枯れかけの花
水を与えなければ花が枯れてしまうように、わたしも銀花さんが足りないと今にでもしなびてうなだれてしまうだろう。彼女が初めて見つけたあの思い出のひまわりのように。
枯れかけの花にとって必要な物はまず水とお日様の光、そして時に栄養剤。わたしにとって銀花さんはそのどれもを補える万能なひと。
その銀花さんの顔をもう一ヶ月も見ていない。
わたしは商売道具の愛想笑いさえもまともに作れなくなってしまっていた。
足りない。足りない。銀花さんが、あのお星様のような笑顔が足りない。
彼女がお店に来てくれない理由にいくつも思い当たる節があった。同伴のときに変な空気を生んでしまったせいかもしれない、帰り際にいつもの指切りをしなかったからかもしれない。他にもなにかわたしが知見できていない原因があるのかも……。思い当たる原因を指折り数えて自己嫌悪に陥る。
嫌われてしまったのかな。原因がなんであれ、とにかくわたしのことが嫌になってしまったのかもしれない。そんなこと考えたくはないけれど、可能性がないわけではない。
銀花さんの姿が見たかった。声を聞きたかった。香りを嗅ぎたかった。
毎回来店時に予約をしてくれて営業メールをする必要がなかったからメールは交換していなかったけれど電話番号は同伴のときに交換したから知っている。でも突然電話をかけて「もうお店には来てくださらないのですか?」って言ったところで銀花さんを困らせてしまうだけだろう。それに電話に出てくれるという確証もない。もしかしたらすでに着信拒否をされているかも……。
それかなにか大きな病気にかかってしまったのかもしれない。それで入院しているからお店には来られないとか、そういった事情があるのかも。
憶測の規模がどんどん大きくなっていく。悪い想像が行き着くところまで行ったとき、もしかしたら亡くなってしまったんじゃないかというところにまで発展していた。
この際遠くから姿を見ることができればそれでよかった。銀花さんがちゃんとこの世に存在していることをわたしに証明できればそれで今は満足できる。
けれどわたしは銀花さんがどのあたりに住んでいるのかも知らない。そのくらい知っておかなければこの広い世界で故意に特定の一人に出会うなんてとてもとても難しいだろう。
わたしは彼女の住所を知る方法を一つだけ知っている。けれどそれは法に触れる行為であり銀花さんのプライバシーを侵す行為でもある。同伴をした六月一日の二週間後の六月十五日に彼女が来店しなかったときからわたしはギリギリの自制心で彼女の住所を知りたい欲求を抑えていた。自制心を保つために様々な言い訳をしてその理由に納得したふりをしていた。
――だけど、もう無理。
限界はずっと前に訪れていて、一ヶ月の間でわたしの自制心は完全に壊れてしまっていた。
わたしは近くにだれもいないことを確認してから電源がつきっぱなしになっているバックヤードのパソコンを操作した。
会員証の登録情報から雪野銀花の名を見つけるとそこに記されている情報を手早くメモした。ひとに言えないことをしている緊張感と彼女の秘密を知れた高揚感で胸がどきどきする。
銀花さんの家って港区内なんだ……。それにこの前一緒に行った天王洲アイルもそう遠くない。この場所なら出勤前と退勤後に寄ることができるかも。
それからわたしは仕事がある日は必ず出勤前と退勤後に銀花さんの住むマンションに立ち寄るようになった。オートロック自動ドアの前に広がるエントランスの壁に並ぶ郵便受けの中から『一一〇九 雪野』という表札を見つけたとき、久しぶりに銀花さんのことを身近に感じられて嬉しかった。
数日の内、出勤前に見た郵便受けの中身が退勤後に見るとなくなっていることが何度かあり、それを受け取ったのが銀花さんご本人なのかご家族なのかはわからないけれどここで生活している雪野さんが確かに存在していることはわかった。
だが現状が改善されたとは言いがたい。おそらく彼女宛であろう郵便物の有無が確認できたところで銀花さん本人に会えたわけではない。
これだけ彼女の家に通って会えないとなると、きっと時間帯が悪いせいだとわたしはあたりをつけた。そういえば同伴のときの例外はあれど銀花さんはいつも木曜日の二十一時くらいに来店して二十二時くらいに延長することなく急ぐように退店していた。きっと自由に行動できる時間帯がそのころなのだろう。わたしが働いている間に郵便物が回収されていることを考慮してもその線が妥当な気がする。
