来店5回目
「ひまわりはどうして夏に咲くんだろうな?」
銀花さんは遠くを見つめながらそういうと一口お酒を飲み下した。わたしは突然発せられた謎の問いを疑問に感じながらその返答を考える。
「気候が合っているからでしょうか?」
「はは。そうだね。でもワタシが問うているのはそういう話ではなく――いや、いいや。やめにしよう、この話は」
彼女がいいと言うのならそれで終わりにしていい話題だとわたしは判断した。だからそれ以上言及することなく場の空気に身をゆだねる。
「なにか、ワタシに聞きたいこととかないかな?」
「質問、ですか?」
そんなのいっぱいあるわ。けれど全部を聞けるわけがないから、わたしは慎重に自分と彼女の両者を尊重しながら質問を選びはじめる。
今までお話ししてもらったものたちに続きがあるのならそれも聞きたいし、星に願った内容も気になるし、あとは銀花さん自身のことももっと聞きたい……。
自分では気がつかなかったがわたしは長く沈黙を続けていたらしい。銀花さんが先に無言の空間に切り込みを入れた。
「なければいいよ。いつもどおりワタシが勝手に喋る」
わたしは慌てて話を続けようとする彼女の言葉を遮った。
聞きたいこと、本当にいっぱいあるのに……優柔不断で機会を棒に振ったら勿体ないわ。
「あの、そうですね……、もしよろしければひまわりの話をまた聞きたいです」
「ひまわりの話かい?」
意外な言葉が降ってきたように、彼女はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっている。そんなにびっくりする話題だったかな? と思いながらも、わたしは言葉を続けた。
「はい。この前お話ししてくださったひまわり畑の話。もし、続きなどがあるようでしたらもっとお聞きしたいです」
「えっと、そうだな。どこまで話したっけ?」
「ひまわり畑はお布団の香りがするってところまでです」
「それはだいぶ語弊があるような気がするが、まぁいい。それじゃあ季節真っ盛りなのに枯れてしまっているひまわりがいた話はしたかな?」
「いえ、そちらはまだうかがっていません」
初めて聞く内容に胸をドキドキさせながら、それでもそれを悟られるのはなんだか少し恥ずかしい気がして、わたしは少々厳かな面持ちで返答した。だがそのお堅い表情はそう長くは続かず、すでにわたしの口元は緩やかな弧を描いていた。
銀花さんは小さく咳払いをしてから話出した。
「ではその話をしようか。ワタシがよく訪れていた花畑には黄色くて鮮やかで、元気の象徴みたいな花が溢れていたんだ。それはみな同じ花で、同じように陽に向かって咲いていた。けれどその中に一本だけ、うなだれて花びらの先が茶色くなってしまっている子がいたんだ。枯れかけ花を見てワタシは〝この子はもう死ぬな〟と感じた。それほどまでに弱っていたんだ、そのひまわりは。ワタシはそのひまわりがとても心配になって、茎に白いリボンを巻いて目印を付けると毎日のように様子を見に行った」
一度だって実際に目にしたことはないその光景が目の前に広がるように鮮明に思い起こされた。それは不思議とその枯れかけのひまわりの視点だった。周りでは自分と同じような年齢の子達が元気に過ごしているのに、自分は生きることで精一杯な死にかけで、それでも世界や未来に未練があって……。死にたくない一心で震える身を動かして栄養を摂取しようと足掻く。
まるで過去のわたしのよう。
「その子は死んでしまったのですか?」
「いや、結果的にその子は他の花と同じくらいまで生きた。他の花が散っていく頃まで堪えて、他の花が朽ちるときに共に朽ちた」
「そうですか……、長く生きられたのならよかった」
わたしはまた想像の中のひまわりに自分を重ねていた。何度も何度も『産まれてきたことが間違いだった』と思いながら、それでも生を受けた以上は生きたいと、強欲に貪欲に明日を欲する。知りもしないひまわりの話のはずなのに無関係には思えなくて、想いが溢れる。
「その子は夏の只中に死にかけたけれど夏の終わりまで生を全うして見せた。――だが実はね、この話はそれで終わらないんだ」
それで終わらない……?
