来店2回目

 その日、ワタシの機嫌は最悪だった。長く続く面倒ごとに終わりが訪れないことに激しい苛立ちを感じ、早々に金を使いこの状況から抜け出さなければと躍起になっていた。

 VIPフロアにワタシの乗るエレベーターが到着した。小さく開いた扉の隙間からピンク色のドレスが覗く。それを身に纏った女性が二週間前にこの店で会話した彼女だと気がついたワタシは「やぁ来たよ」と投げやりかつ気さくにも聞こえる声かけと共に彼女の元へ歩み寄った。そうすれば彼女はすぐにワタシだとわかったらしい。「銀花さん!」と答えがわかっているクイズに答えるように自信ありげにワタシの名を呼びこちらに視線を向けた。

 接客者としては百点満点の明るい表情でこちらを向いた彼女だったがワタシの顔をしっかり見た途端、まるで深く傷つけられたときのように辛い顔をして固まる。彼女は目に映る現状に商売道具である愛想笑いを保てずにいた。

 彼女の反応にワタシは妥当な心当たりがあった。

「あぁ、顔?」

「はい……痛そう」

 落ち込んだ声で肯定し、自分が殴られたような顔をして自らの頬をおさえる。

「もう痛くないよ。ガーゼも形だけつけているだけで傷だってそんなに大したもんじゃない」

 きみの驚いた顔を見たいだけの悪戯心を満たすためにわざわざしなくてもいい手当をしてきたと言ったら彼女は嫌な顔をするだろうか? 今はその顔が見たい。不機嫌なワタシより不機嫌なきみを。そうしたらワタシの苛立ちも少しは改善されるかもしれない。

「実はね、きみのその顔が見たくてわざと大げさにガーゼなんて貼ってきたんだ。本当はそんなに大きな規模の怪我じゃあない。ちょっと痣が出来ただけ」

 実際にはちょっとしたなんて規模のものでもないのだけれど、このくらい言った方が面白そうだなと思ったんだ。なんとなくね。

 ワタシが思ったとおり彼女は嫌な顔をした。接客業に携わる人間にあるまじき表情だと思う。だからワタシは言ってやった。「〝客に〟そんな顔しないでよ」って。

 どうしてワタシはたった二度しか会ったことのないこの子にこんな底意地の悪い行いをするのだろう? おそらくだけれど、きっとワタシはこの子に否定されたいんだ。ワタシを否定させることにより前回のこの子の誠実さを否定する機会をうかがっている。この子自身が今までの人生で積み重ねた真っ直ぐな姿勢を否定して、それでいて〝ほら、きみも周りの人間と、ワタシの顔に傷をつけた人とも何一つかわりやしない〟と我が物顔でふんぞり返りたいのだろう。彼女の優しさを所詮同情だと、それでいて同情とは偽善であると、そんな否定をわがままに成そうとしている。

 だが彼女はそれ以上嫌な顔もせず、拗ねもせず、だからといって怒ったふうな顔もそれほど長く続けずに、ワタシの頬を優しく撫でた。彼女のその表情の名前をワタシは知らない。

「え、なに。突然」

「嫌われたがりのくせに構われたがりなのは疲れますよ」

「いやいや、なにをわかったふうな口を」

「一切わからない方がよかったのかもしれませんね」

 なんだよその言い草は。中途半端にわかられるより、冷たく、それでいてワタシがやろうとしていたように意地悪く否定された方がマシだ。

「なんだろうか、ワタシは自分で思っていた以上にきみが苦手らしい」

「わたしは自分で思っていた以上に銀花さんのこと好きだと思いましたけれど」

 なんでだよ。というツッコミを声にすることも出来ず、沈黙が流れる。

「銀花さん、ひとまず一緒に席につきましょう? こちらです」

「……」

 黙ったまま彼女に先導されながらだいぶ奥まった場所にある席へと移動する。

「ご注文はお決まりですか?」

 席についたワタシは彼女の手で開かれたメニュー表の中からそれを指差す。

「……このシャンパンを頼む」

「ふふ、前回わたしが勧めた銘柄ですね。お口にあったようでよかったです」

 ワタシは大きな溜め息を吐いてから「別に」と投げやりに答えた。だが心は何故かとても安心していた。不機嫌を理由にわがままにも彼女に否定され、また彼女を否定しようとしていたワタシが、そうされなかったことに何故安堵している? その答えはどうにも見つけられなかった。

 ワタシは他人に自分を否定させることで自分が居て良い場所と居てはいけない場所を判別してきた。お世辞のような肯定よりも否定の方がわかりやすかったし、世の中にはワタシを否定するひとの方が多かったから。それが今日のはなんだ? 特別な否定でも特別な肯定でもどちらでもない。なんて名前をつけていいのかわからない対応。ワタシはどうしたらいい?

