星に願うこと。契りを交わすこと。

 震えを帯びた声を絞り出した。かろうじて声になったその言葉は弱々しい。

「……ごめんなさい、あの。わたし、わたしが余計なことをしたばっかりに……」

「落ち着いて。どうしてきみがこの場にいるのか理由はわからないけれどここら一帯は監視カメラが多いからその映像からきみがあの女の付き添いをしていて事故の原因を最も知っているだろうことがすぐに警察に知られるはずだ。一つ聞くが、あの女と面識は?」  嘘を吐く場面ではないしそもそもそんな余裕すらなかったから、正直に首を横に振った。

「どうして面識のないあの女と一緒にいたんだ? 時間がないから手短に簡潔に話して」

「昨日の夜銀花さんがあの女性に杖で殴られているところを偶然見てしまったんです。以前顔に痣を作ってお店に来たことがあったでしょう? 常習的にそういうことをされているんだと思いました。それでどうにかして銀花さんに暴力を振るうのを止めてもらいたくて……」

「それで直談判でもしようとしたわけか」

 わたしが俯きがちに頷いたのを確認した彼女は真剣な声と表情で指示を出す。

「まずどうしてあの女と面識のないきみが付き添いをしていたかを不審がられると思う。そうなる前にワタシと話を合わせておこう。上手いことそれらしい理由とともに殺意を完全に否定して事故だったと証明できればいいが……。とにかく今から警察に連絡を入れる。そこから短時間で話をつけよう」

「……はい」

 銀花さんの腕が解かれた。抱きしめられていた感触が今でも残っているのに彼女の腕がわたしの身に巻かれていないことが少し寂しい。そんなこと考えている場合ではないのに……。

「ここの踏切は道路に対して斜めに線路が引かれているせいで脱輪しやすいから気をつけて渡らなければいけないんだ。ワタシにあの女の迎えを頼まれたきみはそれを知らずに脱輪させてしまった――そういう設定にしよう。一応聞いておくけどどうして脱輪が起きたんだ?」

「あの女性と口論になりかけたんです。そうしたら突然杖を振りかぶって殴ろうとしてきたから、わたしびっくりして車椅子から手を離してしまって……。車椅子はすごい勢いで坂を下っていったけれど踏切の中くらいでやっとそれを捕まえました。車体が斜めになっていたから真っ直ぐに直そうとして後ろに引いたらガタンって溝に片輪が落ちてしまって……」

「その様子なら故意ではなかったんだね」

「勿論です……! 信じてください……!」

「それなら今からワタシが言う文言を完璧じゃなくてもいいから覚えて。『電動車椅子だから介助はそこまで必要なかったようだが以前から踏切前の下り坂が怖いと言っていたため帰りだけパチンコ店から迎えをしていた。いつもはあの女の知り合いの雪野銀花がその役を請け負っていたが今日は急用ができてしまったから代わりに友人のシスイが申し出た。坂を下っている途中で女性と口論になりかけ杖を振りかざされ驚いて咄嗟に手を離した』――ここからはシスイが知っている通りに説明すればきっと大丈夫だ。坂の付近にも踏切にも監視カメラがある。供述と映像が合致していれば事情聴取から解放されるのも早くなるはずだ」