その疑問をわたしは声にせず、視線で続きを促した。
「咲いたんだよ。もう一度」
「え?」
「夏が終わり、秋も終わりに近付いたころ、季節外れに一本だけ、あのひまわりが咲いていた場所とまったく同じ位置でまたひまわりが咲いたんだ。ワタシはあの子が生き返ったのだと本気で思った」
秋の涼やかな広野に咲く一本のひまわり。わたしが想像したそれは寂しげであった。
「だけど咲いた花は季節に順応出来ずにすぐに枯れた。あの夏に見せた逞しさは失われてしまっていたんだ」
わたしは俯いていた目を上げて銀花さんの瞳を見つめた。彼女の瞳にはやるせない後悔や自責が滲んでいた。
「枯れたひまわりは次の夏には咲かなかった。なんでわかるのかって? 全部のひまわりが咲かなかったからさ。晩秋を知るひまわりは次の梅雨に仲間を引き連れて洪水で全滅したさ」
わたしはどこかハッピーエンドを求めていた。翌年も元気にその思い出のひまわりが咲き誇る未来を期待していた。――けれどそれは叶わなかった。過去の出来事だ。今更覆すことは出来ない。
銀花さんは背もたれに身を預け天井を眺めているが実際には天井なんかじゃなくて想起した自らの過去を眺めているのだと思う。わたしは思い出に浸っている銀花さんの邪魔しないように意識しながら静かに問いかけた。
「銀花さんにそのひまわり畑に連れて行ってもらっても、その、二度咲いたひまわりには会えないのですか?」
「そうだね。あの子にはどう頑張っても会えない。絶対に。でも今は新しいひまわりが咲いているから、ほとんど同じ景色を見せることができるよ」
わたしの顔も銀花さんの顔も曇っていた。けれどわたしはこの話はこんな暗い顔で終えてはいけないものだと思ったから、今できる精一杯の笑顔を浮かべた。
「二度も枯れてしまったかもしれません。洪水で流されたり、根を腐らせてしまったかもしれません。だけど、あなたに、銀花さんに覚えてもらえているそのひまわりは、きっと今も銀花さんの心の中で咲いているのだと思います」
銀花さんにとって大切な思い出であり続けているそのひまわりは羨ましいくらいに幸せ者だ。だって彼女の心の真ん中にいつだって咲いていられるのだから。
わたしは銀花さんの名前を聞いたとき冬の情景を思い浮かべたことを思い出した。けれど今は違う。今は星が降り注ぎ秋風が吹く広野に寂しげな様子で一本だけ咲いたひまわりが思い起こされる。
きっとわたしの中の銀花さんはそんな不可侵の世界を体現した存在なんだ。
銀花さんは溜め息を吐いてから口を開いた。
「きみは、秋に咲くひまわりをどう思う?」
「うーん……。生に未練があって、生に執念深くて、生に貪欲。そんなふうに思えます。生きることに必死で太陽を眺めているのだって生きるために過ぎない行為なんだろうなって」
それは秋に咲くひまわりの印象と言うより〝秋に咲いたひまわりに自分を重ねてしまうわたし〟に抱いた印象とも言えた。
銀花さんは頷いて肯定してくれた。その肯定を受けて、わたしは再び話出した。
「きっと少しでも生きたくて、生きることに必死なんです、秋に咲くひまわりは」
また、まるで自分のことを語るみたいに言った。
「銀花さんは」
「え?」
「銀花さんはどう思いますか? 秋に咲くひまわりのこと」
聞きたかった。彼女の口から彼女が秋に咲くひまわりをどう思っているのかを。
わたしの視線は銀花さんを射貫いてしまうのではないかと感じてしまうほど彼女のことを見つめていた。
「ワタシは狂っていると思うよ。季節外れに咲いた花のことを〝狂い咲き〟と言うんだ。まぁ生け花の世界なんかでは『狂う』という言葉は良くないからと返り咲きの方がよく用いられるのだけれど。時期を間違えて咲く花は種類なんて関係無く全て狂っていると思うよ。それこそきみが言ったように「生きたい」と異常な未練や執着を抱いているところとかね」
秋に咲くひまわりは狂っている――。
銀花さんの答えもまた正しいと思えた。そしてその答えはわたしにも適応できてしまう。
「銀花さん」
彼女の名を呼んだ。こんなに冬を思わす名前なのに今じゃすっかり秋の星空とひまわりのイメージがついてしまった。
「そろそろお時間が……。次のご予約はいかがいたしましょう?」
銀花さんとお話ししているとすぐにギリギリの時間になってしまう。時間を忘れて話が出来る相手が出来たのはいつぶりだろう? もしかしたら今までもいなかったかもしれない。
銀花さんは消え入りそうな声で「二週間後、今日と同じ時間にお願いしたい」と言った。私は笑顔でそれを受けた。
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今日もわたし達は約束を交わした。互いの小指同士を絡ませる優しいひととき。けれど銀花さんと離ればなれになってしまう寂しいひとときでもある。そんな切なくて愛おしい〝いつも〟の時間がわたしは好き。
