「もしもし?」
『もしもしシスイです。今電車を降りて中央口の改札に向かっているところです』
「あぁわかった。わたしも今から改札に向かう。それじゃ」
通話を切るとワタシはもう一度鏡で頬の痣を見た。僅かに薄い黄色に変色した皮膚に触れるとほんの少しだけ痛みを感じる。
位置的に髪で隠すのは無理か……。
言及されるまでは知らないふりを突き通そうと決め、ワタシは中央口へ急いだ。
改札を出てシスイの姿を探す。頭を動かしてあたりを見回すとこちらに駆けてくる人影に気がついた。
「銀花さんこんばんは」
先にワタシを見つけたシスイは白いワンピースの裾をひらひらさせなら軽い足取りでこちらへやってくると照れくさそうに笑った。その照れ笑いの元はきっと今彼女が召している洋服だろう。薄手の白いマキシ丈ワンピースは駅構内に流れる涼やかなそよ風に吹かれて揺れている。
「その服、着てくれたんだね」
「流石に気がつきますよね。銀花さんとお出かけできる折角の機会に恵まれたので頂いたお洋服を必ず着てこようと心に決めていました! ひまわりの指輪も一緒です」
彼女の左手の薬指には少し時期の早い真夏の花が静かに鎮座している。
「気に入ってくれているようでなによりだよ。似合っているね」
「えへへ! ありがとうございます」
シスイは身につけている服を見下ろしてから改めてワタシを見ると無邪気に笑った。
思えば誰かになにかを贈ったりそれを身につけてもらったり、そのうえ嬉しげに礼を言われるなんてこと随分と久しぶりに感じた。今までの意地悪のちょっとした詫びのつもりだったが、そういった好意的な反応が返ってくること自体は気分が良いと言えた。
そろそろ行こうかと声をかけワタシは歩き出す。
「今日はどちらへ?」隣を歩くシスイは心が弾むのを抑えられない様子で聞いた。
「海を見ながら天王洲アイル内をちょっと散歩して雑貨屋とかを巡ってから食事をしようと思っている。一応聞くけれど食べ物の好き嫌いとか今日は肉の気分じゃないとかあまりお腹はすいていないとか、なにか要望はある? ある程度なら対応出来るように肉も魚も野菜もメニューが豊富なところを予約したけれど」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です! 苦手なものはありますけどほとんどのものは食べられるのでお気になさらないでください」
「そうか。女性向けの店で基本どの品も量が少なめみたいだから多分デザートまで食べられるんじゃないかな。聞くところによるとティラミスがとてもおいしいらしいよ」
「ふふ。銀花さんってとっても気配り上手なんですね。いろんなことを想定してそれに対応出来るように準備をして。すごいです」
目をきらきら輝かせている様子に、今日のプランは概ね悪くなかったのだなとワタシの緊張もほぐれてくる。
「ひとまず目的地までの移動を兼ねていろんな店をまわりながら散歩をしよう」
「はい。わたし普段は引きこもり気味なのでお散歩ってなんだか新鮮です。ここは職場から近いけれど来たことがなかったから余計に」
シスイは運河の方を眺めながら数秒黙り、ふと再び話出す。
「海の話はないのでしょうか?」
「え?」
一瞬何を問われているのか理解が追いつかず、ワタシは足を止めてシスイの口元を見つめる。そんなワタシの困惑に気づいているのかいないのか、シスイは不思議そうな表情を浮かべて続きを話す。
「星空や花畑のお話をしていただいて、あときれいな景色と言えば海かなって思ったんです。どうでしょう?」
シスイの問いかけにワタシは深く思い悩む。海に関する話題がないわけではない。美しい海の思い出だってある。しかし……。
「銀花さん?」
「あ……あぁ、そうだな……」
楽しく幻想的な海の景色を知っているはずなのに、それを上塗りしてしまうように辛い思い出ばかりが思い起こされてしまう。そんな状況の中で、それでもシスイの要望に応えなきゃいけない気がして、なにをどう話そうか悩んだ。なにを語りなにを秘すかで頭がいっぱいだった。
「……海外のきれいな海に行った経験もあるけれどワタシの思い出に残っているよく行っていた海は言ってしまえばあまり特別きれいというふうではなかったかな。だからきれいな話と前置きをして話す感じじゃない。多分シスイが想像しているのはエメラルドグリーンの海面が透けて小魚や珊瑚が見えている感じのものだろう?」
