同伴

 今日は待ちに待った同伴の日。どんなところに連れて行ってくださるのだろう? どんなことが起こるのだろう? こんなことが起こったらどう対応すればいい? 電車の中でそんな大して意味もないシミュレートを繰り返す。前回からの二週間、わたしはあらゆる準備をした。今はそれが報われるように祈ることしかできないがこの緊張感すらも愛おしく思えた。

 天王洲アイル駅のアナウンスが流れる。わたしは席を立ち、はやる気持ちを抑えることもしないまま早歩きで電車を降りた。

「さて、」

 わたしは店から貸し出されている携帯電話を開くと銀花さんへ電話をかけた。

『もしもし?』

「もしもしシスイです。今電車を降りて中央口の改札に向かっているところです」

『あぁわかった。わたしも今から改札に向かう。それじゃ』

 通話を切りわたしは中央口を目指す。

 先に待ち合わせ場所である中央口改札前に着いたのはわたしの方で、すぐに彼女に会えなかったことを少し残念に思った。待っている間、駅内に満ちる小さなざわめきなんて気にならなかった。そんなことよりも改札から出てくる銀花さんを今か今かと心待ちにしていた。

 電話の内容的にすでに駅内にはいるみたいだった。早く来ないかなと見つめる改札の先に黒いシャツに七分丈のパーカーを着た彼女を見つけたとき、わたしは後先考えるより先に彼女の元へ駆け出していた。

 彼女の顔を見たとき、わたしは確かな違和感に気がついた。頬に薄く黄色い痣が出来ている。前にできた痣はすでにきれいに治ったことをわたしはこの目で見たから知っているが、今彼女の頬にはまた治りかけの痣があるということはこの二週間の間に新しくそれが作られたということではないか? けれど銀花さんの様子に頬の痣に関してなにか気にしている素振りは見られない。本当になんでもないことなのかもしれないがもし彼女が意識してそれを隠そうとしている可能性が少しでもあるのなら、わたしにはそれを聞き出す勇気はない。

「銀花さんこんばんは」

 それに気がついてしまったことを悟られないように彼女と向かい合って微笑んだ。どうにかして銀花さんの顔の痣から気を紛らわさなきゃと、わたしはあることを期待しながらアピールするようにスカートの裾をひらつかせる。銀花さんならきっと――

「その服、着てくれたんだね」

 ふふ、ほら、気がついてくれた!

「流石に気がつきますよね。銀花さんとお出かけできる折角の機会に恵まれたので頂いたお洋服を必ず着てこようと心に決めていました! ひまわりの指輪も一緒です」

 わたしの右手の薬指に収まる少し時期の早い真夏の花を模したそれをかざして見せた。

「気に入ってくれているようでなによりだよ。似合っているね」

 彼女からのその言葉がなによりも嬉しかった。

「えへへ! ありがとうございます」

 わたしは今一度自身の姿を見下ろした。正直に言うとこのワンピースはわたしからしてもよく似合っていると感じていた。だが似合っているかそうじゃないかは捉える人の主観による。贈り主である彼女に肯定されたことが幸せで、思わず満面の笑みがこぼれた。

 そろそろ行こうかとわたしに声をかけ銀花さんは歩き出す。

「今日はどちらへ?」彼女の隣を歩くわたしは心が弾むのを抑えられない様子で聞いた。

「海を見ながら天王洲アイル内をちょっと散歩して雑貨屋とかを巡ってから食事をしようと思っている。一応聞くけれど食べ物の好き嫌いとか今日は肉の気分じゃないとかあまりお腹はすいていないとか、なにか要望はある? ある程度なら対応出来るように肉も魚も野菜もメニューが豊富なところを予約したけれど」

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です! 苦手なものはありますけどほとんどのものは食べられるのでお気になさらないでください」

