来店6回目
すりガラスの窓を見れば蛍光色のネオンや行き交う車のライト、照明の灯ったビル群の明かりが拡散されて柔らかく輝いていた。もし、今ワタシと外の世界を隔てているガラスがもっと透明度の高いものだったとしたら、ワタシは大嫌いなあの女の馬鹿笑いとパチンコ店の喧噪を思い出して頭痛がしたことだろう。
外が気になりますか? と彼女が聞く。それに曖昧な返事をしてぼんやり外へ向けていた視線を彼女に移した。彼女の目はまっすぐワタシの目を見つめていた。ワタシはじっとその視線に釘付けにされる。固まるワタシにそっと微笑を返す姿はまるで晩秋に咲いたあのひまわりのように静かであたたか。
今日もワタシはこの店を訪れてしまっていた。前回予約した通りに来ただけだと言えば言い訳の一つにでもなるかもしれないがワタシ自身が自覚している感情を考慮すると決してそれだけじゃなくて、けれど以前プレゼントを用意したときみたいに特別心躍るなにかがあったわけでもなく、自分でもこの感情がなんなのかがわからない。
ワタシの思慮になど気づきもせず、彼女はにこやかに話し出す。口を開く彼女はとても浮かれているように見えた。
「今日はなんのお話をしてもらおうか事前に考えてきました!」
それだけのことでそうも心躍らせるなんて、この子は本当にワタシの話を楽しみにしているのだなぁ。
どこか他人事みたいにそう思いながら「何を話せば良い?」と問いかける。彼女の返答は早かった。
「また星の話を聞きたいです」
「星……の話」
以前話したワタシが高校入りたての頃に見た流星群のこと。その関連話を彼女は聞きたいと言っている。
ワタシは困った。「星の話には花の話みたいな続きはないよ」そう正直に伝えたけれど彼女は食い下がった。「でも聞きたいんです。なにかないでしょうか?」彼女らしくもないわがままを言ってまでその話を聞きたがった。
縋る彼女を見かねてワタシは記憶を辿る。星を見て、その星が現実であるようにと願って、そうしたら次々星が降って、二つ願い事をして、でも叶わなくって……。順を追って思い返してみてもやはり話のネタになりそうな続きはなかった。
「参ったな」
どうしたものかとワタシは頭を掻いた。彼女はそんなワタシに追い打ちをかけるように「二週間星の話のことばかり考えてました!」と笑顔で言い放つ。
二週間も心待ちにされて、その返事が『なにも思い浮かびませんでした』じゃ話にならないだろう。きっと彼女をがっかりさせてしまう。ワタシは必死ともとれる形相で思考を巡らせた。
「その……、続きと言うほどでもないんだが……いや、でもな……」
「なにかあるんでしょうか?」
「ある……というか、あるんだが、うーん……」
「込み入った事情があってお話できないとか……?」
「いや、うーん……込み入っては……。だがなぁ……」
「込み入っていないならお聞かせください! ぜひ!」
ワタシはもう一度「参ったな」と呟いて、そしてまた何度か躊躇った挙句渋々話し出す。
「続きではないんだが、関連の話なら。でもどうしても聞きたいわけ?」
「はい!」
「……そうか。では仕方がないからワタシがあの日星に願ったことの一つをきみに教えよう」
彼女はワタシの言葉に反応してピンと背筋を伸ばす。瞳をキラキラと輝かせ「いいんですか?」とこちらをうかがう。
「ふぅ……、いいもなにもないだろう。きみが星の話がいいって言うんだ。関連がある話なんてこれくらいしかない」
さっきまでの強引さはどこへやら、彼女はしおらしく「わがままを言ってしまってごめんなさい」と眉をたれさせた。
「いいよ、そんな申し訳なさそうな顔をしなくっても怒ったりなんてしないさ」
「ありがとうございます。それで、銀花さんが願ったことって?」
ふぅ、ともう一度息を吐いて、ワタシは簡潔に答えた。
「あの日の願い事の一つ、ワタシは〝またあのひまわりが咲きますように〟と願ったんだ」
彼女はすぐに悲しげな表情を浮かべた。後に起こった出来事を思い出したのだろう。
「ひまわりは洪水で……」
「そう。流星に願った年の梅雨だったんだ、洪水が起きたの。ひまわりは咲かなかった。いや咲けなかったんだ」
