来店2回目

 二週間後の木曜日、彼女は約束通り店に訪れてくれた。

 わたしはヘルプで入っていた席から抜けて彼女が待っているであろうVIPフロアへと急いだ。だが指名を入れてくれた彼女はまだフロアについておらず、なかなか現れない。

 そわそわと彼女を待ちながらまだ下の階にいるエレベーターの階層表示を見つめる。

 やっと到着したエレベーターが開いた。そこから聞こえてきた「やぁ来たよ」という女性の声は間違いなくあの日の彼女と同じもの。わたしは約束を守ってくれたことが嬉しくて、その一言がまるでおとぎ話の王子様が幽閉されたお姫様を迎えに来たときの台詞のように感じてしまう。心に満ちる歓喜を抑えきれず前のめりになりながら、ぼーっとしていた視線を改めて彼女の方へと向けた。

 前回会ったときと変わらない顔がそこにあると思っていたわたしはあまりのショックで身が固まる。彼女の顔に張られた頬を覆うガーゼは大きい。そんな規模の怪我なんて事故や誰かにやられでもしないとつかないだろう。

「あぁ、顔?」

「はい……痛そう」

 自分でもわかるくらいわたしの声は暗かった。自らの頬をおさえ、それでもぎこちなく笑ってみせる。エレベーターの扉に反射した自分の笑みの歪さも二の次にしてしまうほど彼女の頬の傷が気になった。

「もう痛くないよ。ガーゼも形だけつけているだけで傷だってそんなに大したもんじゃない」

 その言葉に小さく胸を撫で下ろす。傷が治らずにいつまでも痛い思いをするなんてきっとだれだって嫌だもの、その気持ちがわたしにはよくわかる。不幸中の幸いという言葉はそれほど好きではないが今ばかりはその言葉が思い浮かんだ。そんなわたしを眺めていた彼女はふっと笑って口を開いた。その笑顔はなんだか自嘲に満ちていて、見ていて辛い。

「実はね、きみのその顔が見たくてわざと大げさにガーゼなんて貼ってきたんだ。本当はそんなに大きな規模の怪我じゃあない。ちょっと痣が出来ただけ」

 自分を嘲るような笑みを浮かべたまま彼女はそう言った。良くないことを言われているのに、そんなことは気にならないくらい彼女が心配になってしまったのは多分織り交ぜられた少しの嘘に気づいてしまったから。

「〝客に〟そんな顔しないでよ」と彼女はなおもその複雑で妙な表情のまま言葉を紡ぐ。

 わたしはどうしたらいい? 彼女に対して「なんでそんなことするの」って怒ればいい? 怒ったところでなにも変わりはしないだろうに、そんなことしてをどうするの。彼女の本意はわからない。彼女の気持ちのすべてはわたしには理解できない。けれど彼女がどこか自分を責めながら呆れていたりしてそれを馬鹿みたいって思っていることだけは読み取れた。それはきっとわたしもその気持ちを抱いたことがあるから。

 そっと手を伸ばした。彼女は遠くなんかじゃなくちゃんと手の届くところにいた。彼女の頬に張られたガーゼのざらついた感触を手のひらで包む。瞬間、微動を感じた。それは彼女がちゃんとわたしの傍で生きているという証拠。わたしは彼女の存在をちゃんと自らに証明することができている。

 ああ、わたしは今どんな顔をしているのだろう――?

「え、なに。突然」

「痛みが気にならなくなるおまじないでもしましょうか」

「……もう痛くないって」

「痛いの痛いの飛んでけーってやつなんですけど」

「だから痛くないんだってば。なんだろうか、ワタシは自分で思っていた以上にきみが苦手らしい」

 わたしはまだ彼女のことを全然わかっていないし、今後も彼女がなにかを語ってくれるまでなにが嘘でなにが真実なのか知る術はないのだろうけれど、それでも自分が抱いた感情くらいは理解できた。

「わたしは自分で思っていた以上に銀花さんのこと好きだと思いましたけれど」

 なぜだろう。営業スマイルなんかじゃない、わたし本来の笑顔で笑えた瞬間だった。

「銀花さん、ひとまず一緒に席につきましょう? こちらです」

「……」

 先導するように彼女をフロアの奥の席に案内する。黙ったままだったが、彼女はちゃんとわたしの後ろをついてきてくれた。

「ご注文はお決まりですか?」

 メニュー表を開いて銀花さんに見せると彼女はあらかじめ決めていたようにすんなり目当ての品を指差した。

「……このシャンパンを頼む」

「ふふ、前回わたしが勧めた銘柄ですね。お口にあったようでよかったです」

 大きく溜め息を吐いてから「別に」と言った銀花さんはかなり自分に呆れている様子で、ふてくされたようにそっぽを向く。その様子がどこかかわいく見えた。

「はぁ……」

 もう一度大きな溜め息を吐いた彼女の気を紛らわせたくて、わたしは頭をフル回転させる……が駄目だった。彼女に対する場数が少なすぎてこういうときにどうしたらいいのかわからないもどかしさにやきもきする。けれどやらぬ後悔より……とか世の中は言うし、わたしは意を決して胸を彼女の方に向け、おしり一つ分ほどそちらに近付いた。

