来店3回目
『三会目』という言葉がある。遊里で三度同じ遊女に会えば馴染みの客だという意味だ。
来店三回目ともなると例の彼女以外もワタシを認知し始めたらしい。店に行くとフロントにいつもいるスタッフもワタシの顔を見ただけで「シスイちゃんお呼びしますね」とすんなり受付を済ませてくれるようになった。だが態度が変わったのはスタッフだけじゃない。店長やオーナーまでもワタシの待遇に気を遣ってきている。これはおそらく毎回結構な額を彼女に使っているからだろう。ワタシにとってするべきことが金を使うことなだけだが、そのせいで早くも来店三回目にして所謂太客として認定される存在になってしまたみたいだ。これは面倒かつ厄介。できればワタシのことは極力いないものとして扱ってほしいところだ。
店のエレベーターに乗りながら思いに耽る。二週間という期間は思いのほか長い。そう感じるのはワタシにとっての二週間が気の滅入るようなものだからだろうか。はたまたワタシの体内時計が狂っているのか。まぁどちらにせよワタシの生活が普通と違うことは明白だ。普通と違うことを世間では異常と言う。やはりワタシは――
「わっ!」
「ぅあっ!」
エレベーターの出入り口の影からパッと顔を覗かせ、控えめかつ人を驚かすのに十分な声量で声を発し、それに驚いたワタシを見つめしたり顔を浮かべている彼女はとても満足げだ。
「やあ、客相手に容赦ないね」
「そんなことないですよ? 銀花さんとの楽しいふれあいです」
うふふなんてかわいげに笑っているが、さてはこの子、前回来たときにした意地悪の仕返しのつもりだろうか。
「ものは言いようだね。けれどそんな悪戯なふれあい方がしたいのなら今日のお話はやめにしようかな。代わりにワタシもそういうふれあい方をしよう」
来るたび来るたび嫌がらせをする客なんて心証が悪いだろうから二週間前のことを反省して今日はおとなしくしているつもりだったが、ついまた意地の悪いことを言ってしまう。ワタシの発言を耳に入れた彼女は「あわ……」とか細い声を漏らし、すかさず焦ったような声で縋る。
「もうひとつは花の話でしたよね! ぜひ! ぜひお聞きしたいです!」
「そんなに聞きたい? きみの人生になんの利益も損害も与えない、まさに毒にも薬にもならない話だけど?」
「もうぜひ! この二週間それが気になって、今日をとても待ちわびていましたもの! まずは席につきましょう。注文を済ませて、そしてゆっくりお話をうかがいたいです!」
ワタシは無意識に上がった自身の口角に気がつき急いで口の端に力を入れてそれを隠す。一瞬晒してしまったそれは、気持ちを前のめりにさせながらワタシの話に興味を示す彼女の様子に思っていた以上に胸がすいたから出たものらしい。そんな笑みだったと思う。
飲んだことのない銘柄の酒が飲みたい気分を携えながら、ワタシは適当なシャンパンを注文した。
「まぁいいだろう。そうそう、花の話だったね」
それだけ言って口を閉じ、ワタシは彼女の隣に腰を据えた。なかなか話し出さないことを不思議に思った彼女がおずぞずと「銀花さん?」とワタシの名を呼ぶまで沈黙は続いた。
「……今からワタシが語る話の主人公とも言える花をきみが当てられたなら詳細を語らせてもらうよ」
それは先程彼女から受けた悪戯への仕返しだった。ワタシの口角はまたやや上がっていた。
彼女は腕を組んで上体を斜めに傾けてワタシの顔を眺める。露骨な考えるポーズに思わずクスリと笑ってしまった。
当たるわけがない。花なんてそれこそ多くの種類がある。それにワタシはヒントを与えるつもりはない。そんな中で当てずっぽうに答えられるわけがあるものか。
「待ってください。今できる限りの花の名前を思い出しています」
「あと十秒ー。きゅう、はちななろく」
「八から速すぎませんか!?」
「ごよんさん」
「ええ!? もう! じゃあ」
に、いち