「そうか。女性向けの店で基本どの品も量が少なめみたいだから多分デザートまで食べられるんじゃないかな。聞くところによるとティラミスがとてもおいしいらしいよ」

「ふふ。銀花さんって気配り上手なんですね。いろんなことを想定してそれに対応出来るように準備をして。すごいです」

 本当に銀花さんはすごい。ひとのことをよく考えて最善の結果を得られるひと。わたしにはないその器用さに憧れずにはいられない。

「ひとまず目的地までの移動を兼ねていろんな店をまわりながら散歩をしよう」

「はい。わたし普段は引きこもり気味なのでお散歩ってなんだか新鮮です。ここは職場から近いけれど来たことがなかったから余計に」

 わたしは遊歩道の側に広がる海を眺めた。

 運河って初めて来たけれど結構ちゃんと海なんだ……。軽く目を閉じて息を吸えば潮の香りが鼻腔をくすぐる。あまり嗅ぎ慣れていないその香りはとても新鮮で、わたしはそのまま遠くの海面を見ながら何度か深呼吸をした。

 そういえば今までたくさんお話を聞かせていただいたけれど大きなくくりで言えば二つメインの話があるだけでそれ以外のお話をうかがったことがない。以前花と星の話しかないなんて言っていたけれど銀花さんのことだから他にもたくさん話題がありそうな気もする。ここは一つ、彼女に聞いてみてもいいかもしれない。

 わたしは海に向けていた視線を銀花さんへ向け直し口を開いた。

「海の話はないのでしょうか?」

「え?」

 やってしまった。唐突に質問を投げかけられたら誰だってびっくりしてしまうだろう。わたしは補足するように言葉を続ける。

「星空や花畑のお話をしていただいて、あときれいな景色と言えば海かなって思ったんです。どうでしょう?」

 銀花さんは歩きながら顎に手を当てて海を見ながら思い悩む。わたしとは反対側を向いているから彼女の表情はよく見えない。

「銀花さん?」

「あ……あぁ、そうだな……」

 彼女はそれからもしばらく悩んでいるようだった。わたしの中で増す前回同様かなりまずい質問をしてしまったのではないかという心配が杞憂であることを心の奥底で願う。

 彼女はやっと遠慮がちに口を開く。

「……海外のきれいな海に行った経験もあるけれどワタシの思い出に残っているよく行っていた海は言ってしまえばあまり特別きれいというふうではなかったかな。だからきれいな話と前置きをして話す感じじゃない。多分シスイが想像しているのはエメラルドグリーンの海面が透けて小魚や珊瑚が見えている感じのものだろう?」

「はい。沖縄とか宮古島とかの海を想像しています」

「だよね。ワタシが行っていた海はもっとこう……漁が盛んそうな海だったから……」

「漁が盛ん……?」

 わたしは軽く首を傾げて復唱した。

「浜では潮干狩り、沖では釣り……みたいな。そんな海だ。具体的に言うと江ノ島とか九十九里浜とか」

「なるほど。じゃあきれいな景色の話ではなく漠然と覚えていることとか、昔の銀花さんの話が聞きたいです! わたしはきれいじゃなくても銀花さんが観た景色ならなんだって知りたいです」

 彼女のことならなんでも知りたかった。ここまで興味深くひとのことを思うのはわたしにしては珍しい。そう思わせる不思議な魅力が銀花さんにはある。それに彼女はとても謎に満ちた方だと思う。最近は徐々にわたしの方が慣れてきたがなにを考えているのか深く読み取れない表情や、時折つけてくる顔の痣、それに月に二回わたしの元に訪れるときに所持している大金……。最初に出会ったときに宝くじで四十億当てる話を仮定として持ち出していたから、以前妄想したようにもしかしたら何度も高額当選を引き当てているとか? と考えてもみたがそれはあまりに現実的ではない。

 そうこう考えているうちに銀花さんは話すことに目星をつけたらしい。改めて口を開く。

「……昔、父が船を持っていたんだ。船って行っても豪華客船みたいな大したものではなくボートとかミニクルーザーって表現した方が想像しやすそうなものだったんだけれど、それで長期休みには釣りに行ったりインストラクターを連れてダイビングをさせてもらうことがあった」

 小さい物といえど船を持っているってかなり珍しいことなのではないのかな? 少なくともわたしの知人に船を所有しているひとはいない。ご実家自体がある程度の資産を有しているご家庭だったのかな? 