「はい。沖縄とか宮古島とかの海を想像しています」
「だよね。ワタシが行っていた海はもっとこう……漁が盛んそうな海だったから……」
「漁が盛ん……?」
シスイは軽く首を傾げた。
「浜では潮干狩り、沖では釣り……みたいな。そんな海だ。具体的に言うと江ノ島とか九十九里浜とか」
「なるほど。じゃあきれいな景色の話ではなく漠然と覚えていることとか、昔の銀花さんの話が聞きたいです! わたしはきれいじゃなくても銀花さんが観た景色ならなんだって知りたいです」
覚えている過去の話か……。そういうことならば話せることも少しはあるかもしれない。
「…………昔、父が船を持っていたんだ。船って行っても豪華客船みたいな大したものではなくボートとかミニクルーザーって表現した方が想像しやすそうなものだったんだけど、それで長期休みには釣りに行ったりインストラクターを連れてダイビングをさせてもらうことがあった」
「ダイビング……! すごい……。銀花さんは泳ぎとか潜水とかが得意なんですか?」
「得意ってほどじゃないけれど、プロで教え方の上手な先生に習っていたから人並み以上くらいにはできていたよ。でもやっていたのは十五歳くらいまででもうかなり海から離れてしまっているから今もできるという確証はない」
「十五歳ですか。あれ、銀花さんって今おいくつでしたっけ?」
「二十二。シスイはいくつ?」
「わたしは二十五です」
彼女の年齢を聞いて、お姉さんだったんだねと言えば「でも知識量や人生経験なんかでいえばわたしよりよほど銀花さんのほうが豊富だろうし、精神年齢だってきっと銀花さんの方がお姉さんだと思います」とやけに真剣なまなざしで返答された。
「自分が年上だったのは意外?」
「はい。同い年だと思っていたから。……その、わたしが年上だって知ったら話しにくくなってしまったりしませんか?」
おずおずと遠慮がちにそう言ったシスイは少し寂しそうな顔をしていて、過去に年齢差で会話が難しくなってしまった経験があるように思えて、ワタシは彼女を安心させるように微笑みながら首を横に振った。
「学生時代に流行っていたものなんかの話をするわけじゃないしワタシ達の会話にあまり年齢は関係ないだろう? それにワタシがたとえ年上相手にでも遠慮するタイプに見えるかい? そうでもないだろう?」
ワタシの言葉にほっとしたように笑うシスイの顔は頬が緩みきっていてだらしがなかったがどこか可愛らしさを感じた。
「えっと、それじゃあお話の続きをお願いします!」
気を取り直したように促すシスイに応えるためにワタシは口を開く。
「――そんなふうだったから一切海と関わりがなかったわけじゃないし、むしろ密接だったわけだ。釣りやらサーフィンやらダイビングやら、まぁ一通りの経験はあるが、なかでも好きだったのが飛び込みでね」
「飛び込み、ですか? 岩場の崖からばしゃん! みたいな」
「そのイメージであっているよ。小さい頃はあれが大好きだった」
シスイは身を抱きながら「ひぇ……」と小さく声を漏らす。
「下手したら死んじゃうじゃないですか」
「でもライフジャケットも着てあまり高くない位置から飛ぶ感じだったから死を感じたことはなかったよ」
「銀花さんはもしかしてスリリングなことが大好きなタイプなんでしょうか……?」
ワタシは「どうだろうね」と笑いながら、今やれって言われたら無理だけどと付け加える。
「当たり前です! 絶対やっちゃダメですよ」
シスイはそう言ってワタシの前に一歩踏み出して振り返ると小指を差し出す。
「危ないことはしないって、約束」
「そんなことまでいちいち約束しなくてもよくない? だってそうそうやる機会ないでしょ」
「一応しておくにこしたことはないはずです。それに銀花さん、約束は絶対に守るって言っていたでしょう? しておけば確約が得られるのならするべきです」
彼女にしては珍しく、強引にワタシの小指を引っ張り出すとそれと自分の小指を結んだ。
「はい。指切り完了です! 危ないこと、ましてや死にそうなことはしないこと」
彼女の勢いに圧されて、ワタシは「ハイ」と素直に返事する他なかった。
「でも十五歳までには飛び込みから卒業していたようで安心しました。ああいうのは慣れるともっと高いところから飛んでみたくなる心理が働いたりするみたいですし」
「あぁ、若い層の水難事故はそういう理由のものがわりとあるね」