「ひまわり!」
その回答を耳に入れた途端、心臓がどくんと跳ねた。
「どうしてそう思うんだい?」
「それより先に正解かどうかをお聞きしたいです」
この子、なかなか侮れないな。
「うん。そのとおり。ひまわりが今回の話の主役だ。でもどうしてわかったんだ? ワタシはひとつだってヒントに成り得そうな発言はしなかったはずだ」
大真面目に、それこそこの店に来始めてから一番と断言出来るほど真剣に問うているのに、この子というものは無邪気にまたうふふと笑ってのける。
「大した理由はありません。わたしにとって主役っぽい花がひまわりだっただけなんです。本当にそれだけ」
ね? 大した理由じゃないでしょう? そう彼女は眉を下げて、でも楽しそうに微笑んだ。
はぁなるほど。彼女は勘が鋭いというより運が良かったんだ。そうだよな。相当低い確率を運で当てただけのことだ。なにも驚くことはない。たったそれだけの話。
「……そう。まぁいい、それじゃあまた話をしよう。ご明察の通りひまわりの話だ。それも一輪じゃなくて群のような畑の話。きみは一面に広がるひまわりを観たことがある?」
少しの間記憶を思い起こすように斜め上を見ながら考え事をしていた彼女は観念したように首を横に振った。
「いいえ、ないです。好きですけど、お花とか縁がなくて」
対面した他人の感情を読み取ることに些か聡いワタシの目に彼女はそれなりに落ち込んでいるように映った。
「そうか。とても輝いて見えるんだよ。勿論この辺り一帯にはびこるネオンやビルの明かりみたいではなく、もっとあたたかだ。香りも良くてね。なんて例えればいいのかな、難しいな。決して香水みたいに強い香りじゃない、柔らかいような、それでいて包まれるような、あたたかい……」
悩みながら言葉を続けるワタシのことなどよそに、彼女はハッと閃いた顔をして両手をぽんと打ち鳴らす。
「お花の香りがするお布団みたいな感じでしょうか?」
パーティションで区切られた二人だけの空間に押し殺すような可笑しな笑い声が鳴る。ワタシの口から発せられたそれを自分の耳に入れた瞬間、なんつー笑い方をしているんだと恥ずかしくなった。
布団、そうか布団か。
「はは。そうだね、布団みたいな感じ。甘い花の香りの布団って聞いたら柔軟剤かなにかの匂いか? ってなるけれど、例えだからね。当たり前な話だが本当は柔軟剤よりもよっぽど自然な香りだよ」
「そうなんですね。わたし、小さい頃からあまりお外に出てこなくて、お布団と友達だったから、お外で嗅ぐお布団の香り、興味あります」
天井の照明を見つめながらそう過去を思い起こす様は、自分でも意外なほどにワタシに小さな提案をさせるのに充分だったようだ。
「この店は一緒に出掛けたりできるの?」
「え、はい、できますよ。出勤する前に会って一緒にお店に来る同伴というものと退勤後に一緒におでかけするアフターというものがあります」
「そう。じゃあいつか行こう、一緒に。今はまだ四月で全然ひまわりの時期じゃないからあまり早くは行けないんだけどね、ワタシが連れて行く。ワタシが観たのと同じひまわり畑に」
「……! はい! 楽しみにしていますね!」
彼女は大きな瞳でワタシの目を見つめ返す。見開かれ光をたくさん入れた瞳がきらきら光って、まるで繊細なガラス玉のよう。
指切りをした。針千本飲ますなんて歌わない、小指で繫がった手を二回振って離すだけの簡単な約束の儀式。
それを行っているときの彼女の笑顔はまるで、あの日観たひまわりのようだった。
「それにしても銀花さんはひまわりがお好きなんですね」
不意に出た彼女の発言に相応の言葉が返せず、困ったように目を逸らし眉間にしわを寄せた。
「は? どうしてそう思う?」
その言葉にきょとんとして、彼女はなんでもないように「だって」と言葉を続けた。
「だってとても素敵な笑顔だったから。それこそひまわりみたいに」