 銀花さんの言うとおりに上手く供述できるかしら……。下手なことを言って過失致死罪で捕まったりなんてしたら……。

「そうだ。きみ本名は? 友人関係を騙るのに名前も知らなかったらおかしいだろう」

「あっそうですね。わたしクツザワ シスイと申します」

 そう言って携帯のメモ帳を開いて〝沓澤紫水〟と打って見せる。

「本名もシスイなの? 源氏名とか考えなかったのかい?」

「入店するときに名前を決めかねていたらオーナーから『名前の読みだけ本名と同じ子もいるよ』って教えてもらったんです。だからカタカナでシスイ」

「そうか。わかった。それじゃあワタシと沓澤紫水は今から一応友達という体で」

 遠くから特徴的なサイレンが近付いてくる。数名の駅員もわたし達の様子を見に来ていた。

 わたし達のいる現場に到着した数台のパトカーからぞろぞろと警察官が降りてくる。そのうちの大半は電車の方へ、残りの数名はわたし達の元に残った。

 銀花さんとは別々のパトカーに乗せられて車内で事情を聞かれた。聞かれたことには真面目に答え、曖昧な発言や嘘は極力避けた。調書を取る警察官が怖くてときに声を詰まらせたがわたしだけではなく銀花さんまで怪しまれてしまう可能性があることに気がついてからはなるべくできる限りしっかりとした受け答えをした。

「電動車椅子だから介助はそこまで必要ではなかったようですけど踏切前の下り坂が怖いって仰っていたようで、それで帰りだけパチンコ店へお迎えをしていたようです。お迎えはいつもは銀花さんが請け負っていたのですが今日は急用ができてしまったようで、代わりにわたしが申し出ました」

「被害者の女性とは初対面だったんですか?」

「はい。このあたりの地域にもあまり慣れておらず、あの踏切のことも詳しく知らなくて、さっき事故が起きたあとに銀花さんに聞いてはじめて知りました」

「あの踏切は頻繁ではないものの車椅子の事故が以前からありましたし、踏切の監視カメラの映像から脱輪の状況も供述と一致していることから事件性は低いという見解になるかと」

 その言葉に胸を撫で下ろす。担当した警察官の主観であることは否めないけれど事件性が少しでも否定できる要因があるのならひとまずは落ち着ける……。

 重要参考人として後日改めて事情聴取を受けることになるようだが一旦は解放させてもらえることになった。自宅まで送りましょうかと提案する警察官に断りを入れ降車すると側の電柱の下に銀花さんの姿が見えた。わたしは急いで彼女に駆け寄る。

「銀花さん!」

「あぁ、終わった?」

「はい。待っていてくださったんですか?」

「まぁね、なんとなくきみは警察に家まで送ると言われても断りそうな気がしたから。もうとっくに日付が変わったような時間帯だし、女の子が一人でうろつくのは危ないでしょ? 終電はないしせめてタクシー乗り場まではついて行こうと思って」

 やっぱり銀花さんはやさしくて律儀だ。銀花さんの家はもうすぐそこなのだからわたしを置いてさっさと帰ってしまうことだってできたはずなのに……。そういうところが大好き。

 駅前のタクシー乗り場へ向けて歩き出す銀花さんの後ろ姿を近くからぼーっと眺めていたそのとき、突然言い得ぬ胸のざわめきを感じる。彼女の背中が途方もなく遠くへ行ってしまうように思えて、わたしは咄嗟に腕を伸ばして銀花さんのパーカーの後ろ身頃を握った。

「あの、銀花さん」

「なに?」

「わがままを言っても良いですか?」

 銀花さんは少し首を傾げながら考えたあと「いいよ」と了承を口にした。

「まだ、もう少しだけでいいので、銀花さんと一緒にいたいです」

「なんで?」

「なんだか今離れてしまったら一生会えない気がするんです。ただの胸騒ぎじゃなくて、すでに確定した未来を見てしまったような不安感なんです。……上手く言葉にできなくて意味不明なこと言ってしまってごめんなさい。けれどとにかく今は銀花さんと離れたくないです」

 彼女はまたしばし考え込んで、それから「よくわからないけど、不思議なことになんとなくわかってしまった」と言いながらまだ停車したままのパトカーを見た。

「それならワタシの家に来る? 一切もてなしはできないけれど」

 わたしは大きく頷いて今度は彼女の隣を歩いた。本当は手を繋ぎたかったけれど相応の理由を付けられそうになかったからおとなしく、歩くたびに揺れる彼女の頭を横目に眺めた。