わたしは開店時間である二十時には出勤して零時半頃に退勤することが多い。特に銀花さんがいままで来店してくださっていた木曜日はその時間帯で働くことが常であった。
明日は七月五日、……水曜日か。
水曜は毎週丸一日お休みの日だった。これは都合が良い。明日はいつも行くことができないおそらく銀花さんが外出するであろう二十一時から二十二時の間に彼女の住むマンションの下で待ってみよう。そうすれば遠くから姿を見ることくらいは叶うかもしれない。
▼
翌二十二時、わたしは銀花さんの住むマンションの付近でその入り口を見つめていた。この監視を始めてからすでに一時間が経過していた。
あたりは街灯があるとはいえそれなりに暗くてすこし怖い。あと三十分待って駄目なら今日は帰ろうと決めたそのとき入り口の自動ドアが開いた。わたしは目をこらしてそちらを見つめる。そしてそのひとの姿を目の当たりにした瞬間、心臓の鼓動が急激に速まった。
長い黒髪を緩く一本に結い、青い半袖のパーカーを羽織った彼女は間違いなく銀花さんだ。
彼女は暗い面持ちで急いでいるように早足でどこかへと向かう。わたしはもっと長く彼女の姿を見ていたくてその背中を追った。
踏切を渡り急な坂を上ってついた先は六本木より歌舞伎町のネオンを思い出すような、よりギラついた電飾が施された看板が印象的な大きなパチンコ店だった。銀花さんは少し躊躇いがちにその中へ踏み入っていく。開いた自動ドアから騒音が漏れ聞こえてくる。わたしは銀花さんのように中へ入る勇気が出ず、ただ外で彼女が出てくるのを待っていた。
数分後、銀花さんが店から出てきた。その手には車椅子のハンドルが握られている。
車椅子には四十から五十代くらいの女性が座っていた。女性は遠くから見てもわかるくらい銀花さんとは似ていない。話し声や笑い声の大きさから足が不自由なこと以外はいたって健康なように見える。車椅子も電動のようだしわざわざ銀花さんがパチンコ店まで迎えにいく必要があるのかとわたしは疑問に思った。
銀花さんは暗い踏切の上を地面を確認しながら慎重に横切っていく。その間も女性は楽しげに話していた。
わたしが記憶した道順が正しければそろそろ銀花さん自宅につくころだろう。そのとき銀花さんの足が止まった。楽しげにこちらまで届いていた女性の話し声も途絶え、今度はなにやら込み入った話をしているように見える。会話は聞き取れないが車椅子の女性がものすごい剣幕で銀花さんへ詰め寄っている様子にわたしは釘付けになる。
瞬間、突然女性は杖を振りかぶり銀花さんを殴打しはじめた。
杖の先が銀花さんの小さな顔に向かって何度も振り下ろされる。銀花さんはそれを片腕でしのぎながら堪えている。わたしはその一方的な暴力を止めようともせず、ただ体の硬直をそのままに、呆然とその惨状を眺めることしかできなかった。
▼
どうにかして銀花さんを助けなければ。
深夜二時、わたしはろくに眠りもせずいかに彼女を救うかだけを考えていた。
お店に来られなくなったのはもしかしたら介護で忙しくなったからかもしれない。ひとの顔を杖で殴りつけるようなひとだ。きっとわがままをたくさん言って銀花さんはそれに手を焼いていて、その対処に追われているから時間が取れなかったり、疲れてお店に来る元気が残っていない状態なのだろう。
それにしても銀花さんは献身的に介護しているというのに杖で叩いたりするだなんて、そんなことはあってはならない。以前、二回目に会ったときと同伴のときにあった頬の痣はあの女性にやられたものでほぼ確定。銀花さんの顔に傷をつけるなんて、許せない。
どうにかして銀花さんを自由にしてあげたい。あの女性を説得して施設に入ってもらうとか、とにかく銀花さんから距離をとらせたい。それしかきっと穏便に解決する術はない。
今だって銀花さんは苦しんでいるのかもしれない。そう考えると自分のこと以上に辛い。一分一秒でも早く彼女を自由にしなければいけない。それが今のわたしにできる今後銀花さんと生きるための最善の行動なのだから。
今日は木曜日で出勤日だけど仕事に行っている場合じゃない。どうせ銀花さんも来られないだろうし、今わたしが生きるために必要なのは働くことではなく銀花さんを助けること。そうに違いない。
きっと今日もさっきと同じパチンコ店に行けばまたあの女性に会えるかもしれない。わたしは携帯でパチンコ店の営業時間を調べる。サイトには二二時四五分が閉店時間だと書いてあった。そう、さっきは閉店間際の時間だったのね。それなら今日も二二時半ごろに行けばあの女性に会える可能性が高いはず。