 それにしてもダイビングってあれよね、酸素ボンベを背負って海に潜るやつ。

「ダイビング……! すごい……。銀花さんは泳ぎとか潜水とかが得意なんですか?」

「得意ってほどじゃないけれど、プロで教え方の上手な先生に習っていたから人並み以上くらいにはできていたよ。でもやっていたのは十五歳くらいまででもうかなり海から離れてしまっているから今もできるという確証はない」

「十五歳ですか。あれ、銀花さんって今おいくつでしたっけ?」

「二十二。シスイはいくつ?」

「わたしは二十五です」

 わたしの年齢を聞いて彼女は「お姉さんだったんだね」と少し驚いたように言った。すかさず「でも知識量や人生経験なんかでいえばわたしよりよほど銀花さんのほうが豊富だろうし、精神年齢だってきっと銀花さんの方がお姉さんだと思います」と言えば、銀花さんは今度は食い気味に意見したわたしを不思議に思っているようだった。

「自分が年上だったのは意外?」

「はい。同い年だと思っていたから。……その、わたしが年上だって知ったら話しにくくなってしまったりしませんか?」

 彼女を心配しているようなことを言っているがその実これはわたし自身のことで、ひとの心配をしているふうを装って自分の不安を解消してもらおうとしているところがなんだかとても嫌になる。

 言い訳をすれば、〝三つから五つくらい〟の〝同性〟の年の差が上下関係なしに苦手なだけでむしろ十歳以上の広い差や異性の方とはある程度会話はできる。これは職業柄その対象に慣れただけだろうけれど。

 どうしてそんな限定的な苦手があるのかといえば、まぁ過去のトラウマというか、苦手意識というか。昔入院していたときに同室だった子達と上手く打ち解けられず仲良くできなかったことをいまだに引きずっているという、まるで面白くもなんともない理由で、そのことも含めて微妙な心境にならずにはいられない。

 けれどわたしの心配や不安などよそに銀花さんは寸分たりとも悩まず口を開いた。

「学生時代に流行っていたものなんかの話をするわけじゃないしワタシ達の会話にあまり年齢は関係ないだろう? それにワタシがたとえ年上相手にでも遠慮するタイプに見えるかい? そうでもないだろう?」

 あぁ、銀花さんのこういうところ、大好きだなぁ。

 わたしは自分にとって都合のいい返答を得てとても気分を良くしたらしい。とても緩んだ笑みを浮かべていることが自分でもわかった。

「えっと、それじゃあお話の続きをお願いします!」

 気を取り直して続きをお願いすれば銀花さんは改めて話し出す。

「――そんなふうだったから一切海と関わりがなかったわけじゃないし、むしろ密接だったわけだ。釣りやらサーフィンやらダイビングやら、まぁ一通りの経験はあるが、なかでも好きだったのが飛び込みでね」

「飛び込み、ですか? 岩場の崖からばしゃん! みたいな」

「そのイメージであっているよ。小さい頃はあれが大好きだった」

 高いところから落ちるときの胃が冷えて縮こまる言い得ぬ感覚を身に抱き、わたしは身を抱きながら「ひぇ……」と小さく声を漏らす。

「下手したら死んじゃうじゃないですか」

 着水に失敗したり、底への深さが不十分で海底や岩場にぶつかったり、溺れてしまったり……。短い数秒の間でそれだけ死因が見つかってしまってわたしは一人怯えたが、銀花さんはなんでもないような顔でそのまま話を続ける。