 遠くから眺めるだけだった彼女の家のオートロック自動ドアをはじめて通過した。エレベーターに乗って十一階に到着すると彼女は落ち着いた足取りで角部屋の九号室を目指す。

 彼女の自宅は物が少なく大変整然としていた。玄関脇に畳まれて立てかけられている車椅子を見て改めて先程の惨状を思い出したわたしはそっとそれから目を逸らす。

「ここがワタシの部屋だから。好きに使って良いよ」

「あの、銀花さんは?」

「ワタシはあっちの部屋で寝るから気にしなくていい。ほら、さっさと寝なよ」

 そう言って部屋にわたしを押し込めると銀花さんは扉を閉める。

 わたしは言われた通りすぐにベッドに入った。頭までかぶったお布団は銀花さんの香りがして、まるで銀花さん自身に包まれているような感覚に見舞われながらどこか夢心地な気持ちで胸をいっぱいにしたままわたしは眠りについた。

   ▼

 ふと目が覚めた。あたりは真っ暗で携帯の時計を見るとそろそろ二時半になりそうなころだった。まだ気怠げな身体を起こして窓際まで歩いて行く。カーテンを開けて外を見れば街灯やビルの明かりもやや落ち着いてきていた。

 銀花さんの家から見る港区の夜景はきれいだ。お店の窓から見るネオン街ともまた違くて、キラキラしていてじんわり目に焼き付けられるような感じがする。空を見上げても星は見えなかったけれど、夜景に広がる街の明かり達がまるで天の川みたいで、わたしは黙ってその景色に見とれる。

 どのくらい夜景に見入ったころだろうか。不意に玄関の方からドアを閉める音が聞こえた。けして大きくはなかったがとても胸をざわつかせるその音の方へ歩を進める。

 銀花さんの部屋と玄関の間にあるリビングダイニングに先程まで彼女がいた痕跡があった。机の上には中身が半分ほど残ったコップ、側のゴミ箱には空の薬のシートが三枚律儀に輪ゴムで束ねて捨てられていた。

 こんな時間に多量の薬を飲んで外出……?

 不審に思ったわたしは外へ飛び出す。エレベーターホールへ行くと丁度銀花さんが乗った昇降機が降りていくところだった。一瞬見えた彼女の顔色は青白くて今にも倒れそうに見えた。エレベーターはもう一つ空きがあったが一階に止まっているそれを待つ時間が惜しくてわたしは非常階段へ駆けた。

 階段を駆け下りながらわたしは思慮する。薬を大量に服薬していたことや言い得ぬ胸騒ぎが杞憂でなければ銀花さんは自殺を考えているのではないか? しかし高層階からの飛び降りならわざわざエレベーターを使って下へ降りなくても可能だろうし、この時間では電車も走っていないから飛び込みの線も薄いだろう。ならば彼女はなにをしようとしている?

 階段を下る、下る、ひたすら下る。わたしが六階に辿り着いたとき銀花さんは地上についたらしい。近くの歩道を街灯に照らされながら歩く姿が僅かに見えた。遠くから見てもわかるくらいおぼつかない足取りは見ているとどんどん不安が募ってくる。わたしはまた全力で階段を下った。

 たった今銀花さんが向かって行ったのは天王洲アイルの方だった。天王洲アイル付近で実行できそうな自殺の方法は――。そう考えたときわたしの脳裏をよぎったのは海へ飛び込むのが好きだったと語った銀花さんの姿だった。

 もしかして入水自殺をしようとしている? それなら運河の方に向かうのも頷ける。

 遅れて地上に降りたわたしは銀花さんが歩いていった方へ早歩きで向かう。薬を多量に服用してふらついている今の彼女よりわたしの方がはるかに足が早いだろうからなにかの拍子に追い越してしまわないように注意しながら進むが、こんなにもたもたしていたら手遅れになってしまうかもしれないと、不安と焦りで頭がどうにかなりそうだった。

