来店3回目
VIPフロアのエレベーター前で今日もわたしのために足を運んでくれた彼女のことを待つ、そんな時ふと、脈略なくくだらないことを思いつく。本当にくだらない、小さい子供しかやらなそうなちょっとしたいたずら。それを実践しようとエレベーターの影に姿を隠す。
VIPフロアについたエレベーターから銀花さんと案内役のスタッフが降りてくる。わたしに気がついたスタッフはその怪しい行動に対して怪訝な顔をしたが、しーっと人差し指を口元に当てて黙っていてとジェスチャーするとおずおずと頷いた。
スタッフの後ろにいる銀花さんはなにか考え事に耽っている様子で、足はかろうじて真っ直ぐに歩んでいるがふとした拍子に躓いたりなんなりして転んだりどこかにぶつかったりしてしまうのではないかと心配になる。が、彼女がわたしの存在に気がついていないのはいたずらをする立場からすれば行幸。わたしはあと一歩で目の前を通り過ぎるくらい近付いた彼女へ向けて飛び出した。
「わっ!」
「ぅあっ!」
銀花さんは軽く仰け反りながらそれ以上大きな声を発しないように歯を食いしばっている。その様子にわたしはにやりとしたり顔を浮かべていた。
スタッフを帰して二人きりになると彼女は先程の出来事について呆れ気味に言及する。
「やあ、客相手に容赦ないね」
「そんなことないですよ? 銀花さんとの楽しいふれあいです」
前回銀花さんに「きみはある程度いじめても大丈夫だとわかったからね」なんて言われてしまったが、実はわたしも似たようなことを徐々に思い始めていて、「銀花さんだったら少しちょっかいを出しても許してくれる」という考えになっていた。
「ものは言いようだね。けれどそんな悪戯なふれあい方がしたいのなら今日のお話は止めにしようかな。代わりにワタシもそういうふれあい方をしよう」
わたしは「あわ……」とか細い声を漏らす。
まずい。自分のくだらないいたずらのせいで二週間楽しみにしたお話をうかがう機会を棒に振るなんてあってはならない。そんなことがあったらいつまでも引きずってしまいそう。
「もうひとつは花の話でしたよね! ぜひ! ぜひお聞きしたいです!」
「そんなに聞きたい? きみの人生になんの利益も損害も与えない、まさに毒にも薬にもならない話だけど?」
すかさず縋ったわたしに向けて、彼女は僅かに目を細めて微笑んだ。その笑みはとても尊く愛おしいものだった。彼女の笑顔はすぐに消えてしまったけれど、わたしの心はその笑みに囚われて、少しぼーっとしてしまった。
今の笑顔、あたたかな明かりを発するお星様みたいで、すごく綺麗だった。
頬が火照るのを感じながら、まだ話をする気が失せたわけではないことを察したわたしはもう一押しと言わんばかりにまた縋る。
「もうぜひ! この二週間それが気になって、今日をとても待ちわびていましたもの! まずは席につきましょう。注文を済ませて、そしてゆっくりお話をうかがいたいです!」
「まぁいいだろう。そうそう、花の話だったね」
とてもドキドキしていた。話を聞けることが嬉しくて胸が高鳴っていたのもあるけれど、先程の銀花さんの笑みを忘れられないでいることの方が大きな要因のように思える。
胸のときめきを持て余しながら話の続きを待つが銀花さんはなかなか話し出さない。もしかしてわたしが勘違いしただけで本当は話をする気がなくなっちゃったのかな? と不安になりながら「銀花さん?」とおそるおそる彼女の名を呼んだ。
「……今からワタシが語る話の主人公とも言える花をきみが当てられたなら詳細を語らせてもらうよ」
思わず言葉を詰まらせた。そんなのわかるはずないじゃない! と心の中で抗議を唱えながら、きっとさっきのいたずらの仕返しだわ! それなら正々堂々立ち向かわなければと彼女の提案した問題の答えを考える姿勢に入る。腕を組んで体を斜めにして唸りながら銀花さんの顔を見つめると、その様子をしばし眺めた彼女はまたクスリと微笑んだ。
あ、また。またあのお星様みたいな笑顔……。
「待ってください。今できる限りの花の名前を思い出しています」