「でもライフジャケットも着てあまり高くない位置から飛ぶ感じだったから死を感じたことはなかったよ」

 だからと言って危険であることには変わりはない。ライフジャケットなどで安全面を考慮するくらいなら行為自体をだれかが止めればいいのにとさえ思う。

「銀花さんはもしかしてスリリングなことが大好きなタイプなんでしょうか……?」

 彼女は「どうだろうね」と笑いながら「今やれって言われたら無理だけど」と付け加える。

「当たり前です! 絶対やっちゃダメですよ」

 大切なことであると言い聞かせるために少々きついの語調で言い、わたしは銀花さんの前に一歩踏み出し振り返ると小指を差し出した。

「危ないことはしないって、約束」

「そんなことまでいちいち約束しなくてもよくない? だってそうそうやる機会ないでしょ」

 大いに呆れながらもっともなことを言う銀花さんに押されながらも、すっかりむきになってしまっていたわたしはそれでも引かなかった。

「一応しておくにこしたことはないはずです。それに銀花さん、約束は絶対に守るって言っていたでしょう? しておけば確約が得られるのならするべきです」

 銀花さんは指切りをして約束をしたことは絶対に守ってくれる。少なくともわたしはそう信じている。だから強引に銀花さんの小指を引っ張り出すとそれと自分の小指を結んだ。

「はい。指切り完了です! 危ないこと、ましてや死にそうなことはしないこと」

 ぐいっと詰め寄って彼女の顔の近く真正面からそう言えば、圧に負けたのか、彼女は「ハイ」と素直で短い言葉を返した。

「でも十五歳までには飛び込みから卒業していたようで安心しました。ああいうのは慣れるともっと高いところから飛んでみたくなる心理が働いたりするみたいですし」

「あぁ、若い層の水難事故はそういう理由のものがわりとあるね」

「はい。でも十五歳のころからほとんど海には行っていないんですよね?」

「うん。ほとんどと言うか、まったく行っていない」

「どうして海に行くのやめちゃったんですか? 飛び込みは危ないからやめたのかもと思いましたが釣りやサーフィンなんかは危険がゼロではないにしても比較的安心してできそうなのに」

「………………」

 銀花さんは深く黙り込んだ。きっとまた言いたくないことに踏み込んでしまったのだろう。

 わたしはどう言葉をかけていいかわからずに、彼女と同じようにただ黙って歩いた。

 二人で押し黙っていたけれど、それでもわたしが彼女の隣を歩き続けられたのは、彼女がずっとわたしに歩幅を合わせてくれていたおかげだと思う。

 結局わたし達はその後会話で盛り上がることもなく、まわりの店にさえ大して見向きもしないままディナーを予約した店に辿り着いてしまった。



   ▼



「あの、銀花さん」

 席に着き注文を終え、水を飲みながら海を眺めている銀花さんにわたしは意を決して話しかけた。大切な話をするために。

「……海は、今でも好きですか?」

 とても悲しそうな顔で海を見つめ続ける彼女の姿に、わたしはもう彼女がどう答えるのかわかってしまった。

「ううん……嫌い」

 店内のさざめきに消えてしまいそうなほど小さな声で答える様子はやはりとても悲しげ。

 今までの様子から、すでに海になにか良くない思い出があることは明白で、それにわたしが中途半端に踏み込んでしまったこともまた明白。この状況をそのままにしておくことも可能だけれど、わたしはそうしたくない。

「じゃあ、どうして今日は海が見えるようなところを選んだのですか? 嫌なことを思い出してしまう可能性を、様々なことを考慮して場所を選んでくださったあなたが失念するとは思えない」

 今日のお出かけのために彼女が様々な下調べをしていたことをわたしは知っている。そうでなければ夕方出会ったときのように今日の予定を話してくれたりするわけがない。

 銀花さんはとうとう俯いてしまった。わたしはそれでもずっと彼女の返事を待っていた。どちらかが話しはじめなければ終わらない沈黙を彼女の方から破ってくれることを祈って。