多分酔っているんだと思う。わたしは、銀花さんとわたしの関係に。
わたしは監視カメラのモニターに目を向ける。店先を映し出すそれに彼女の姿はもうない。
大抵彼女はいつもわたしがバックヤードに戻るよりも早く店の前からいなくなる。もう少し名残惜しそうに店の前で待ってくれてもいいのにと思うのは間違いなくわたしのわがまま。
銀花さんは帰ってからなにをするのかしら。もしかしたら帰り道に寄り道をするかもしれない。だとすればどこへ寄るのかな。銀花さんはとても華奢だけどちゃんと食事はとっているのかな。でもそういえばうちで注文した食事はちゃんと残さず食べてくれている。ということは少なくとも今日はお腹をすかして帰っているわけじゃないからどこかで買い食いをしたりとかはしないのだろうか……。
「はぁ」
溜め息が漏れた。近頃のわたしはどうかしている。あまりに、過剰に、銀花さんを意識しすぎている。理由はわからない。彼女が貴重な同性のお得意様だからだろうか。
…………いいや違う。そんな理由じゃない。理由はわからないけれど彼女が同性だからとかお得意さまだからとかそういうことはこの問題には関係がないのだ。きっと。
「なにに対しても理由や原因を求めるのはダメね」
鏡の前に腰掛けて自分の顔を見つめる。幸が薄そうなその面構えからはひまわりの要素は見受けられない。試しにニコリと笑みを浮かべてみたがその作り上げられた営業スマイルがひまわりのようであっていいものかとむしろ悩ましく考え耽ってしまう。
やっぱりわたしは銀花さんの言うようにひまわりらしくはないわ……。おそらく銀花さんもそれほどわたしに対してひまわりの印象を強く持っていないことでしょう。
元気な黄色い花が似合わないことを残念に思う自分に向けて、わかりきっていたことでしょうと心の中で呟いた。
監視カメラのモニターで今度は客席を見る。繁盛しているというわけでもないがガラガラというわけでもない。けれどヘルプが必要なふうにも見えない。わたしの出番はないということだ。そんなことは常なので、そういうものよねと納得して窓の外へ視線を移した。
夏に死にかけ、けれど持ちこたえ、命を全うして朽ち、秋にもう一度咲いたもう二度と咲かないひまわり。その話を語った彼女はわたしの間違いでなければ辛そうであった。
もしかして本当は話したくない話題だったのかも、とそこまで思い至って、もしそうだとしたらわがままを言った自分を恥じなければと暗い顔をした。
あぁもう、いつもそう。理由や原因を考えるといつも悪い方に思考が向かう。そんなことを考えて精神を病むくらいならおかしく過剰なほど銀花さんのことを考えていた方がずっといいに決まっているわ。
〝ひまわりはどうして夏に咲くんだろうな?〟
ふと、彼女の言葉が脳に響いた。
気候どうこうは彼女が求めていた答えではなかった。では彼女はどんな答えなら満足を得られたのだろうか。わたしがいくら一人で思慮を巡らせたところでその最適解は見つけられないだろうが考えずにはいられない自分がいる。
正解が見つからなくて悶々としているけれど銀花さんのことを考えるのはとても楽しい。いつだって彼女に関わることは楽しいこと。たとえいじわるをされたとしても、わたしはそのいじわるさえも楽しめた。
銀花さんはお客様だということをたまに忘れる。それは接客する側としていけないことだと思う。けれど彼女だけは他と同じ扱いをしたくないのである。
彼女はただのお客様でも友人でも家族でもない。どちらかと言えばそれらよりももっと遠くにいる存在なのだろう。
客でも友人でも家族でもなく、それよりももっと遠くの存在……。そうね、手の届かなさならお姫様とか王子様が近いかもしれない。そして振る舞いがロマンチックでちょっといじわる……。でもいつもわたしにお話を聞かせにご足労をかけてくれる一面もある。
「だめだわ……どんどん銀花さんがメルヘンの住人になっていく……」
ぶんぶん頭を振り脱線していく思考に終止符を打つ。考えたってしかたがないことは考えない。そういう人間にわたしはなるべきだ。
次に彼女に会えるのはまた二週間後。一週間が二回分と考えると長い気がするけれど意外とそうでもなく、時間は思っているよりも早く経過するもので、最初の一日や二日はまだかなぁなんて思っていてもすぐに待ち望んでいた二週間後の木曜日はやってくる。
不思議なことに数ヶ月で人の思想というものはすっかり変わるもので、結構最近までは老い朽ちることが嫌だから時の流れは緩やかな方がいいと考えていたけれど、徐々に老いていく代償が銀花さんに会えることならばまぁいいかなと思えてきてしまうようになった。こんな思考に陥っているときほど雪野銀花さんという方はすごい人であると思う。
二週間後は一体どんな話を聞かせてくださるのかな?
胸躍るのを感じながら、わたしは彼女の姿無きネオン街をただ見下ろした。