「あと十秒ー。きゅう、はちななろく」
「八から速すぎませんか!?」
「ごよんさん」
「ええ!? もう! じゃあ」
に、いち、と数字が続くのが聞こえる。薔薇とか椿とかパンジーとか精一杯花の名前を思い浮かべたけれど、どの花も退けて真ん中に煌々と咲き誇っている花はずっとあの花だった。
「ひまわり!」
答えを聞いた彼女の瞳孔がぐらっと揺れた気がした。
「どうしてそう思うんだい?」
「それより先に正解かどうかをお聞きしたいです」
どうしよう、心臓が痛いくらいドクドクと鼓動している。これで外れてたら嫌だなぁ……。
「うん。そのとおり。ひまわりが今回の話の主役だ。でもどうしてわかったんだ? ワタシはひとつだってヒントに成り得そうな発言はしなかったはずだ」
わたしは安心しきって息を長く吐いた。
よかった……当たってた……。それにしても理由だなんて、正直に言ったら変な子だって思われてしまいそう……。
けれどわたしは正解したことがなによりも嬉しくて、答えも緩んだ顔も取り繕えないままに返事をする。
「大した理由はありません。わたしにとって主役っぽい花がひまわりだっただけなんです。本当にそれだけ」
「……そう。まぁいい、それじゃあまた話をしよう。ご明察の通りひまわりの話だ。それも一輪じゃなくて群のような畑の話。きみは一面に広がるひまわりを観たことがある?」
一面に広がるひまわり……。テレビではあるけれどしっかりこの目で見た経験はずっと前に忘れてしまったすごく小さな頃の記憶を含めたとしてもないだろう。
わたしは首を横に振った。
「いいえ、ないです。好きですけど、お花とか縁がなくて」
今に始まった事ではないけれど我がことながらつまらない人生を歩んで来たことを思い出してしまって小さく肩を落とした。
「そうか。とても輝いて見えるんだよ。勿論この辺り一帯にはびこるネオンやビルの明かりみたいではなく、もっとあたたかだ。香りも良くてね。なんて例えればいいのかな、難しいな。決して香水みたいに強い香りじゃない、柔らかいような、それでいて包まれるような、あたたかい……」
輝いて見えて、あたたかくって、香りがよくて、柔らかくって、包まれる……。わたしの思い浮かべたそれは晴天の下で干される真っ白なお布団だった。でもひまわり畑とお布団をイコールにするのはちょっと無理がある気がして、この想像で合っているか確認するために彼女に問いかけた。
「お花の香りがするお布団みたいな感じでしょうか?」
銀花さんはクツクツと声を押し殺しながら笑った。そんなに笑えることを言ったつもりのなかったわたしは思いのほかウケたことに喜びを感じつつもこの空気をどうしたらいいのかと戸惑う。
「はは。そうだね、布団みたいな感じ。甘い花の香りの布団って聞いたら柔軟剤かなにかの匂いか? ってなるけれど、例えだからね。当たり前な話だが本当は柔軟剤よりもよっぽど自然な香りだよ」
とても良い笑顔で語る彼女は素敵で、わたしまでつられて笑顔になる。
「そうなんですね。わたし、小さい頃からあまりお外に出てこなくて、お布団と友達だったから、お外で嗅ぐお布団の香り、興味あります」
今でこそ平均女性より大きくてあまり酷い風邪もひかない体になってきたけれど昔は肺の病気にかかりやすく病院のベッドで寝ることが多かった。十年も経っていないことなのに不思議と遠い過去の話のように感じる。天井から差す照明は病院のものとは全然違うけれど、その不思議な黄色い明かりを見つめるとなぜだか手に取るように鮮明に過去のことが思い出せた。
「この店は一緒に出掛けたりできるの?」
不意に銀花さんが言った。
「え、はい、できますよ。出勤する前に会って一緒にお店に来る同伴というものと退勤後に一緒におでかけするアフターというものがあります」
「そう。じゃあいつか行こう、一緒に。今はまだ四月で全然ひまわりの時期じゃないからあまり早くは行けないんだけどね、ワタシが連れて行く。ワタシが観たのと同じひまわり畑に」
心臓が震えた。わたしも、もしかしたら銀花さんが観た景色を観られるってこと……?