 そのとき、小さく、本当に僅かに銀花さんの口が動いた。

「……だって、……きみはそういうの好きだろう?」

 その一言は私の心に星の明かりのようなやさしい光を差し込ませた。

「一緒に出かけるって話を出したときすごくうれしそうだったから、だから当日もきみが一番に楽しめる場所はどこかと考えたんだ。店からそう離れていないこのあたりできみが喜びそうな自然が感じられる場所をワタシはこの運河か水族館しか思い浮かばなかった。だが星の話をしたとき、博物館で隕石をみることやプラネタリウムで星空をみることに苦言を呈していた様子から人工で作られた環境はあまり好ましくないのではないかと思った。だから水族館はやめにしてこちらを選んだ。それにきみはワタシを買いかぶり過ぎている。他者への配慮はできても自分への配慮が極めて下手くそな人間なんだワタシは」

 言い訳するみたいに長く饒舌に、けれど変わらずボソボソと対面に座るわたしにぎりぎり聞こえるくらいの声で彼女は喋る。

 わたしはそんな話が聞けるなんて思ってもみていなかったから、突然のことに数秒目を丸くすることしかできなかったが、じきにしっかりと彼女の話の内容を飲み込んでそれを消化できたころには目尻に涙を浮かべながら笑えていた。

「あはは、銀花さんはなんというか、ふふ」

「なに? ちゃんと言ってくれないとわからない。そんなに笑ってないでさ」

「――わたしはあなたのことを勘違いしていたみたいです。銀花さんはなにか努力をせずともスマートにロマンチックな空気を作れるひとで、わたしに夢を見せてくれる。そんなおとぎ話の世界の住人のような存在だと勝手に誤解していました」

「幻滅したかい」

「いいえ違うんです。わたしはずっと、どこかであなたにお返しをしたいと思いながら、同時にあなたが満足できるものなんて何一つわたしからは与えられないと思っていたのだと今気がついたのです」

「きみ、ワタシにお返しがしたいって、なんのだ?」

「銀花さんはわたしにいろいろな景色を教えてくれました。それまでわたしは星空に流星が満ちる様子も、ひまわり畑がお花の香りのするお布団みたいであることも知りませんでした。それらを教えてくれたのは他ならぬ銀花さんです」

「……わたしがきみになにかを与えたことなんてないし、たとえそのようなことが実際にあったとしても、その感情は返報性の原理に過ぎない。ただのよくある心理だ。そのようなものにそこまで気負いする必要はない」

 わたしは首を横に振った。頬に涙が伝う。彼女に気持ちを否定されたからではない。自分の想いを抑えられなくなったからだ。

「この気持ちがたとえ多くの人間がそう思うようにできているせいで抱いている感情だとしても、わたしはわたしの世界を広げてくれたあなたに恩返しがしたい」

「なに泣いてんの」

「えへへ……。わたし変ですね。銀花さんがわたしのために色々と考えてくださったことが今になってどっと押し寄せてきてしまって……」

「なんでもいいけど、料理が来るまでに元通りになっておいてね」

 ぶっきらぼうにしているけれど、そっぽを向いた横顔からただ恥ずかしくて照れているだけなことが読み取れて、わたしはまた少しだけ泣いた。

 もしかしたら今までも彼女はとてもわたしのことを考えて行動してくれていたのかな? それが心労になったこともあったかもしれない。けれどそんな大変な役を背負い続けながらもいつもわたしに会いに来てくれた。彼女はもうおとぎ話の世界の住人ではないが、わたしに夢と希望を与えてくれるひとであることに変わりはなかった。

