来店6回目
銀花さんはすりガラス越しに見えるぼやけたネオン街を見下ろしている。酷くつまらないものを見ているようなその視線が気になって、わたしは「外が気になりますか?」と問いかけた。彼女はそれに曖昧な相槌を返すとこちらを向いた。そのままずっとわたしの目を見つめ返すものだから、わたしはただきょとんとした笑みを浮かべた。
約束通り今日も銀花さんはわたしの元に来てくれた。それはただ誰かに話を聞いてもらいたいだけだってわかっているけれど、その誰かにわたしを選んでくれたことが嬉しかった。
「今日はなんのお話をしてもらおうか事前に考えてきました!」
前回はなにを聞こうか決めかねて銀花さんを困らせてしまったから、今日はそうならないようにこの二週間の間に聞きたいことをリストアップして優先順位を定めておいた。銀花さんはそんなわたしをしばし見つめた後、「何を話せば良い?」と小さく体をこちらに向けた。
「また星の話が聞きたいです」
「星……の話」
わたしの素早い返答を彼女はやや難しい顔をしながら復唱した。その難しい顔のまま「星の話には花の話みたいな続きはないよ」と言ったが、わたしは「でも聞きたいんです。なにかないでしょうか?」とわがままにも食い下がった。
なんてずるい女だろう。わたしは続きはなくとも話すことがないわけじゃないことをわかっていてそれを追求していた。
「参ったな」
困ったようにそう呟いた彼女も話せることがゼロではないことに気がついているとわたしは思った。それと同時に、あともう一押しであることもめざとく察していた。
どうしたものかと頭を掻いた彼女に追い打ちを掛けるように「二週間星の話のことばかり考えてました!」と笑顔で言い放ったわたしは本当にずるくてイヤな女だと思う。
とてもとても考えて、彼女は自信なさげに口を開く。
「その……、続きと言うほどでもないんだが……いや、でもな……」
「なにかあるんでしょうか?」
「ある……というか、あるんだが、うーん……」
「込み入った事情があってお話できないとか……?」
「いや、うーん……込み入っては……。だがなぁ……」
「込み入っていないならお聞かせください! ぜひ!」
銀花さんはもう一度「参ったな」と呟いて、そしてまた何度か躊躇った後に渋々話し出す。
「続きではないんだが、関連の話なら。でもどうしても聞きたいわけ?」
「はい!」
肯定以外の返事を発するなんてありえなかった。
「……そうか。では仕方がないからワタシがあの日星に願ったことの一つをきみに教えよう」
わたしはその言葉を期待していたし、それが降ってくることもどこかわかっていた。けれど思わず背筋を伸ばさずにはいられなかった。きっと今のわたしの瞳はキラキラと輝いていると思う。
「いいんですか?」
「ふぅ……、いいもなにもないだろう。きみが星の話がいいって言うんだ。関連がある話なんてこれくらいしかない」
すっかり呆れているような表情を受けて、わたしは怒られているような気持ちになった。少なからず銀花さんを困らせてしまったことに変わりはない。「わがままを言ってしまってごめんなさい」そう素直に謝れば、彼女は「いいよ、そんな申し訳なさそうな顔をしなくっても怒ったりなんてしないさ」と小さく微笑んでくれた。
「ありがとうございます。それで、銀花さんが願ったことって?」
ほんの少し息を吐いて、銀花さんは簡潔に答えた。
「あの日の願い事の一つ、ワタシは〝またあのひまわりが咲きますように〟と願ったんだ」
自分の浅ましさがこれほど嫌になったこともそうない。それほど、聞いてしまったことを後悔している自分がいた。
「ひまわりは洪水で……」
「そう。流星に願った年の梅雨だったんだ、洪水が起きたの。ひまわりは咲かなかった。いや咲けなかったんだ」
咲けなかった……。その言葉からは悔しさのようなものが滲んでいた。
わたしは肩を落とした。落ち込んだと言えばそれまでだが、それ以上に銀花さんの心情を考えるとやるせなかった。
「洪水さえ起きなければ、銀花さんの願いは叶ったのに……」
か細くそう言うとわたしはうなだれた。
そんなわたしを見かねたのか、銀花さんは柔らかな声をわたしに向ける。
