星に願いを

 二〇〇六年七月七日二時頃パトカーの無線に連絡が入る。そばだてていたわたしの耳で聞き取れたのは『天王洲アイルふれあい橋付近で水死体発見』という連絡だった。

 ひとまずわたしの事情聴取は明るくなってから続きをしようと言う警察官にしおらしく返事をし一時的に解放される。暗いから家まで送りましょうかという提案を断ってパトカーを降りるとわたしは天王洲ふれあい橋へ急いだ。どうしても行かなければいけない気がした。

 橋の周辺には規制線が張られていて往来は出来なくなっていた。規制線の側から海の方を見下ろすと沿岸付近で懐中電灯を持った警察官達がブルーシートの周りで作業をしていた。わたしはそのブルーシートに釘付けになる。おそらく遺体がしまわれているのだろうその中身が気になってしかたがなかった。

 そのとき大きく吹いた突風によってブルーシートの上部が捲れ剥がされた。そこに横たわっていたのは――

「……! 銀花さん!」

 わたしは規制線なんて無視して横たえられた彼女に走り寄る。遺体の傍らに座り込んで生乾きの髪を撫でて手を握った。いつも指切りをしていたときに感じたのとは違う、冷たくて少し固い皮膚にわたしの涙が落ちる。

 その体温は完全に死人のものだった。

 警察官二人がかりで引き剥がされ、「彼女の身元をご存じですか?」と問われたから、わたしは手がつけられないほどの勢いで警察官に詰め寄る。

「彼女は雪野銀花さん。港区在住の二十二歳。住所も言えば彼女の知り合いだって信じてくれますか? 銀花さんはこのあとどうなってしまうんですか? どこか親戚の方に引き取られるんでしょうか? 教えてください」

 必死に縋ったが警察官は銀花さんの身元とわたしの連絡先を控えただけであとは用無しと言わんばかりに規制線の外へわたしを追い返す。それでもわたしは銀花さんの姿をまだ見続けていたくて、深夜で野次馬もそれほどいない規制線の外から彼女が救急車に運ばれるまでその華奢な身体を覆うブルーシートを見守っていた。

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   わたしは放心したまま帰路についたらしい。気がついたら自宅にいた。

 自室から深夜三時の夜空を仰ぐ。眠りにつくことなどできなかった。

 今日の天気は曇りで空には雲が多かったがほんの少しだけ月が見えた。月明かりに照らされて雲と雲の間でキラリと光ったなにかが気になってわたしはベランダに出た。

 わたしがベランダに出た瞬間大きく強い風が吹いて雲がどんどん遠くへ流されていく。すっかり雲が消えた空には優しい光を放つ月と小さく瞬く一粒の星だけが残った。

 その星に銀花さんのあたたかさを感じたわたしはベランダの柵から落ちてしまうのではないかというほどに身を乗り出して手を伸ばす。

 届くことのないそのぬくもりに触れたかった。さっきの冷たさは嘘だと言ってほしかった。

 伸ばした左手の薬指には銀花さんからもらったひまわりの指輪が月明かりに照らされて静かにきらめいている。

 どんなに手を伸ばしてもあの空に浮く星に手は届かない。銀花さんと同じように、一生わたしの手の届かない存在。二度と彼女には会えない。二度と彼女の話を聞くことはできない。

 ぽろぽろと涙が落ちていく。崩れるようにその場にしゃがみこんだわたしはもう一度立ち上がることを諦めてしまった。

 だけど、それでも、わたしはなおも宙へ向けて手を伸ばし、震える声で願いを口にする。

「もし、どこか別の世界で、わたしと銀花さんがまた出会えたなら、どうかそのときは、彼女と一緒にひまわりをみさせてください。……永遠なんて欲張りは言いません、だからせめて一時でも彼女と一緒に――」


水銀の沼~ひまわりの夢をみる星屑~    了

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