咲けなかった。彼女もそう復唱して肩を落とした。縮こまる体は弱々しく目に見えて落ち込んでいるようだ。
「洪水さえ起きなければ、銀花さんの願いは叶ったのに……」
か細くそう言う彼女はうなだれた。だからワタシは話題を少し逸らそうと口を開いた。
「きみは――シスイなら流星になにを願う?」
問われたシスイは「わたしだったら」と呟いて窓を見た。くぐもった窓ガラスから外をうかがうことは叶わない。それでもシスイはすりガラスの向こうの空を見つめる。
「この空にもし、星が降り注いだとして、わたしだったら……、銀花さんにこれからも様々な景色を教えてもらいたいって願います」
それだけ言って口を閉じ、顔をこちらに向け直した。慈しみに満ちたシスイの顔を見たら心臓が熱くなって激しく鼓動する。その感覚の名をワタシは思い出せない。だが息をするのも忘れてしまいそうなくらい苦しいのに、なぜだかとても心地が良い、不思議なものだった。
「そんなことでいいのかい? もっと願うべきことがあるんじゃないか?」
「いえいえ! むしろそれが第一というか、それしかないくらいです!」
シスイは元気いっぱいに言い切った。そして続けて問う。
「銀花さんだったら今、なにを願いますか?」
ワタシの中の時が少しの間止まったような感覚に襲われる。けれど実際に時間が止まるなんてことが起こるはずもなく、机上に飾られたブーケの花弁が一枚ひらりと落ちる。それを見て、時が動いていることを認識したワタシは急いで言葉を探したが、しかし思い浮かばなかった。本心も嘘もなに一つ考えつくことができなくて、ワタシはシスイからの質問を苦笑とともにはぐらかした。
「……あぁ、そうだ。この店って一緒に外出ができるんだよね?」
「はい。可能ですよ。……もしや?」
シスイは誕生日やクリスマスを待ち遠しく思っている子供のようにうずうずとしている。
「そのもしやだよ」
「ふふ、やったー! どこへ連れて行ってくださのるか、もうお決まりになっていたりするのでしょうか?」
「まぁね。それにしても……そんなにうれしい?」
「もちろん! 銀花さんと同じものを体験できるだなんて夢のようです。詳細はまだ内緒ですか?」
後々の楽しみを奪ってしまうように思えてワタシは「まだ」とだけ答えた。
「では当日までのお楽しみですね!」
無邪気に笑う彼女の体は鼻歌に合わせてゆらゆらと落ち着きなさげに揺れていた。
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「それじゃあ十八時から二十時の開店まで一緒に出かけるってことになるけど大丈夫? ワタシの接客のあとにも他の客の相手をしなければならないだろうし、あまり長く遊ぶと疲れないかい?」
梅雨が近付いてきて最近は低気圧も多いし気候の変化で体調を崩したりもするだろう。ワタシは無理にでも動けば良いがシスイに無理をさせるのは気が乗らない。けれどシスイはそんなワタシの心配を解消するように半袖から覗く二の腕に力こぶを作って見せてくる。
「心配ご無用です! こう見えて結構体力に自信ありです!」
「きみ、以前小さい頃は布団と友達だったって言ってなかったっけ?」
「過去は過去です。今は平均より身長も大きくなりましたし仕事をして体力もつきました。だから大丈夫です。当日、素敵な一日になるように楽しみにしています」
普段柔らかな微笑を浮かべているその顔には、珍しく自信ありげな力強い笑みがあった。
シスイはワタシ達の間に存在する〝またね〟の約束を促す。それを断る理由をワタシは持ち合わせていなかったから、黙って小指を絡ませた。
「また二週間後、今度は外でお会いしましょう」
「ああ」
彼女の手のぬくもりが離れていくのを、一瞬恋しく思う自分にワタシは少しだけ気がついていた。
店の外は変わらずギラついている。闇夜に光る色鮮やかなライト達がまるでワタシを飲みこみ襲おうとしているかのようだ。