「……きみは、他のお客さんにもそんな感じなのか? 感性がおかしいって言われない?」
「なんで~!? 言われませんよ! 今のだってちゃんと褒めたつもりでした!」
なにか駄目なこと言っちゃいましたか? と両頬に手を添えて顔を青くする彼女は、本心からワタシに向けて『ひまわりのよう』だなんて形容を用いたみたいで、それこそ感性を疑われていることのほうが疑問のようであった。
「でもですね、本当に素敵な表情でお話しされていたんですよ? 前回の星空の話はどこか切ない過去を回想する様子が表れていたのに、今回はとても楽しそうにお話しされていたから、だから『あ、銀花さんはひまわりが好きだから楽しそうなんだ』って思ったんです。好きなことを話しているひとの表情は誰だってひまわりみたいで、他の人まで笑顔にさせる力があるんだなって思ったくらいです!」
隙をついてまた意地悪いことを言って黙らせてしまおうかと考えたが彼女の熱い弁明が途中で弱まることはなかった。
「はぁ……、たしかに好きな花を問われれば一番最初に思い浮かべるのはひまわりだと思うけど別にそこまででは……」
尻すぼみに言葉を切った。苦し紛れの言い訳をそれ以上ワタシは何も言えなかった。
ワタシの沈黙を彼女は見逃さなかった。
「それなら何故あんなにも素敵な笑顔を――」
「簡単な話さ。さっき話した〝あのひまわり畑〟が好きなんだよ」
そう言えば彼女は頬の力が抜けたようななんとも言いづらいふにゃっとした笑みをワタシへ向けた。
「そうだったのですね。やはり前回の星の話も今回の花の話も銀花さんにとって大切な思い出のひとつで、どちらのことも好きで、だから――」
「いや、〝あの星空〟は好きじゃないよ。思い出ではあるけれど。あの星達はワタシが本当に願ったことを叶えてはくれなかったからね」
冷たい声でありのままを伝えると彼女は小さく肩を落とした。
「そう言えば二つの願い事は叶わなかったんですよね」
それなら好きになれないのも納得出来ると眉を下げる。
「それにしてもどんな願い事をしたのかはまだ秘密なんでしょうか?」
「そんなに気になる?」
「はい!」
「なんで?」
「わたしの中での話ですが、銀花さんって神頼みとか星に願いを託したりするタイプってイメージがないんです。そんな銀花さんがする願い事って全然想像がつかなくて」
わりと、と言えばいいのだろうか。腑に落ちるところのある意見ではあった。
「あぁ、そうなんだ。でもこれは随分と大した話だからね。きみには当分教えないよ。これは意地悪とかじゃなくてプライバシーの問題だから」
「じゃあ今はダメでもゆくゆくは教えていただけたりは……?」
ワタシの表情はやや曇った。そんなことは起こりえないと。だって他人するような話じゃない、ワタシの胸の中で、そっと朽ちていくべき思い出だから。
「あぁ、いつかはくるかもしれないね。きみの態度次第だとは思うけれど」
でも嘘を吐いてしまった。なんでだろう。無駄な期待を持たせることは好きじゃないはずなのに。
「それならもう今日みたいな悪ふざけは出来ませんね」
大いに残念だというように小さく溜め息を吐いて彼女は口元に笑みを浮かべた。ワタシはその姿を見てなんだか責められているような気分になった。
「あぁ、そういえば」
彼女は思い出したように脈略なく声を上げた。そしてワタシの右頬を撫でる。その手は先程約束を交わしたときと変わらず滑らかで、人肌の温度と言えるぬるい体温で、何故だかとても懐かしいような、どこか心の隅でずっと探していた小さい頃大切にしてた宝物を見つけたときのような、そんな安堵と呼べるような情を抱いた。
安堵を覚えたそのとき突然、ワタシは彼女の体温以上の熱をその接点から感じ取ってしまい思わず肩を揺らした。
知っている。その熱の正体を。ワタシも抱いたことがある。その感情を。
何故だ? 何故それを彼女から感じる?