「……! はい! 楽しみにしていますね!」
さっきからずっとドキドキされっぱなしだわ。どうして銀花さんはいつもいじわるをしたあとにわたしの喜ぶことをしてくれるのかしら。
二人で小指を絡めた。いつもしているのになんだか今している指切りはいつも以上に特別な気がして照れくさくなる。…………銀花さんも同じ気持ちだったらいいな。
「それにしても銀花さんはひまわりがお好きなんですね」
うふふと笑いながら呟いた言葉に銀花さんは困ったように眉間にしわを寄せる。
「は? どうしてそう思う?」
わたしはきょとんとして、だって、と言葉を続ける。
「だってまるで瞬いた星みたいにあたたかい、とても素敵な笑顔だったから」
銀花さんは少し寂しそうな笑みを浮かべながら口を開く。
「……星みたいって本当にそう思ったの?」
「はい! きらきらしていて、あたたかみがあって、とっても素敵でした!」
「きみ、感性がおかしいってよく言われない?」
「なんで~!? 言われませんよ! 今のだってちゃんと褒めたつもりでした!」
なにか駄目なこと言っちゃいましたか? と両頬に手を添える。血の気が引いているのか、自分の顔はなんだかちょっと冷たく感じた。
どうしよう? 怒らせてしまったかな? 嫌われてしまったかな?
「でもですね、本当に素敵な表情でお話しされていんですよ? 前回の星空の話はどこか切ない過去を回想する様子が表れていたのに、今回はとても楽しそうにお話しされていたから、だから『あ、銀花さんはひまわりが好きだから楽しそうなんだ』って思ったんです。好きなことを話しているひとの表情はお星様みたいで、他の人まで笑顔にさせる力があるんだなって思ったくらいです!」
自らの弁明にまた弁明を重ねると銀花さんは困ったように溜め息を吐いた。
「はぁ……、たしかに好きな花を問われれば一番最初に思い浮かべるのはひまわりだと思うけど別にそこまででは……」
尻すぼみに消えていく言葉はなんだか言い訳じみていて、その後に続いた沈黙をわたしはすかさず破った。
「それなら何故あんなにも素敵な笑顔を――」
彼女はちらりとこちらに視線をくれる。その瞳は少し潤んでいて、なんだか艶っぽい。
「簡単な話さ。さっき話した〝あのひまわり畑〟が好きなんだよ」
銀花さんの言葉をわたしは本心だと捉えた。その本心が微笑ましくて、わたしの表情筋はこれ以上ないほどに緩む。
「そうだったのですね。やはり前回の星の話も今回の花の話も銀花さんにとって大切な思い出のひとつで、どちらのことも好きで、だから――」
「いや、〝あの星空〟は好きじゃないよ。思い出ではあるけれど。あの星達はワタシが本当に願ったことを叶えてはくれなかったからね」
冷たい突き放すような声色にがくっと肩が落ちた。
「そう言えば二つの願い事は叶わなかったんですよね」
それなら純粋に好きになるのは難しいかもとわたしは眉を下げる。
「それにしてもどんな願い事をしたのかはまだ秘密なんでしょうか?」
「そんなに気になる?」
「はい!」
「なんで?」
「わたしの中での話ですが、銀花さんって神頼みとか星に願いを託したりするタイプってイメージがないんです。そんな銀花さんがする願い事って全然想像がつかなくて」
とは言ったけれど何事も行動に起こす方でもなさそうなことはあえて黙っておこう。
「あぁ、そうなんだ。でもこれは随分と大した話だからね。きみには当分教えないよ。これは意地悪とかじゃなくてプライバシーの問題だから」
「じゃあ今はダメでもゆくゆくは教えていただけたりは……?」
もしかしたらいつか話したいことリストに二つの願い事の話が追加される日がくるかもしれない。それは一縷の望みに過ぎなかった。
「あぁ、いつかはくるかもしれないね。きみの態度次第だとは思うけれど」
「それならもう今日みたいな悪ふざけは出来ませんね」
もういたずらはなしか……。そう思うともうちょっとなにかやっておけば良かったなんて考えに至ってしまうわたしの精神はとてつもなく幼稚なのかもしれない。
「あぁ、そういえば」