 きょろきょろ頭を動かしながら遊歩道を辿る途中で小さくうずくまる影が見えた。その影はわたしの気配を察知するとよろめきながら立ち上がりふらついた足取りで駆け出す。

「待ってください! 銀花さん!」

 彼女の名を叫んで慌てて駆け寄ると、ほんの一瞬こちらを振り返った彼女はわたしの全速力には勝てないと悟ったのか大人しくゆっくり立ち止まった。銀花さんの背の影とその奥に見える天王洲ふれあい橋の照明が合わさってやけに幻想的に脳に刻み込まれる。

 彼女の肩を引いてこちらを向かせると血色の悪い荒れた唇が真っ先に目に入った。手を取れば指先が震えていて、わたしはその震えを落ち着けようとそっと両手で包み込んだ。

「すぐに救急車を呼びます。ひとまず一度座りましょう」

 抵抗することなく彼女はわたしの指示に従う。通路の端で膝を抱えて座る銀花さんの隣に寄り添うように腰掛け、片手で彼女の肩を抱き優しくトントンと叩きながらもう片方の手で救急に連絡を入れる。症状を口答で伝えるわたしを銀花さんは不思議そうに見つめていた。

「なんで助けるの?」

 電話をかけ終えたわたしに彼女はそう聞いた。それは問いかけというよりも独り言に近いニュアンスの呟きだった。

「なんでって……」

「まさかワタシに好意でもあるの? やめておいた方がいいぞ。自暴自棄に身を任せてオーバードーズをキメる女だからな」

 いつもなら冗談めかしたように笑いながら言うだろう台詞を彼女は疲れ切った無表情のまま眠たげに発した。

「金が欲しいの? それなら残りは全部あげる。紙とペンさえあれば今遺書を書いたっていい。『雪野銀花の遺産を全て沓澤紫水に譲渡する』ってね。相続税で半分くらいになっちゃうだろうけれど、それでも結構手元に残るはずだ。……だからもう死なせて。放っておいて。ワタシは海で死ななければいけないんだ。……三回も死に損なうのはいやだよ……」

 銀花さんはわたしの肩にもたれながら哀願する。けれどわたしはその願いを「できません」と自分勝手に否定した。

「ごめんなさい。いくら銀花さんの本気の願いでもどうしてもそれだけは叶えられません」

「なんで……」

「あなたのことが大好きで、あなたのいる未来を見たいから。あなたがいないとどうしようもなく悲しくて寂しいから。わたしが生きるためにあなたが必要だから」

「シスイのせいで、ワタシはこれからも辛い思いをし続けなければいけないんだぞ? あの日死ねていれば良かったって日がまた増えてしまう。それがどれだけ辛いかきみにはわからないだろう?」

「わたしは生きたいから、死にたい銀花さんの気持ちをすんなり受け入れることは難しいかもしれません。けれど銀花さんにはまだわたしとの間に約束がたくさんあるでしょう? わたしの自分勝手をもってしてあなたの自分勝手を封じます。なんとしてでもまだ生かします」

 わたしが宣言したと同時にけたたましいサイレンを鳴らしながら救急車がこちらへやって来るのが見えた。

 銀花さんは担架に乗せられ到着した救急車の中へ連れて行かれる。その傍らについて行く途中、救急隊員に改めて容体を尋ねられた際銀花さんとの関係を聞かれて、わたしはどぎまぎしながら友人ですと嘘を吐いた。

 ガタガタ揺れる車内で横たわる銀花さんをただ見守ることしかできず、もどかしい思いをした。病院についてからも診察待ちの一時間ちょっとの間ずっと院内貸し出し用の車椅子に腰掛けた銀花さんの冷たい手をさすり続けた。