「はい。でも十五歳のころからほとんど海には行っていないんですよね?」
「うん。ほとんどと言うか、全く行っていない」
「どうして海に行くのやめちゃったんですか? 飛び込みは危ないからやめたのかもと思いましたが釣りやサーフィンなんかは危険がゼロではないにしても比較的安心してできそうなのに」
「………………」
思い起こされる水の冷たさと潮と黒煙の香り。海水の味が舌の上に満ちるのを感じて、それを誤魔化すために大きく唾を飲み込んだ。
ワタシは黙った。言いたくなかったのだ。それを察したのかシスイも同じように口をつぐみ余計に踏み込んではこなかった。
結局ワタシ達はその後会話で盛り上がることもなく、まわりの店にさえ大して見向きもしないままディナーを予約した店に辿り着いてしまった。
▼
「あの、銀花さん」
席に着き注文を終え、水を飲みながら運河を眺めていると不意にシスイが話しかけてきた。
「……海は、嫌いですか?」
「わざわざ聞くあたり、わかってるんでしょ?」
ワタシは呆れ気味に溜め息を吐いた。冷たい対応にシスイは一瞬びくついたが、それでもワタシになにかを伝えようと足掻いている。
「わたしは、それでも海が見えるこの場所にわたしを連れてきてくれたことになにか理由があるのではないかと思いました」
震えた声で、訴えかけるように話す彼女は懸命に言葉を紡ぐ。ワタシは刺々しい雰囲気を和らげて彼女の話に耳を傾けた。
「それがどんな理由かはわたしにはわかりません。けれど辛い思いをしてまでわたしを素敵な場所に連れてきてくれたことにとても感謝しています」
「……別にそんなつもりはないよ」
「あの、なんと言えば良いかわかりませんが、良くないことがあってもきっと次は良いことが起こりますよ。幸福量なんとかの法則ってやつです」
「幸福量一定の法則かな?」
「それです」
「あれは人類単位で考えるものと都合良く人一人の人生単位で考えるものの二パターンがあってね。人一人の人生単位ならばシスイが言ったものでも通用する。人間万事塞翁が馬ってやつ。だが人類単位だとそうじゃないケースが発生する」
「どういうことですか?」
「誰かの不幸が他の誰かの幸福になったり、その逆に誰かの幸福が誰かの不幸になったりするって話さ」
「じゃあわたしに良くないことが起こったら銀花さんに良いことがあるかもなんですね」
彼女は今とんでもないことを言ったことに気がついていない様子で笑っている。そんなことを言わせてしまったことに、ワタシは後悔以外のことを考えられなくなっていく。
「ばかじゃないの。なんでワタシの代わりにきみが不利益を被らなければいけないの」
「でも銀花さんはワタシにいろいろな景色を教えてくれました。たくさん、本当にたくさんの幸せを分けてくれました。だからそのお返しをしたいんです」
「答えになっていないよ。それにそんなものは返報性の原理に過ぎない。ただのよくある心理だ。それに突き動かされてそんなことを望まなくていい。それはきみのためにはならない。誰かのために自分を犠牲にするなんて馬鹿げている」
「馬鹿でもいいんです。多分馬鹿だから、あなたより不幸が似合っている」
なんで、穏やかな笑顔でそんなこと言うんだよ?
「やめてよ、そういうの……」
声が揺れていた。
喉の渇きを誤魔化すためにワタシは水を飲み干した。心臓がドクドク脈打っていて、痛い。
まるでワタシは幸せになるべきだと、今までの不幸分の幸せが舞い込んでくるはずだから生きろと言われてるようで冷や汗が湧き出る。嫌悪感ともまた違う、恐怖に近い感情を目の前の彼女に抱いている自分に疑問を感じたがその疑問への最適解を導き出せずに焦りばかりが募る。焦りから生まれた感情はただ一つ〝死にたい〟だけだった。
――この関係を、ワタシは望んでいない。
そこでハッとする。この関係を望んでいないのであれば、それならワタシはどんな関係を彼女に望んでいた? 一緒に出かけて笑いあえる関係? プレゼントを渡して笑顔を返してもらう関係? 意地悪の応酬みたいなことをしてじゃれ合う関係? 違う。全部違う。
思い出せ、原点を。ワタシはなんのために彼女と会うようになった? 話を聞いてもらうためか? 違うな、それ以前の問題として、ワタシは〝金を使うため〟に彼女の元を訪れていたはずだ。ワタシはいつしか勘違いをしていた。彼女に本来の目的以上のなにかを求めはじめていた。ワタシは〝金で繋がって金で切れること〟を前提として、その〝ついで〟に一方的に話をしてストレスのはけ口にしたかっただけ。