銀花さん……絶対にわたしが助けるから。
▼
二〇〇六年七月六日木曜二二時半、昨日と同じパチンコ店の前についた。意を決して店内に踏み込む。中では様々な騒音が鳴り響いていて、席に座っている人達はわたしには目もくれず目の前のビカビカ光る台に夢中になっている。ハンドルを捻ったまま食い入るようにディスプレイに見入る不気味なその人達の間を通って目当ての車椅子の女性を探した。
一階フロアの奥から三列目の一番左端にその女性はいた。右手はパチンコ台のハンドルに、左手は顎に添えて他の客同様に光るディスプレイに夢中になっている。わたしは怖じ気づきながらそのひとに声をかけた。
「あの……」
だがその声は喧噪にかき消されて目の前の女性には届かなかったようで、わたしは再び、今度はもっと大きな声で女性に向けて声を発する。
「あの!」
「なに!」
女性は視線を前に向けたまま怒ったような声で返事をした。その声にひるみながら、わたしは考えてきた嘘を吐いた。
「雪野銀花さんに頼まれて迎えに来ました」
そう伝えれば女性は「ああそうなの」と納得した様子で帰り支度をはじめる。女性は慣れたように店員を呼び、しばらくしてレシートのような紙を受け取ると満足げな表情を浮かべてわたしの方を振り返り「じゃあ景品交換所に行って」とだけ言い背もたれに体を預けた。
「あの……景品交換所ってどこですか」
「銀花ちゃんから聞いてこなかったの? 入り口の近くにいっぱい品物が置いてある場所があったでしょ。そこよ」
知らないひとに怒られてしゅんとしながらわたしは言われた通りの場所へ車椅子を押して女性を連れて行く。景品交換所につくと女性は無言でさきほど手に入れたレシートを店員に差し出した。それと交換するように店員はなにやらプラスチック製の薄いケースを女性に渡す。わたしはその様子を闇取引を目撃するような気持ちで眺めていた。
「次は換金所に行って。わかりにくい場所にあるけど私が言う通りに行けばいいわ」
わたしはまた車椅子を押す。道すがら女性に気になったことを聞いてみた。
「あの、そのプラスチックはなんでしょう?」
「これ? 特殊景品って言って金がプラスチックケースに入れられたもの。あなたもしかしてパチンコしたことないの?」
素直に「はい」と頷くと女性はじゃあ知らなくても当然ねと言った。
その後案内され辿り着いた場所で特殊景品と呼ばれるものが現金に換金される様子を目の当たりにして、自分が普段生活しているものとは別世界の様子を垣間見ているように感じた。
「パチンコのことはわからなくても家への帰り道はわかるわよね?」
「はい。踏切を渡ったあたりですよね」
女性はそうそうと軽い調子で返事をしてから車椅子を動かすようわたしに促した。
▼
わたしが車椅子を押している間女性はずっと話をしていた。話の内容のほとんどはパチンコの当たりがどうのという内容で、わたしにはよくわからなかったから仕事で浮かべるような愛想笑いを浮かべて、はい、はい、と従順に返事をしていた。
そんなとき、ふと女性がわたしに興味を向けた。
「銀花ちゃんに同い年くらいのお友達がいたなんて知らなかったわ」
「銀花さんからなにかわたしの話を聞いたりとかはなかったんですね」
あたりまえか。水商売の女と仲が良いだなんて、きっとあまりだれかに話したい内容じゃないわよね。そう思っても心の隅ではすこし寂しさを感じた。
「仲は良かったの? まぁ私の迎えを頼むくらいだから悪くはないんだろうけど」
「ええ。月に必ず二回も会う関係でした」
「なにして遊ぶの?」
「お喋りをよくしていました」
「銀花ちゃんとお喋り? なに話すのよあの子と」
あぁ、このひとは銀花さんがお喋り好きできれいな景色をたくさん知っていることを知らずに彼女のそばにずっといたのか。かわいそうなひと。
「あの、あなたは銀花さんとはどういったご関係なんでしょうか? 保護者の方ですか?」
「えぇ? 違うわよ。血の繋がりはないし言ってしまえば他人よ。介護してもらってるだけ」
「他人なのにどうして銀花さんがあなたの介護を……」
「この足ね、あの子の母親にやられたものなの。その母親ったら酷いのよ~。私の足を壊したときに自分の旦那さんまで殺しちゃって。それで今は刑務所の中なの」
銀花さんのお母さんが人殺し……?