 途中様子を見に来た精神科医を名乗る女医が怖い顔つきで銀花さんに再三の問診を投げかける。正直に「筋弛緩剤を三シート分、合計でたぶん六〇個ほど飲みました」と述べる彼女に女医は呆れた様子で溜め息を吐くと「今は軽くふらついているだけで重篤な症状が出ているわけではないけれど内臓に後遺症が残る可能性がある大変危険な行為であることを留意してください」ときつい語調で注意し、診察までもうしばらくお待ちくださいと冷たく言い残してその場を離れる。診察も大して変わらずで、同じ女医がきつく冷たい対応をするものだからわたしはそんな言い方しなくてもいいのにと心の中で恨めしく思った。

 結局二時間点滴を済ませただけで帰宅を命じられたわたし達は夏の夜風を吸い込みながら帰路につこうとするが、銀花さんはタクシー乗り場とは別の方向に歩いて行ってしまう。

「どこに行くんですか?」

「歩いて帰る」

「ここから銀花さんの家まで多分二時間はかかりますよ? 徒歩は難しいです。それにまだ薬が抜けきっていないでしょうから無理せずタクシーで帰るべきだと思います」

 そう言って手をとっても彼女は「いやだ」と頭を振ってだだをこねる。

「どうしても歩いて帰りたい理由があったりするのでしょうか?」

 わたしは銀花さんの正面でしゃがみ込んで彼女の顔を覗き込むとできる限り優しい声で問いかけた。彼女は自分より低い位置にあるわたしの目を見つめ返しながら返答する。

「……星が見たい」

「星、ですか?」

「見えないことは承知している。でも見たんだ。タクシーからじゃ多分見られないだろう」

 わたしは考えた。銀花さんの願い事はできる限り叶えてあげたいけれど今の彼女に二時間歩かせるのは身に鞭を打つようなもの。そんなことは負担でしかない。でも……

「じゃあ二駅分だけ歩きましょう? その後は駅からタクシーに乗って帰りましょう」

 わたしの提案に銀花さんは素直に「うん」と頷いた。その表情は僅かに安堵が滲んでいた。

 銀花さんがなにかに躓いて転んでしまわないように手を繋いで、わたし達二人は歩き出した。先に口を開いたのは意外にも彼女の方だった。

「シスイはなんで生きたいの?」

 真っ直ぐで透明な疑問を受けて、わたしはしばしきょとんした。その様子を見ていた銀花さんは「答えられないこと?」と続けて聞く。

「うーん。そうですね……。昔病弱だった話は以前しましたよね?」

 銀花さんはそっと頷く。

「小さいときから体質的に気胸が起こりやすかったんです。女子が患うのは珍しいらしいですけどね。痛みはちょっとズキズキするものから締め付けられるような耐えがたいものまで様々で、いつも再発に怯えていました」

「痛くて苦しいってそれってむしろ死にたいことなんじゃないの?」

「いえ。それでもわたしは生きたかったです。今死んだら見られない未来がたくさんあると思うとずっとずっと生きたいと思えました」

「じゃあ死にたいって思ったことはないの?」

 わたしはこの上ないほどの苦笑を浮かべた。

「それはあります。三年前に母が亡くなったときですね。ちょっとだけ後追いを考えました。でも思うだけでむしろ生きるための行動を取りました。その生きるための行動の一つがあのお店で働きはじめることだったりします」

 銀花さんは納得できていない様子だった。だからわたしは「わたしの考え方を受け入れなくてもいいんですよ」と伝えた。けれど彼女は「いいや。なんとか飲み込んでみる」と首を横に振る。

「今もたくさんの未来に期待しているから生きたいの?」

「いいえ」

「違うの?」

「今のわたしは銀花さんとの約束があるから生きていますし、銀花さんが生きているから生きています」

「はぁ?」

 今まで見たどの顔よりも怪訝な顔をする彼女に思わず吹き出すと「笑いどころじゃないよ」と注意されてしまう。

「でも本当にそうなんですよ? 生きるために働いていたわたしがいつのまにか銀花さんに会うために働くわたしになっていたり、変な言い方ですが未来を見るために死にたくないだけで生きていたわたしが銀花さんが存在してるから生きているわたしになったんです。すごいことです。……あ、ここで丁度二駅分ですね」