「きみは――シスイなら流星になにを願う?」
「わたしだったら」
呟いて、窓の外を見た。すりガラスの窓からじゃ外をうかがうことはできなかったけれど、ずっとずっと遠くまで続いているだろう空が真っ暗でとても寂しげであることだけはわかった。わたしはガラスの向こうの空を、なんにもない空をそれでも見つめ続ける。
「この空にもし、星が降り注いだとして、わたしだったら……、銀花さんにこれからも様々な景色を教えてもらいたいって願います」
「そんなことでいいのかい? もっと願うべきことがあるんじゃないか?」
「いえいえ! むしろそれが第一というか、それしかないくらいです!」
わたしは元気いっぱいに言い切った。それが本心だったから。そして続けて問う。
「銀花さんだったら今、なにを願いますか?」
銀花さんは口を僅かに開けたまま呆然とした様子で黙った。壁掛け時計の秒針の音と周囲の笑い声が遠くに聞こえる中、しばらくして硬直を解いた銀花さんは今度は困り顔で笑う。それはわたしの質問への返答を穏便に誤魔化そうとしているようだった。
「……あぁ、そうだ。この店って一緒に外出ができるんだよね?」
その一言は先程の彼女の誤魔化しからわたしの気を逸らすのに充分だった。
「はい。同伴可能ですよ。……もしや?」
銀花さんは「そのもしやだよ」と小さく笑う。曇りのない柔らかであたたかな表情を向けられて、心が不思議なむずがゆさに見舞われる。それをどうすることもできず、わたしはそっと胸の中心に両手を当てた。伝う鼓動は、ちょっと速い。
期待を胸いっぱいに抱きながらはしゃぐわたしを優しく見守る彼女の笑みに安心した。たとえその誘いが誤魔化しから出たものであったとしても、嬉しいことに変わりはなかった。
「ふふ、やったー! どこへ連れて行ってくださるかもうお決まりになっていたりするのでしょうか?」
「まぁね。そんなにうれしい?」
「もちろん! 銀花さんと同じものを体験できるだなんて夢のようです。詳細はまだ内緒ですか?」
銀花さんは「まだ」とだけ答えた。でも顔は少しくらい話してしまいたいという雰囲気をまとっていて、彼女も楽しみにしていることがうかがえてわたしは余計に浮かれてしまう。
「では当日までのお楽しみですね!」
わたしは二週間後のことで頭がいっぱいになった。
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「それじゃあ十八時から二十時の開店まで一緒に出かけるってことになるけど大丈夫? ワタシの接客のあとにも他の客の相手をしなければならないだろうし、あまり長く遊ぶと疲れないかい?」
「心配ご無用です! こう見えて結構体力に自信ありです!」
フレアー状の半袖から覗く二の腕に力こぶを作って見せる。わたしにとって精一杯の元気です! というアピールのつもりだったのだが、しかし銀花さんには失笑されてしまった。
「きみ、以前小さい頃は布団と友達だったって言ってなかったっけ?」
「過去は過去です。今は平均より身長も大きくなりましたし仕事をして体力もつきました。だから大丈夫です。当日、素敵な一日になるように楽しみにしています」
今でも無理をすると発作が起こるけれど、わたしは小さな嘘を吐いた。銀花さんには元気な様子しか見せたくなかった。
わたしは彼女を安心させるために笑った。そして小指を差し出して〝またねの約束〟を促す。銀花さんは今日もそれに応えてくれた。
「また二週間後、今度は外でお会いしましょう」
「ああ」
ほとんど同時に離れた小指を少し恨めしく思いながら見つめる。ずっと繋がっていればいいのになんて思ってしまうのはきっとわたしの方だけ。少しでもわたしとの別れを惜しんでくれたらなんてまたおかしなことを考えながら、今日も彼女の後ろ姿を見送った。
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着替えを済ませてわたしは店を後にする。今日は滞りなく業務を全うすることができた。入社したてのころはどうしたらいいのかわからなくてバックヤードで涙を流して白い目を向けられたりもしたが流石に三年やっていると慣れてもくる。けれどわたしはこの仕事にいまだに負い目を感じていて、その慣れすらもあまり気持ちよく受け入れられない。