今の状態は極めて危険だ。彼女はもはや金だけで繋がっているだけの相手ではない。自身を犠牲にしてまでワタシの幸福を願うまでに至っている。そんなの――そんなの名前をつけちゃいけない感情だろう。
「あ、注文していたものが来ましたね」
手放しかけていた意識を掴み直してシスイの視線の先に目を向けると彼女の言うとおり料理が運ばれてくる最中だった。
「……あぁ、結構待ったね」
「同伴のときはちょっとくらい出勤に遅刻しても許してもらえるのであまり時間は気にせずに食べて大丈夫ですよ」
目の前に置かれたハンバーグは湯気を立てていて、その湯気に醤油ベースのソースの香りが乗ってワタシの鼻に入ってくる。食欲を駆り立てられる香りだが、今のワタシにはそれをおいしそうだと感じる余裕がなかった。
「……うん、わかった」
どこか上の空で生返事をしながら、ワタシはハンバーグへナイフを刺し入れた。
▼
「おいしかったですね~!」
シスイは気まずくなったことなど一切気にしていないような雰囲気でワタシの隣を歩いている。外は随分暗くなって、街灯と建物の明かりが目立つ。
「銀花さんが言っていたとおりデザートはティラミスにして正解でした。とってもおいしかったです」
「ネットの評判を鵜呑みにして言っただけなんだけどね」
「ネットから真実を選び抜いて他者に提供できるということはとてもすごいことです」
この人はなんでもめざとく褒めるポイントを見つけてくるな……。
「まぁいいさ。ひとまずそろそろ店に向かうとしようか」
腕時計を確認すると彼女の出勤時間の三〇分前を示していた。
「そうですね。時間的にもそろそろ頃合いです――っとその前に……!」
人通りの少ない遊歩道の真ん中で立ち止まって鞄の中を探りだすシスイをワタシは怪訝な顔で眺める。彼女の表情は嬉々としており、まるでなにかを楽しみにしているようであった。――のだがそれもつかの間、今度はしょんぼりと眉をたれさせて申し訳なさそうな顔でこちらをうかがう。
「あの……」
「なんだい?」
「プレゼントを、忘れました」
「は?」
シスイはわたわた慌てながら違うんですと弁明を試みたがすぐに「いや……やっぱりなにも違くないです……」と口をもごつかせる。
「前に、このお洋服と指輪を頂いたじゃないですか。そのお返しをしたいと思って、僭越ながらプレゼントを用意したんです」
「それを今日渡そうとして忘れたんだね」
「はい」
かなり自己嫌悪に陥っている様子でシスイは完全に頭を抱えてしまっている。
「すみません……ほんとうにすみません……」
「いや、構わないよ。それより客にお返しとかしていいの? 怒られるんじゃない?」
「あまり良い顔はされないと思います。ですが渡したかったんです」
シスイは目に見えて落胆している。いらぬ気を遣ったがために起きた自業自得だがそれでも少しだけかわいそうに思えた。
「手土産の一つにでもできたらいいと思って用意したのですが……。それと、もう一つやらかしがありまして、」
まだあるのか、と声に出してしまいそうになるのをグッと押さえ込む。
「携帯も忘れました」
「あれ? 待ち合わせのときは持っていたじゃないか」
「あのとき使っていたのはお店から貸し出されているもので、私用は禁止されているんです」
「要するに私用で携帯が必要だってこと?」
「ええ。写メが撮りたくて……」
「写メ?」
「はい。銀花さんと一緒に写真が撮りたかったんです。お店じゃ難しいから、今日がチャンスだと思って。でも忘れちゃいました」
なんで急に写真なんて撮りたがったのかがさっぱりわからないが、落ち込んでいる様子に同情の視線を向けていたワタシは、仕方がないといった雰囲気をふんだんに盛り込んだ溜め息を吐きながらショルダーバッグからあるものを取り出す。それを見たシスイはぽかんと口を開けたまま目をキラキラと輝かせた。
「すごいです、銀花さん……! まさかわたしが写真を撮りたがり携帯を忘れることを見越してポラロイドカメラを……!?」
「そんなわけないでしょ。たまたまだよ」
「本当に偶然ですか? まさか未来予知や千里眼の類いじゃ……」
「違う違う。知ってる? 毎年六月一日は写真の日らしいよ。だから余裕があったら写真でも撮ろうと一応持ってきていたんだ」
シスイはなるほどと納得したようにぽんっと手を打ち鳴らす。