携帯に着信が入る。あの女からだった。要件を聞けば、いつもの店にいるから迎えに来いとのことだった。ワタシはまたあのパチンコ店へ向けて嫌々歩を進めるはめになった。
溜め息を一つ吐き、一歩一歩また地獄へと足を向ける。
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何度来たってこの喧噪には慣れない。
「きーらーきーらーひーかーる、おーそーらーのーほーしーよ」
誰にも聞こえはしないとわかっていて、ワタシは小さく歌を口ずさんだ。そのくらいでしかこの喧噪に反抗できなかった。
数分歩き回ってやっとあの女を見つけた。以前座っていた台とは別の台の前に横暴な態度で座っている。この店は他店同様に全席固定椅子なのだがバリアフリー化に乗り出す意思が少しでもあるのか店員に言えば専用の器具で椅子を外して車椅子でも座れるようにしてくれるらしい。あの女は「そんなのお客様に対して当たり前」だなんて言っていたが、いちいち面倒を掛けることを申し訳ないと思う気持ちが一切ないところがやはり嫌いだ。
「今日はこの前大当たりが出た台が空いてなかったのよ~。だから仕方なくこの台にしたんだけど今のところ面白くない成果。でもあとちょっとで当たる気がするのよ」
「そういうときはとことん当たらない日って決まっているんだよ」
投げやりにそう言う。ワタシは一刻も早くこの騒がしく鳴り響く電子音からもタバコ臭いホールからも逃げたかった。
「だれがそんなこと決めたのよ。あと二万円くらい入れたら当たるかもしれないじゃない」
「ワタシがいま決めたんだ。店員に出玉数えさせてさっさと帰るよ」
吐き捨てるようにそう言ってワタシは呼び出しボタンを押す。スタッフが出玉を計算している間も筐体から目を離さない意地汚い女を車椅子ごと引き剥がして出玉の数が印字されたレシートを持って景品交換所へと移動した。
それから特殊景品を換金所で現金に換え外に出る。車椅子を押すワタシに女はグチグチと店の出玉操作がどうのと語っているがそれを適当な相槌で受け流すとちゃんと話を聞いてと物申される。
「運がなかっただけのことを店の責任にしてはいけない。この前大当たりを出した台でだって全然当たらなかったことがあったでしょう。まぁ出玉操作自体はしていると思うけど、パチ屋なんてそんなもんだし。わかった上であなただってやってるんでしょ。それならなおさら文句を言うべきじゃない」
ワタシに叱られて年甲斐にもなく腹を立てる姿に苛つきより呆れが勝るのを感じる。そんなことを考えていると女はまた口を開いた。
「銀花ちゃんは最近楽しそうでいいわね。動く足があるだけで人生薔薇色でしょう」
言い草に不満を覚えながらそんなことないと否定を口に出した。その瞬間女の手から振り下ろされる杖。頬に痺れるような痛みが走る。
「そんなわけないじゃない! 何億もある親の金で好きなことにお金使って、遊び歩いて、私はあんたの親のせいでこうなっているのに!」
自分の足を示しながら喚く女など放ってワタシは近くにあったコンビニのガラスで自身の顔を見た。いつかのあの日みたいな打撲痕が頬にできている。忘れもしない。あの日の痣もさっきみたいにこいつのせいでできたんだ。
「……二週間で、治るかな……」
あのときみたいに大げさにガーゼを張ってシスイを虐めようだなんて考えてはいなかった。代わりに、シスイがワタシの顔にできた傷を見て胸を痛めないかだけが気にかかった。
次に会うときは彼女の笑顔が見たい。純粋に楽しんでもらいたい。
ワタシは空を見上げた。
灰色の雲ととても深いどこまでも続く暗く虚しい空だけが広がっていて、星なんて一つもない。そんな、何にも託せない空にワタシはただ願ってしまった。彼女の笑顔が見たいと。
また小さな声で呟くように、歌詞を吐いた。
「……みーんーなーのーゆーめーが、かーなーうーとーいーいーな……」
ああ、ワタシはなんてくだらないことを――。
『銀花さんだったら今、なにを願いますか?』
今日問われたことが彼女の声で再生される。
もし今あの日と変わらない流星が見られたとして、ワタシは、ただ純粋に〝死にたい〟って願えるのかな?