いつまでこんな仕事をやっているんだろう……。毎日のようにお酒を飲んで、よくわからない話に相槌を打って、思ってもない褒め言葉やお世辞を吐いて……。そんなの、わたしには向いてないと思う。
この仕事をはじめたのだって、元はといえば生きるために過ぎない。
「はぁ……。お母さんに水商売やってますなんて言ったら怒られるだろうな。薬を飲む身でお酒なんて言語道断って。でもソフトドリンクじゃちょっと格好がつかないしなぁ……」
過去は過去です、なんて自信ありげに言ったけれど、誰よりも過去に囚われているわたしはどうしようもない人間だなぁと自己嫌悪に陥る。銀花さんもこんなふうに自分をどうしようもない人間だと思う瞬間があるのだろうか。あってもなくても、わたしの今後の状態が改善されるわけではないと思うのだけれど、彼女のことを考えている今の状態だけは楽にすることが出来た。
「それにしても……」
今日は銀花さんとの会話の中で変な空気が生じることが多かった気がする。前回困らせてしまったから前もって話題を準備してきていたがその話題の選択でまた困らせてしまうだなんて……。
叶わなかった願い事の話を聞けると聞いたときはとても嬉しかったけれど、その内容が彼女にとって苦い過去であったことは確かで、どう捉えても余計なことに首を突っ込んだようになってしまったことが申し訳ない。
そしてあの質問――『銀花さんだったら今、なにを願いますか?』
……あれはそんなに答えにくい質問だったのかな?
「はぁ……」
わたしはまた溜め息を吐いた。彼女との短い時間の中で二度も気まずい空気を生むなんて、それを悔いて今後ないようにするべきことだ。
六本木の景色は今日も変わらず。ビルの群が輝く下に多くの人がいる。多分みんなわたしの知らない人で、今後もわたしの人生になんの影響も与えない人。店に来るお客様だってそう。小さな影響力はあるかもしれないけれど、きっと他と変わらない。
けれど銀花さんは違う。彼女は素敵なお話を聞かせてくれる。わたしに夢を見させてくれる。それだけで他と大きく違った。すでにわたしの人生に大きな影響を与えている彼女を他と同じ位に置くなんてできない。
この街でわたしは偽りの笑みを浮かべてお客様へ媚びを売る。けれど、銀花さんにだけは違う。わたしはあのお店のシスイとしてではなくただひとりの沓澤紫水として彼女に接している……つもりだ。そう思っていないとまた二週間頑張れない。
銀花さんに会うまでの二週間は言ってしまえば準備期間のようなものだ。それ以下のことはあるかもしれないがそれ以上であることはない。わたしは確かにそう思って日々を生きている。寝ても夢は見られないけれど彼女のお話を聞けば夢を見ることができた。わたしは夢を見るための準備に二週間かけている。夢を見るため、夢を分け与えてくれる銀花さんに会うために、ドレスを選びメイクを研究し話題や返答を考え他のお客様の接客をしている。
最近わたしの目の先にはいつだって銀花さんがいる。それが他のお客様への接客に対する億劫さを和らげてくれる。
夢という空想的な願望のために生きるひとが少なからずいるらしい。おそらくわたしもその人種に違いない。
「はぁ……――あ、また溜め息……」
溜め息を吐くと幸せが逃げていくって誰かが言っていた。わたし今日何度溜め息を吐いたっけ? ……あぁ、でも人生の中で生じる不幸と幸福は合計すればゼロになるとかなんとか……たしか幸福量保存の法則とか幸福量一定の法則とかって名前の、そんな非科学的なものがあったような……。溜め息を吐いて幸福が逃げていくことを小さな不幸とするならば、それを帳消しにする小さな幸福が舞い込んでくるはず。それがいつになるのかはさっぱりわからないけれど。
上空を見上げた。やっぱり星一つ浮かんでいないそこには深い闇が広がっていた。月すらも灰色の雲で隠れてしまっていてなんだかとても寂しかったけれど、銀花さんもこの空の下にいる、そう思うだけで少し笑顔になれた。
――願わくはまた、彼女の上に沢山の星が流れますように。
なにに願うでもなく、わたしは心の中で呟いた。