笑い話のような語調で話をする彼女にはその内容の重大さがわかっていのではないか。
「なにがあったんですか」
「そうねぇ、まぁ話してもいいわよ。銀花ちゃんのお父さんは海が好きなひとでね、よく家族や当時お手伝いさんだった私を自分の船に乗せて海へ連れて出てくれたの」
……すこしだけ知ってる。以前わたしが無理に聞いてしまった海の話。あのとき彼女が辛い様子だったのはこのことがあったからなんだ。
「事件があった日も銀花ちゃんとお父さんと私で海に出ていたの。その日は本当は私とお父さんだけが海に出る予定だったんだけど銀花ちゃんはどうしてもついて来たかったらしくて先に船に忍び込んでいたみたいで、結局私達は三人で船に乗って出発したのだけれど沖に出て少しした頃に船がすごい音を立てて止まってしまってお父さんと私が二人で機関の様子を見に行った。そのとき、機関室で爆発が起こったの。お父さんは火だるまになって死んじゃって、わたしは大きな瓦礫に足を潰されちゃった」
「銀花さんは無事だったんですか?」
「ええ。あの子海に出るときはライフジャケットを着なきゃいけないって約束を律儀に守っていたしダイバーから水難事故の対処法を習っていたから上手く立ち回ったみたい」
わたしは話を聞きながらゆっくりと坂を下りはじめる。コンクリートの斜面をタイヤが転がるたびに車体が小さく振動する。人一人を乗せた車椅子は重く、ハンドルを握る手に力がこもり足取りも慎重になる。
「最終的に銀花ちゃんが近くに停まっていた漁船に助けを求めて、私もなんとか助かった」
「……銀花さんに命を助けてもらったのに、あんな暴力を振るっているんですか」
女性は黙った。その沈黙にわたしは憤りを感じる。
「銀花さんはそんなことのためにあなたを助けたわけでも、ましてやあなたに殴られながら介護するために生きているわけでもない」
「……あなたには関係ないでしょうが! そもそもあの子の母親が機関部に細工なんてしなければだれも死なずにだれも怪我もせずに済んだのに! それもこれも、あの子が私とお父さんの関係を母親に告げ口したからなのよ! 諸悪の根源はいつもあの子なのよ!」
女性は手に持った杖を振り回しながら喚く。わたしは杖から自分の身を守るのに必死で咄嗟に車椅子のハンドルから手を放した。
瞬間、制御の利かなくなった車椅子は急な勾配を滑り落ちていく。加速する車椅子の上で女性は声にならない悲鳴をあげた。
わたしは走り出し、車椅子のハンドルを掴もうと腕を伸ばした。ギリギリ届いたそれをしっかりと握りブレーキをかける。ギギッと鈍い音を立て、線路の上で車椅子は止まった。
「気をつけなさいよ!」女性は唾を飛ばしながらわたしに怒声を浴びせる。それに素直に謝りながら斜めになった車体を正面に向けようと一度後ろへ引いた。
そのとき、ガタン、と車椅子全体がやや斜めに傾く。車体の下を見れば、片方の前輪が線路の溝にはまって脱輪を起こしていた。
わたしは車椅子を持ち上げようと上へ引っ張る。ハンドルを握る手に力を込め、車輪を引き抜こうと何度も引き上げるが、しかし一向に車輪が浮く気配はない。
「ちょっと早くしなさいよ。電車来ちゃうわよ」
女性の声が震えている。彼女の視線の先を向けば、遠くに電車の明かりが見えた。暗い中、すごいスピードでこちらに向かってくるそれにわたしは立ちすくむ。
逃げなきゃ、死ぬ。
直感でそれだけはわかった。
死にたくない。
けれどこのひとはどうするの? 抱えて移動する力はわたしにはない。車椅子だって一向に動く気配がない。わたしは逃げればどうにかなるがこのひとの死だけはどうにもできない。
思考が先行するだけで身は一歩も動かない。焦る女性の声もなにを言っているのか耳に届かない。ただ目を逸らすこともできないまま近付いてくる電車を眺めていた。
不意に、後ろからだれかに抱きしめられた。そのままわたしはわたしを抱きしめているだれかと一緒に後ろへ倒れ込む。
金切り声のようなブレーキ音が耳に届いたのとほとんど同時に形容しがたい衝撃音が耳をつんざく。すぐに車椅子がはねられた音だとわかった。車椅子に乗りっぱなしだったあの女性もきっと一緒に……。
目の前の惨状に意識を持っていかれたままわたしは振り返る。
後ろにいる彼女は震える腕でわたしを抱きしめ続けていた。
「なにしているんだ……シスイ……」
彼女――銀花さんはただ呆然とわたしを見つめていた。