 二十分程度の道のりはあっという間だった。相変わらず星は見えなかったけれど少し夏の夜風にあたって、銀花さんはすっきりした表情を浮かべている。

「結局星は見られませんでしたね」

 上空を見上げながら呟いた言葉に銀花さんは「しかたがない」と言ったけれど、視線はまだ名残惜しそうに空を見つめていた。

 タクシーに乗車して別々の窓を見ながら目的地につくのをただ待つ。雲と月しか見えない空を見上げていたわたしはふと銀花さんがお客様としてお店に通ってくださっていたときに聞いた星の話を思い出す。なんとなく今ならあの話の続きが聞ける気がして、できる限り気さくなふうに話題を振った。

「星の話に出てきた二つの願い事、一つは『またあのひまわりが咲きますように』でしたね。もう一つはなんだったのでしょうか?」

 銀花さんは「あー、あれね」と車内から窓の外を見ながら呟いた。

「今更隠すことないと思うから言うけど、もう一つは『今すぐ死なせてください』って願ったんだ。――ははは。どういう状況だよって顔をしているよ?」

「ええ。どういうことなんでしょう?」

「ここから星を探しがてら改めてあのたくさんの流星を見た日の話をしようか。嘘や不純物の混じりや曇りが一切ない正真正銘のあの日の話を」

   ▼

「以前話した通り当時ワタシは田舎の親戚の家にいた。親族も皆金持ちだから平気でいろんな土地を持っているんだけど、その一部で近くに山があってね。その日ワタシは投身自殺を思い立って一人だれにも告げずに山に登った」

「投身自殺を思い立った原因みたいなものがあったんですか?」

「……これは正直な話を語る場であるから、あったと言うべきだろうな。不倫した父を殺害する事件を母が起こして死亡者と重傷者が出た。結果母は実刑を受けて刑務所に入所することになる。保護者不在のワタシは親戚の家の世話になっていたのだがワタシがその親戚の家にいると聞きつけたあの車椅子の女が頻繁に訪れては玄関先でもっと慰謝料を寄越せと喚き散らすことがあった。ただでさえ犯罪者の娘を預かっている境遇だけで手一杯だというのに厄介なものが増えて親戚宅は困り果てた。そこで話し合いの場を設けて高校に進学したのを機にワタシに一人暮らしをするよう命じる。そのとき一緒にあの女の世話を押しつけて自分の家にこれ以上の厄災が降りかからないようにしたかったようだ。普通なら親の遺産が大量に入る未成年なんて恰好のカモだろうがワタシに関しては完全に厄介者でしかなかった」 「その話し合いの後に投身自殺を実行しようとしたのですね」

「そう。山中を歩き回っている間に崖を見つけたから後ろ向きに倒れるようにして落ちていったんだ。なんとなく後頭部をぶつけたら死にやすいかなと思ってやったことなんだけど、残念なことに崖の下にもう一段岩場というか足場が残っていたみたいで、背中側の全面をそこに打ち付けていろいろなところを骨折して、あまりの激痛に寝返りも打てないくらいだった」

 わたしは膝の上で両手を握りしめて話の続きをうかがう。手のひらにじんわり汗をかいているのが自分でもわかった。

「そんなとき流れ星を一つ見つけて――」

「その星に『今見た流れ星が本物でありますように』って願ったんですよね」

「よく覚えているね。そうだ。そしたら流星群が降ってきて、ワタシは二つの願い事をした」

「それが『このまま死ねますように』と『またあのひまわりが咲きますように』……」

「しかし流星群が去った後すぐに親戚がワタシを見つけてしまって自殺は未遂に終わる。そしてひまわりは洪水に流されて全滅。願ったことと全く逆のことをするなんて嫌な星に願ってしまったものだ」