「はぁ……」

 もう一度、先程よりも軽い溜め息を吐いた。それに対して彼女はなにか策を講じようとしたらしい。自信の体を寄せ、胸元をワタシに差し向ける。

「えっと、あの、触りますか?」

「……っ!?」

 なにを突然この子は言い出すんだと驚いたワタシは気管に入り込んだシャンパンでけほけほとむせ返る。

「あわわ、大丈夫ですか?」

「けほっ……。そういったサービスは女性客にも需要はあるのかい?」

「ある、らしいです」

「なるほど」

 彼女はバカで、それでいて仕事熱心なのかもしれない。それが今回かなり空回ったようだ。

「けれどワタシはいいや。ワタシはここに話を聞いてもらいに来ている。きみが提案したようなことを求めてはいない。それに従業員に触るのはマナー違反だろう」

「……おっしゃる通りです、……失礼しました」

「きみはワタシの金で食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで、それで話に耳を傾けてくれればいい」

 彼女は素直に了承を口に出しクスリと笑った。そして今までの会話なんぞ大して気にも留めていないように「きれいな景色の話、聞かせてくださるって約束しましたよね? 実はとっても楽しみにしていたんです!」とワタシに笑みを向けた。その笑顔はまるで――。

「あぁ、言ったね。そういえば、そんなこと」

「約束、覚えていてくださったんですね」

「忘れやしないさ、たった二週間前の会話なんて」

「ではアレも覚えていらっしゃいますか?」

 アレ、とはどれのことだとワタシは彼女の顔をうかがった。

「あら。たった二週間前のことですよ? わたしと銀花さんが今日ここで会うのは運命という事柄だと言ったのは」

「あぁ、それか」

「けれど銀花さんはひどいひと。顔に大きな傷をつけてきて、それでいてワタシを突き放すようなことを言って、でも約束はちゃんと覚えていてくれてその約束を守るために今日ここに足を運ぶなんてしっかりした側面も見せてくれる。わたしにいじわるをして翻弄するのはけっしてロマンチックではないはずなのに、前回運命という言葉を使われてしまったせいでわたしはこんなにも今後にロマンチックななにかがあるのではと期待してしまう」

 自分で種を撒いておいてなんだが、彼女は存外夢見がちで面倒な人間らしい。彼女はワタシを夢の対象として見ている節がある。きっとなにかを勘違いしている。一般人に王子様になる器量なんてものはない。それでもワタシは体裁のためにそれを演じてしまうのだが。

「じゃあその期待を本物にしてあげるよ。だってそのために今日ワタシはきみに会いに来たのだからね」

 これから話す話題にはいくつかの嘘が故意に紛れ込まされている。だからどうか馬鹿正直にすべてを信じたりしないで、不自然に思って、疑って、そしてワタシを否定してくれ。

「二つ話があるから好きな方を選ぶといいよ。ひとつは花、ふたつめは星」

 彼女はその二択で長く悩んだ。追加でチャージ料を徴収するつもりなのかと一瞬疑ってしまう程に。

「それじゃあ、星の話をお願いできますか?」

「きみは星が好き?」

「そうですね。たまに行きますよ、プラネタリウム」

「プラネタリウムか。じゃあ実際に彗星や流れ星を観た経験はないのかな」

「そうですね。空を飛んでいるのは映像でしか見れたことがないです。それ以外なら言ってしまえば博物館の隕石くらいですね、身近で接せられるのは」

「プラネタリウムはまだしも博物館は不満げだね」

「星が見たくてプラネタリウムに行くことをお魚が見たくて水族館に行くことに置き換えてみれば、星が見たくて博物館に行くのはお魚が見たくてお寿司屋さんに行くようなものだと思います。端的に言えば、まぁ、不満というよりかは消化不良みたいな感じでしょうか」