注がれ続けるあたたかさを拒絶するように、ワタシは身をよじって彼女から距離をとった。
だって、その手の温度の正体はおそらく――
「傷、綺麗に治りましたね。よかったです」
「え。あぁ。そうだね」
だめだ、落ち着け。相手はただの水商売の女でワタシは客だ。この交流は接客のために行われているだけでしかないのだから、勘違いだ。きっと、きっと、きっと。そうでなければ、勘違いでなければ、ワタシは、彼女がワタシに抱いている感情が込められた熱に一瞬でも安堵してしまったことになる。そんなことはない。ありえない。
「あ……、そろそろお時間が」
彼女の気が逸れた。それは間違いなくその場では救いだった。
「……そうだね。そろそろ会計をお願いするよ」
ワタシはなにをくだらないことに想いを馳せているのだろう。くだらない。本当に。
「あの、銀花さん」
「なんだい」
「指切りをしましょう。今度は〝またね〟の指切り」
いつもしているでしょう? と彼女は自らの小指の爪の先を反対側の人差し指で突いた。
ああ。金で繫がって金で切れるさっぱりした関係を築こうとしていたワタシは、この子との間に致命的である〝いつも〟を作ってしまったみたいだ。
そんな約束をしたらまたここへ来てしまうかもしれない。あんな情を抱いたあとで、ワタシはどんなふうにここを訪れる?
彼女は急かすように改めてワタシの元に小指を押しつけた。それを拒むことができず、でも素直に応えることもできずに、そっと彼女の小指をつまんだ。
「なさらないんですか? 指切り」
「君の小指は小さい」
「え、はい」
「だから指切りをしたら折れてしまうから、だからできない」
なんていう言い訳だ? 親の顔を見ながら言えるか?
「数分前は普通にしていましたけれど」
そりゃそう言うだろうな。
「今日はいつも飲まない酒を飲んだせいか異常に酒のまわりが早くて、今はさっきより酔っていて、だから、いつも異常に力を入れてしまう」
「それは……こわいですね」
彼女は困ったようにうーんと唸って、でもすぐに妙案を思いついたのか反対側の小指を差し出した。その表情は今日の話題の主役がひまわりだと答えたときみたいになかば自棄をおこしているような顔だった。
「こちらの手をどうぞ! 銀花さんも利き手と反対の手ならそれほど力も入らずきっと折れることはないでしょう」
目の前に二択、するかしないかの選択肢が提示されて、ワタシは迷った。再度断ることも可能だった。そうする方がきっと今後を考慮した上で楽だったとすら思う。
けれどワタシは彼女の申し出に応え左手を差し出した。ワタシもまた彼女同様に自棄をおこしたみたいだ。
「きみはなんというか、IQが高いというか、ひらめく力が高いように感じたよ」
「ありがとうございます。オーナーや他の従業員には抜けているって言われがちなので、認めてもらえたようなことをおっしゃっていただけると、その……うれしい、です」
「いや、別に認めたわけじゃないけれどね」
「もう、なんでいつも去り際に意地悪を言うんですか? 最初に会ったときはあんなにロマンチックな別れ方だったのに」
顎を引いて上目遣いで涙を拭うフリをして、いかにもな茶番を営む彼女はだいぶワタシへの接客に慣れてきているように思える。
「……ねえ、きみは〝さんかいめ〟って言葉を知っているかい?」
「さんかいめ? 三度目ってことでしょうか?」
「わからないのならそれでいいよ」
「うん? 『さんかいめ』はよくわからないですけれど、『よんかいめ』もきっとありますよ!」
「はは。そうかい」
繋いだままだった小指を解いた。容易く、なんの障害もなく離れた指同士はおそらく次回も繋がれるのだろう。なにせ『よんかいめもきっとある』らしいから。