改めて彼女の顔を見て言わなければいけなかったことを思い出したわたしは脈略なく声をあげた。そして銀花さんの頬を撫でる。そこにガーゼのざらつきはなかった。
顔の傷……たしか痣ができたって言っていた。様子をみるにもう大丈夫そうだけれど、もしかしたら触ると痛いかもしれないからできる限り優しく彼女の頬に手を添える。
彼女は数秒ぼーっと自らに触れるわたしを眺めてからはっとして逃げるように身をよじって顔を背けた。
「傷、綺麗に治りましたね。よかったです」
「え。あぁ。そうだね」
どこかぎこちない返事。顔はこわばっていて目は俯いている。顔色もあまり良くない。大丈夫ですかと声をかけようとしたとき一組お客様が退店するのが目に入った。わたしも時計を気に掛ける。
「あ……、そろそろお時間が」
「……そうだね。そろそろ会計をお願いするよ」
彼女は急いで荷物を持つと立ち上がる。目の前で揺れる服の裾を、わたしはとっさにつまんだ。
「あの、銀花さん」
「なんだい」
「指切りをしましょう。今度は〝またね〟の指切り」
いつもしているでしょう? とわたしは右手の小指を左手の人差し指で示した。
わたしはこのいつもの指切りの時間が大好き。とてもあたたかい気持ちになれて安心できて、生きていてよかったって思える。
小指を差し出したはいいけれど銀花さんはなかなか応えてはくれない。彼女の指の感触が返ってこないことが胸をざわめかせる。わたしは急かすようにもう一度、今度はもっと彼女に押しつけるように小指を差し出す。胸元に小指を寄せられたままの彼女は、なにを思ったのか黙ったままそれをつまんだ。
「なさらないんですか? 指切り」
「君の小指は小さい」
「え、はい」
多分銀花さんの小指の方が小さいわ、と思いながら彼女の紡ぐ言葉の続きを待つ。
「だから指切りをしたら折れてしまうから、だからできない」
彼女のそれはきっと言い訳なんだろうけど、あまりにも下手なその言い分にわたしの方まで戸惑ってしまう。
「数分前は普通にしていましたけれど」
全然面白くもなんともない返答。きっと彼女はそんな返答を望んではいないだろう。つくづく対人への反応が微妙でもどかしくなる。
「今日はいつも飲まない酒を飲んだせいか異常に酒のまわりが早くて、今はさっきより酔っていて、だから、いつも異常に力を入れてしまう」
「それは……こわいですね」
わたしはどうしたものかと小さく唸ったが、それでも彼女との間にある〝いつも〟を今日で終わらせてしまうのが惜しかった。
わたしは勢いだけを頼りに彼女に左手を差し出した。
「こちらの手をどうぞ! 銀花さんも利き手と反対の手ならそれほど力も入らずきっと折れることはないでしょう」
これで断られたのならきっともうわたし達の間に〝また〟はないということなのだろう。そうならないことを強く願った。
わたし達の時間が終わるまであと数分。彼女はやっとわたしの小指に自らの小指を絡ませた。
「きみはなんというか、IQが高いというか、ひらめく力が高いように感じたよ」
「ありがとうございます。オーナーや他の従業員には抜けているって言われがちなので、認めてもらえたようなことをおっしゃっていただけると、その……うれしい、です」
「いや、別に認めたわけじゃないけれどね」
「もう、なんでいつも去り際にいじわるを言うんですか? 最初に会った頃はあんなにロマンチックな別れ方だったのに」
顎を引いて上目遣いで涙を拭うフリをして、いかにもな茶番を営むわたしは銀花さんに面倒な女だと思われただろうか?
「……ねえ、きみは〝さんかいめ〟って言葉を知っているかい?」
唐突に聞かれたそれにわたしは首を傾げる。
「さんかいめ? 三度目ってことでしょうか?」
「わからないのならそれでいいよ」
「うん? 『さんかいめ』はよくわからないですけれど、『よんかいめ』もきっとありますよ!」
「はは。そうかい」
小指を繋いだままわたし達は笑い合った。やっぱり銀花さんの笑顔はお星様だった。
あなたとの間に『よんかいめ』がきっとありますように。そう願いながら最後に少しだけ繋いだ指先に力を込めた。