 銀花さんは呆れたよう笑った。

「銀花さんはずっと、その願い事をした日に死ねていたら良かったと思いながら生きてきたのでしょうか?」

「いいや。ワタシはもう少し前、船の事件のときに死んでおくべきだったと思っているよ、今も変わらずね。だから海で死のうと行動に移したんだ。海で死に損なったのだから今度こそ海で死ななければってね。結局今回も死に損なってしまったわけだが」

「さっきはどうして死のうと思ったのですか?」

 その質問に銀花さんはしばし口を閉ざした。その後数分してから彼女は声を出す。

「ワタシはずっと葛藤を抱いて生きてきた。父の遺した多額の遺産はワタシに対する賠償金である、それを自分が満足いくよう好きに使い切らなければ父の犯した罪を許したことにならないのではないかと思っていた」

 彼女は語る。自分の胸にしまっていた思いをわたしのために言語化しようとしている。

「その賠償金をワタシの意に反して食い潰していた女がさっき死んだ。あの女がいるからワタシは死にたいんだとずっと思っていたが、実際に女が死んでみてそれが勘違いであることを自覚した。そうしたらなんだか今まで金を使い切ろうとしていたことや父の贖罪を受けて許そうとしていることが全部生きることを正当化するための言い訳のように思えてきて、まるで〝生きたいワタシ〟が存在してるようで、死にたいワタシが混乱を起こした。苦しんで死ななければいけないワタシがそれから目をそらしてこれからも生きるための行動をとっていたなんて、そんな罪は今すぐ死ななければ清算できないだろう。それが今日の自殺未遂の原因かな」

「銀花さんはまだ死にたいですか?」

「あぁ死にたいよ。けれどどうしてか今まで以上の情熱はない。またいつ自殺を実行するかわからないけどね、少なくとも今はない」

   ▼

 目的地のマンション付近に到着したタクシーを降車して銀花さんの家のエレベーターに乗り込む。狭い昇降機の中は薄暗い照明でぼんやりと照らされている。

 そんな中で不意に銀花さんが話し出す。

「ワタシがいなくなったら悲しいの?」

 昇降機が十一階に辿り着く。わたしの返答を聞くよりも先に降りていってしまった彼女の背中を追いながら「はい。とっても悲しいです」と肯定を口に出す。銀花さんは鍵が開けっぱなしになっていた玄関ドアを開けて中に入る。わたしもそれに続いて、小さな声でお邪魔しますと言いながら靴を揃えてあがりこむ。

「ワタシのことが好きで、ワタシのいる未来を見ていたくて、ワタシがいないとどうしようもなく悲しくて寂しい。それでもってきみが生きるためにワタシが必要なんだっけ?」

「とっても惜しい! 〝銀花さんのことが大好きで〟です。」

 重要なところなので訂正すると彼女は微笑みながら溜め息を吐いた。

「うん。まぁ、じゃあそれでいいや。……もしその大好きなワタシが死んだら、きみはどうする? 悲しいって感情を抱いて終わり? まさか〝生きるために必要〟とまで言ってそれだけじゃないよね?」

 そんな意地悪を言う彼女が愛おしくて、わたしは少し目に涙を浮かべながら首を横に振る。

「きっと、ひまわりをみるたび、星をみるたび、街のネオンをみるたび、お店に出勤するたびにあなたを思い出す。あなたとの思い出を思い出すたび死ぬことを考える」

 銀花さんはとうとう零れそうになるわたしの涙を優しく拭ってまた笑みを浮かべた。

「きみはそれで死ぬことを実行する?」

「どうでしょう? 銀花さんから見て実行しそうに見えますか?」

「うん。見える」

 その場に笑いが満ちた。こんな話題で二人揃って、出会ってから一番の笑いが引き出されるなんてとてつもなく不謹慎。

「ワタシもね、きみに死なれると悲しい」

 わたしは目を丸くした。銀花さんの口から悲しいだなんて珍しいというか、似つかわしくない台詞だなと思う。

「しかもきみが死ぬ原因が自分だなんて考えたらかなりやるせない」

 彼女は困ったように天井を仰ぐ。

「ワタシはね、実は愛されるということ、また愛するということがどういうことか知っているんだ。そしてきみはワタシを愛しているし、ワタシもきみのことを他のなにかに比べて愛している……、それを今認めてしまった。これはワタシの負けを意味する」