 銀花さんはそろそろ泣き止んでくれというニュアンスで「ほら、注文していたものが来たよ」とわたしに声をかける。わたしはハンカチで軽く目頭を押さえた。

 銀花さんの視線の先には鉄板に載せられたあたたかくておいしそうなハンバーグとお洒落に盛り付けられたローストビーフをトレーに載せてこちらへ歩いてくる店員さんの姿があった。店員さんが近付いてくるたびにこれまたおいしそうな香りがこちらに漂ってくる。

「思っていたより早かったね」

「はい、お話ししていたらあっという間でした。同伴のときはちょっとくらい出勤に遅刻しても許してもらえるのであまり時間は気にせずに食べて大丈夫ですよ」

「そう、わかった」

 銀花さんはハンバーグへナイフを刺し入れ一口大に切り分けると一片を頬張った。



   ▼



「おいしかったですね~!」

 店を出たわたし達は外のベンチに腰掛けて海を眺めていた。

「銀花さんが言っていた通りデザートはティラミスにして正解でした。とってもおいしかったです」

 満腹感に身をゆだね、片手でお腹をさすりながら先程食べた料理達に思いをはせる。ローストビーフにティラミスにりんごジュース。どれもとてもおいしかった。

「ネットの評判を鵜呑みにして言っただけなんだけどね」

「ネットから真実を選び抜いて他者に提供できるということはとてもすごいことです」

 わたしなんてネットの情報じゃなくても嘘を信じ込んでしまったり、あまつさえ良かれと思ってそれを他人に吹き込んでしまったりとわりと散々だから、よりそう感じる。

「まぁいいさ。ひとまずそろそろ店に向かうとしようか」

 銀花さんは腕時計を確認する。横目でそれを覗くと出勤時間の三〇分前を示していた。

「そうですね。時間的にもそろそろ頃合いです――っとその前に……!」

 立ち上がってタクシー乗り場へ向かいかけた足を止め、わたしはまわりに人がいないのを良いことに遊歩道のど真ん中であることも気にせず鼻歌を奏でながらバッグの中をあさる。

 たしか、あれは内ポケットの中にしまったはず……!

 しばらくバッグの側面を撫でて目当てのポケットのファスナーを開けようとしたところでわたしは異変に気がつく。

 ないのである。ファスナーどころか内ポケットそのものが。

 あれ……? あれ? なんで――……あっ。

 思い出した。わたし、家を出る前に「やっぱりあっちのバッグの方がこの服に似合う」って思い直してバッグを変えたんだった。きっとそのときに入れ替えるのを忘れたんだ……。ということはかなり高い確率で他の忘れ物もあるんじゃ……。

「あの……」

「なんだい?」

「プレゼントを、忘れました」

「は?」

 わたしはわたわた慌てながら違うんですと弁明を試みたがすぐに「いや……やっぱりなにも違くないです……」と口をもごつかせる。

「前に、このお洋服と指輪を頂いたじゃないですか。そのお返しをしたいと思って、僭越ながらプレゼントを用意したんです」

「それを今日渡そうとして忘れたんだね」

「はい……。すみません……ほんとうにすみません……」

「いや、構わないよ。それより客にお返しとかしていいの? 怒られるんじゃない?」

「あまり良い顔はされないと思います。ですが渡したかったんです。手土産の一つにでもできたらいいと思って用意したのですが……」

 お店のひとに良い顔をされないようなことをしようとして、挙句失敗に終わって。自業自得とはいえ落ち込んでしまう。どうして今日一番楽しみにしていたものを忘れてしまったのだろう。これまでも数々の過ちを銀花さんに対して犯してきたが、今日は本当にいくつ失態を重ねれば気が済むんだというくらい様々なことが裏目に出ている。それに――