「銀花さんは結構行事を楽しむタイプなんですね」
「まぁね」
「ふふ。銀花さんのおかげでツーショットが撮れますね!」
さっきまでの落ち込みをどこかへ投げ捨てたように朗らかに笑う姿はいつかみたいにひまわりの幻影をワタシに見せる。
「明るいところへ移動しよう。照明がないとよく写らないからね」
先導するワタシの後ろをシスイはくっついてくる。なんだかひな鳥を連れて歩いているみたいで、ワタシは途中何度か後ろを振り返って彼女がちゃんとついてこれているか存在を確認する。三度目にそれをやったとき、とうとう「そんなに振り返らなくてもちゃんといますよ!」と言われてしまった。
天王洲ふれあい橋の上でワタシ達は二枚写真を撮った。片方をシスイに渡すと彼女はしっかりとそれを受け取り鞄の中にしまった。ワタシはショルダーバッグにカメラとフィルムをしまいながら「これで満足?」と問いかける。
「はい! あ、でも写真のお礼も兼ねて今までのお返しのプレゼントはちゃんと後日渡させてください。銀花さんに似合うと思って買った物ですから、ぜひ受け取ってもらいたいです」
「似合う? 服飾用品でも買ったの?」
「はい」
絶対に似合いますよと言い切る様子からかなり良い選択をしたと思っているらしい。どんなものを贈ろうとしているのかわからない現在、彼女の自信がどれほど正当なものかを判断する術はワタシにはない。それに、受け取るつもりも最初からないのだ。百パーセントの好意で渡されるそれを、ワタシは受け取ってはいけない。けれど早くプレゼントを渡したくてうずうずしている彼女を見ていることに心地よさを感じてしまっていた。ワタシは小さく頭を振ってその思考を心の奥底に沈めた。
▼
それからタクシーで店に向かって、店に着いてからはいつも通りあのVIPフロアの片隅で酒を飲んだ。シスイは珍しく酔っている様子でずっと大変上機嫌で饒舌に今日の感想を話している。ワタシは彼女の話に耳を傾けつつ少しだけうとうとしていた。珍しく歩きながら喋ったせいで疲れたのかもしれない。
そんなとき、緩やかな時が流れる空間に中音のメロディーが鳴り響く。ワタシの携帯の着信音だ。サブディスプレイに流れる文字を確認するとそこにはあの女の名が表示されていた。
「……ごめんシスイ。用事が入ったから今日はここまでだ。会計を頼む」
そう伝えてから通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
『あ、銀花ちゃん? ちょっといつもの場所までお金持ってきてくれない?』
「なんで?」
『お財布忘れちゃったのに気がつかないでタクシー乗っちゃったのよ』
「……わかった。今行く」
シスイのことを気にかける余裕もないままワタシはトレーに乱雑に札を置くと釣りは要らないと言い残して店を後にした。
▼
深夜、すべての用事を済ませたワタシは自室で物思いに耽る。
今までシスイとの間に起こった出来事を思い返し、本来の目的を今一度再認識した。そしてこれからどうするべきかも足りない頭で考えた。
すでに過ちを犯し終えたワタシにできることはこれ以上それを重ねないことだけだろう。
いつだったか、彼女がワタシの頬に触れたとき、その手から言い得ぬ熱を感じたことがあった。あのときワタシは彼女のぬるい体温を感じながらもなにか別の熱さを感じ、それに混乱を起こした。思えばあのときから彼女がワタシに、またワタシが彼女に抱いている感情は金でどうこうできる範疇を超えてしまっていたのだと思う。
あの熱は〝愛〟と呼んで差し支えないぬくもりだった。確証はない。ただワタシはそのぬくもりを誰かから与えられた経験もなにかに与えようとした経験もあった。だから確かではないけれどわかってしまった。
ワタシはあのときシスイから感じたぬくもりが愛であるとすでに気がついていた。だが自分を守るためにそれを認めようとしなかった。勘違いであると自らに言い聞かせて、見ないふりをした。
それが間違いだったのだ。
彼女がワタシに愛情を抱いていると感じた瞬間に店を出て、そして二度と彼女の前に姿を見せなければそれで全ては丸く収まっただろうに。ワタシは酷く愚かだ。
――あの店に行くのは金輪際やめよう。シスイに会うのも、もうやめだ。
ワタシはあの女の部屋へ行って薬入れの中から筋弛緩薬を一シートくすねるとそれを全て飲み干して床についた。
目を閉じて願う。
「明日目が覚めませんように」