「負け、ですか?」

 わたしは頭に疑問符を複数浮かべながら首を傾げた。そんなわたしの顔を見た銀花さんは「間抜け面だよ」とお星様みたいに微笑んだ。

「誤解しないでもらいたいのだが、さっきも言ったとおりワタシはまだ死にたいよ。死にたいし、今回もまた死に損なった自分が許せない。けれどそれ以上にワタシが生きてしまっているこの世界の未来を見たいって言うきみの願いを叶えたいと思ってしまった。それはきっときみに恋でもしてしまったってことだろうし、恋に落ちるってことはワタシにとってその対象に負けたってことなんだ。勝った方には負けた側を従わせる権利があると思わない?」

 銀花さんはそう言ったけれどたぶん先に恋に落ちたのはわたしの方で、彼女の理論でいくと先に負けたのはわたしの方ってことになる。そうなると従うべきはわたしなのだろうけれど、その事実をわたしは伝えなかった。わたしが彼女とより生きる未来のために。

「それは銀花さんの望みよりわたしの望みを優先してくれるってことですか?」

「優先というよりも尊重といった方が適当かもしれないな。ワタシはきみの意見を尊く重んじるべきものだと判断した。……だから、まぁ、もう少しだけ生きるよ。きみのためにね」

 少しなんて嫌だった。何年も何十年も、もっともっと一緒にいたい。

「少しだけじゃ我慢できません」

 そうわがままを言うわたしに彼女は吹っ切れた顔で「じゃあきみが死ぬまでは」と言った。

「言いましたね!? わたし精一杯生きますよ!」

「全力で生きすぎると早死にするよ」

「じゃあほどほどに長く生きます! でもわたしなんとなく三十くらいで死ぬ気がするのであまりに早く死んでしまったらごめんなさい」

「別にいいよ。きみが三十で死んだらワタシが二十七で死ぬだけのことだ。これから先、ワタシにとって死にたい瞬間は数多くあると思うけれど、ワタシはせいぜいきみときみの未来を殺さないように日々を生きるよ。もし、もうすべてが嫌になって死ぬことを選んだときもなるべくきみを不幸にしないよう後腐れない感じのベストな死に方をするよう努める」

「ベストな死に方? ってどんなものでしょう?」

「さぁ? まぁ、それが思いつかない限りはワタシは死ねないってことだろうな、きっと」

「はい! じゃあ約束ですよ!」

「あぁ、約束ね」

 どちらからともなく小指を差し出した。いつもの〝またね〟の指切りよりもっと深い契りを交わす。長い間繋がれたそれが離れるとき、わたしは不思議と寂しさを感じなかった。

 それはきっと、もっとずっと一緒にいられると彼女との未来を信じられたから。

 また銀花さんのベッドに横になる。けれど今度は一人じゃない。銀花さんも一緒に。

 わたしは隣に寝そべる彼女へ向けてそっと囁く。

「約束、いっぱい溜まっちゃいましたね」

「うん」

「でもわたしたくさん約束事があるのは悪い気がしないんです。だって消化し終わらない限りはずっと一緒にいられそうでしょう?」

 わたし達はこれからも約束を増やし続けるだろう。すべてを消化し終える前にどちらかが死んでしまうとわかっていても、それでも小指を繋ぐことをやめない。

 もし、わたし達の上空に流れ星が降ることがあれば、わたしはあなたとの未来を願いましょう。そしてきっとあなたもわたしとの未来を願うでしょう。

 どうかいつまでも、目が覚めたとき隣にあなたがいますように。

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