「それともう一つやらかしがありまして、……携帯も忘れました」

「あれ? 待ち合わせのときは持っていたじゃないか」

「あのとき使っていたのはお店から貸し出されているもので、私用は禁止されているんです」

「要するに私用で携帯が必要だってこと?」

 わたしは肩を落としながら頷いた。

「ええ。写メが撮りたくて……」

「写メ?」

「はい。銀花さんと一緒に写真が撮りたかったんです。お店じゃ難しいから、今日がチャンスだと思って。でも忘れちゃいました」

 今日どうしてもしたかったことその二。そして自分の不注意で叶わなかったことその二。

 なにもすべてのひととお出かけするときに毎度写メを撮っているわけではない。どうしてもなにか形として残したい銀花さんとの初めての外出だったから撮りたかったのだ。

 泣くことはなかったがとても落ち込んだのは確かだ。そんなわたしを見かねたのか、銀花さんは自らの肩から下がる麻製の大きくてしっかりしたショルダーバッグからなにかを取り出した。それは比較的新しそうで小綺麗なポラロイドカメラだった。

 わたしは街灯の明かりで浮き彫りになるカメラのシルエットに釘付けになる。

「すごいです、銀花さん……! まさかわたしが写真を撮りたがり携帯を忘れることを見越してポラロイドカメラを……!?」

 わたしはカメラを見つめながらはしゃいだ。銀花さんは微笑みながらそれを否定する。

「そんなわけないでしょ。たまたまだよ」

「本当に偶然ですか? まさか未来予知や千里眼の類いじゃ……」

「違う違う。知ってる? 毎年六月一日は写真の日らしいよ。だから余裕があったら写真でも撮ろうと一応持ってきていたんだ」

「銀花さんは結構行事を楽しむタイプなんですね」

「まぁね」

「ふふ。銀花さんのおかげでツーショットが撮れますね!」

 そう言って笑うわたしに銀花さんは優しい微笑を向ける。その笑顔は星明かりのように静かに輝いている。その柔らかな輝きがまぶしくて、わたしは目を細めた。

「明るいところへ移動しよう。照明がないとよく写らないからね」

 わたしの手を取って銀花さんはやや早足で歩き出した。

 近くにあった橋の上まで来ると銀花さんはなにやらカメラをいじり出す。多分フィルムを確認したりだとか、なにか細かい設定をしているのかもしれない。

 その後わたし達は天王洲ふれあい橋の上で一枚写真を撮った。それをわたしに渡すと、銀花さんはカメラをショルダーバッグにしまった。

 彼女は鞄の口を閉めながら「これで満足?」と聞く。

「はい! あ、でも写真のお礼も兼ねて今までのお返しのプレゼントはちゃんと後日渡させてください。銀花さんに似合うと思って買った物ですから、ぜひ受け取ってもらいたいです」

「似合う? 服飾用品でも買ったの?」

「はい」

 絶対に似合いますよと言い切るとわたしはそれを身につけている銀花さんを想像した。

 前回会ってからの二週間の間に以前頂いたひまわりの指輪と同じシリーズのピアスを偶然通販で見つけたのである。銀花さんの耳にちゃんとピアスホールが開いていることは確認済みで、ピアスがとても似合うことも知っていたから迷わず注文した。

 銀花さんはわたしが彼女の耳に金色のひまわりが飾られることをどれほど楽しみにしているかなんて全然わかっていないだろうけれど、それでもよかった。

 もっと二人きりの時間があれば良いのにと思う気持ちを抑えながらわたしは店に向かうためタクシー乗り場を目指す銀花さんに続く。もし、今日の空に星が見えたなら、このわがままな願いを叶えてくれる可能性もあったのかな、なんて妄想しながら。



   ▼



 それからわたしたちはいつも通りのあのVIPフロアの片隅でお酒を飲んだ。

 今日のわたしはとてもお酒のまわりが早いみたいで、なんだか体がほわほわして気持ちが良い。銀花さんの話を聞くのも忘れてわたしは自分の話をたくさんしてしまう。それが止められなくて、むしろ止めるどころかもっとわたしのことを知ってもらいたくなってしまって、どんどん口を滑らせる。