「意外にドライな価値観を持っているんだね。ちょっと満足させられるか心配になってきた」

 要所で話のハードルを下げつつ、ワタシはシャンパンを一口飲み下した。

「……星の話だったね。高校入りたてぐらいの頃、ひとりで……そう、天体観測に行ったんだ」

「なにかあったんですか? なんとか彗星とかなんとか流星群が見られるとか」

「……いや、なにもなかった。でもその時は空気がよく澄んだ春になりたてのころで、田舎の親戚の家にいたから、特になにがなくても晴れてさえいればよく星が見えたんだ。当時のワタシは別に星に詳しいわけではなかったから、どれが何座の何だとか、どれが一等星でどれが三等星だとかそういった知識は一切無く、しかも望遠鏡なんて物も持ってはいなかったから本当に肉眼で空を、いや星空を仰ぐだけだった。そのまま宙を見上げながら一時間とか二時間とか親戚の人間が迎えに来るまでずっとそこにいた」

「でも話出しから察するに見られたんですよね、流れ星とか」

「そうだね。いつまでも星を眺めているのももう飽きたなって思ったときに丁度良く一筋星が流れていったんだ。ワタシは急な出来事に幸せになりたいだとか現状を変えたいだなんて大した願い事に至らなくてね。ただその時流れた星が偽物や幻ではなく本当にあったものであることだけを願った。そうしたらすぐにでもその願いを叶えるように次々と星が降ってきたんだ。結構降ったんだけど、そのうちワタシがちゃんと自分の願い事を伝えれたのは二つだけだった」

「そのとき銀花さんはなにをお願いしたんですか?」

「…………」

「他人には言いにくいことでしょうか? あっ、他人に言ったら叶わなくなっちゃうとかですか?」

「いや、どちらでもないのだけどね。なんとなく内緒だ。まぁ結果を先に言ってしまえばどちらも叶わなかったよ。後から知ったけれど流れ星って落ちていくものだから少し縁起が悪くて願い事には向かないって説もあるらしいね。ものは言いようだ」

「それは、残念です……」

「まぁ、仕方のないことだと思っているよ」

 ワタシは残り少なくなったシャンパンの水面を見つめながらはぐらかすように言った。

「でもいいですね! 生の流れ星! わたしはずっと都会育ちだったもので空気が澄んでいる田舎というロケーションもとても素敵だなと思えるお話でした!」

「ははは、それはよかった。でも散々実際のものの方が良いような話をしたけれどプラネタリウムも悪くないと思うけどね。あれはあれで最高の状態の再現だと思うし」

「でもやっぱり本物に憧れずにはいられません……! いつかちゃんとこの目で流れ星を観ることを夢のひとつに掲げようと思います」

「夢があるのは良いことだよね。全部を諦めているよりよっぽど良い。……――おっと、もう時間だ。話も終わったことだしワタシはそろそろ行くよ」

 彼女は、あら、と驚いた表情で「もう少し余裕があると思っていたのに」と肩を落とした。

「あとひとつお話があるんですよね? えっと、花の話」

「そうだね。他にもあるにはあるけれど綺麗な景色っていうと花と星の話しかないよ」

「……では、」

 彼女は期待をはらんだ瞳でワタシを見た。

 ……そうだな。どうせまた二週間後も誰かに話を聞いてもらいたくなる。そんな気がする。

「二週間後も、また来るよ」

 今回は、彼女が先に小指を差し出した。小さいけれど、体格的にきっとワタシよりちょっとだけ大きいだろう彼女の手から生える色白い小指に自らの小指を絡ませる。

「再来週ここに来ることもまた運命ですか?」

「あぁ、たぶんね」

「もう。前回は言い切ったのに、今回はたぶんなんですね」

「きみはある程度いじめても大丈夫だとわかったからね」

 彼女はわかりやすくきゅっと唇を結んで拗ねた。そして宣言する。

「次こそは、いじめられたらかわいい反応を返せるようにしておきます」

 あぁこの子はやっぱり仕事熱心で、真面目で、それでもって素直で馬鹿だ。

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