 そんなとき、緩やかな時が流れる空間に聞き慣れないメロディーが鳴り響く。初めて聞くその音色は銀花さんの携帯の着信音だったらしい。

 彼女は携帯のサブディスプレイを見ると酔っているわたしでもわかるくらい血相を変えた。青ざめた顔のまま「ごめんシスイ。用事が入ったから今日はここまでだ。会計を頼む」とわたしに伝えると荷物をまとめて席を立つ。

「なんで? ――……わかった。今行く」

 通話相手の声は聞こえないし銀花さんの話す内容から会話を推測することもできないが彼女の声色からあまり好ましくない急用であることだけはなんとなくわかった。

 良くない用事なら無視してわたしと一緒にいてほしいなんて欲を口に出すこともできず、わたしは会計のためにボーイを呼ぶ。

 銀花さんは黒い革の長財布の中からいつもより多く万札を取り出しトレーに置くと「釣りは要らない」と残して店を出て行ってしまった。

 わたしは彼女が去った後のフロントで差し出す機会を見失ったままの行き場のない自らの小指を見下ろしていた。



   ▼



 バックヤードの監視カメラで誰もいない店先を眺める。誰もいない。勿論銀花さんも。

 今日は、指切り、できなかったな……。

 わたしと銀花さんにとって大切な約束。他人からしたら大した問題ではないのだろうが、わたしからしたらたったそれだけで済ませられる問題ではなかった。

 結局次回の予約も取れなかった。お別れのとき、今日のお礼も言えなかった。

 後悔と不安で胸がざわつく。そのざわめきが気持ち悪くて、わたしはドレスの胸元をぐしゃりと握った。

 どうしよう、銀花さんとわたしの出会いに次がなかったら……。

 指切りをして別れていたときは必ず次があると信じられた。それは今まで銀花さんがそうやってした約束を必ず守ってくれていたから。

 けれど今日はそれができなかった。絶対の確約を得られなかった。

 二週間後……来てくれるわよね……?

 不安で息が苦しくなる。ヒュー……ヒュー……と細くかすれた息を吐いていると、昔のことを思い出す。入院続きで、長く生きられてもずっといろんな肺の疾患のリスクを抱えたまま生活することになるなんて医者に言われて、合わない薬をたくさん飲んで副作用で起きられなくなって。

 いやに鮮明に思い出せたそれが胸に突き刺さる。

 ――わたしは、生きたい。いつ再発するかわからない病気を抱えながらでも死なないために、これからの未来をこの目で見るために生きるって決めたんだから。この仕事だって生きるために必要だから……、だから頑張らなきゃいけないの。でも――

 でも銀花さんが来てくれなくなったらもう頑張れないかもしれない。

 あぁもしかしたら、わたしは銀花さんに会うために生きているのかもしれない。

 ただ漠然と生きることを目標に掲げることしかできなかったわたしに、銀花さんに会うという〝生きがい〟ができたんだ。もし、銀花さんが店に来なくなったりなんてしたら、その生きがいを得られないのなら、もう生きる意味がないのと同然ではないの……?

 初めてしっかり現在の自分の状態を認識したかもしれない。

 今のわたしは、銀花さんに会うためだけにこの店で働いている。生きるために銀花さんに会っている。そう認めたら、今までの気持ちに納得がいった。

 わたし、銀花さんのことが大好きなんだ。

 心臓が跳ねる。鼓動は強く、その動きに急かされるようにみるみる顔が赤くなっていく。

 恋をしているのね、わたし、銀花さんに。そうか。だから特別なプレゼントを渡したいって思ったり、なにもなくても彼女のことで頭がいっぱいになって、彼女のことを想うとなんて言い表して良いかわからない胸のむずがゆさを感じるのね。

 きっと彼女が与えてくれる様々な感情や感覚を恋と総称するのでしょう?

 どうかわたしが二週間後のその先も生きていられるように、また会いに来てください。

 そしてまた、あなたに恋しているわたしにたくさんのきれいなお話を聞かせてください。  

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