「えっと、あの、触りますか?」

「……っ!?」

 銀花さんは驚いたように口に含んでいたシャンパンを飲み下すとけほけほとむせた。

 やってしまったとわたしは青ざめながら彼女の背中をさする。

「あわわ、大丈夫ですか?」

「けほっ……。そういったサービスは女性客にも需要はあるのかい?」

「ある、らしいです」

「なるほど」

 ゼロではないので肯定を示すと彼女は僅かに眉間にしわを寄せながら納得を口にした。そして肩のあたりで手を横に振る。

「けれどワタシはいいや。ワタシはここに話を聞いてもらいに来ている。きみが提案したようなことを求めてはいない。それに従業員に触るのはマナー違反だろう」

「……おっしゃる通りです、……失礼しました」

「きみはワタシの金で食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで、それで話に耳を傾けてくれればいい」

 一貫している主張。やっぱり銀花さんは誰かに話を聞いてほしいのね。彼女がそうしてほしいというのならわたしはそれを叶えよう。わたしは口元に笑みを浮かべた。

「きれいな景色の話、聞かせてくださるって約束しましたよね? 実はとっても楽しみにしていたんです!」

「あぁ、言ったね。そういえば、そんなこと」

「約束、覚えていてくださったんですね」

「忘れやしないさ、たった二週間前の会話なんて」

「ではアレも覚えていらっしゃいますか?」

 彼女は自らよりやや座高の高いわたしへ少し上目遣い気味の視線を向けながらきゅっと口を結んだ。わたしはいたずらを思いついた子供のような気持ちで小首を傾げる。

「あら。たった二週間前のことですよ? わたしと銀花さんが今日ここで会うのは運命という事柄だと言ったのは」

「あぁ、それか」

「けれど銀花さんはひどいひと。顔に大きな傷をつけてきて、それでいてワタシを突き放すことを言って、でも約束はちゃんと覚えていてくれてその約束を守るために今日ここに足を運ぶなんてしっかりした側面も見せてくる。わたしにいじわるをして翻弄するのはけっしてロマンチックではないはずなのに、前回運命という言葉を使われてしまったせいでわたしはこんなにも今後にロマンチックななにかをがあるのではと期待してしまう」

 嘘は一つだってついていなかった。本心を小さくちぎって投げつけるように、ちょっとした嫌がらせの意も込めてネチネチと、ちょっとでも仕返しができたらいいと思いながら喋るわたしは彼女に嫌われてしまうだろうか?

「じゃあその期待を本物にしてあげるよ。だってそのために今日ワタシはきみに会いに来たのだからね」

 心臓が跳ねた。そのままドキドキと細かく鼓動する。

「ふたつ話があるから好きな方を選ぶといいよ。ひとつは花、ふたつめは星」

 花と星……。

 どちらかひとつしか聞けなかったらどうしようなんて考えながらわたしはその二つで長く悩んだ。わたし、花と星だったらどちらが好きなのかしら……。わからないわ……。けれど話の内容を想像しやすくするためには身近なものを選んだ方が良い気がする。

「それじゃあ、星の話をお願いできますか?」

「きみは星が好き?」

「そうですね。たまに行きますよ、プラネタリウム」

「プラネタリウムか。じゃあ実際に彗星や流れ星を観た経験はないのかな」

「そうですね。空を飛んでいるのは映像でしか見れたことがないです。それ以外なら言ってしまえば博物館の隕石くらいですね、身近で接せられるのは」

「プラネタリウムはまだしも博物館は不満げだね」

「星が見たくてプラネタリウムに行くことをお魚が見たくて水族館に行くことに置き換えてみれば、星が見たくて博物館に行くのはお魚が見たくてお寿司屋さんに行くようなものだと思います。端的に言えば、まぁ、不満というよりかは消化不良みたいな感じでしょうか」

「意外にドライな価値観を持っているんだね。ちょっと満足させられるか心配になってきた」

 弱気なことを言いながらも実際には上手く話せるかなんてそこまで気にしていないような顔で彼女は続きを話出す。

「……星の話だったね。高校入りたてぐらいの頃、ひとりで……そう、天体観測に行ったんだ」

 今の彼女の様子からはあまりそのような雰囲気は感じなかったら、ひとりで天体観測に行くなんて随分アクティブな子だったか、それともそこまでの行動を起こさせるほど星が好きだったんだなと思った。どちらにせよわたしには意外な一面だった。

「なにかあったんですか? なんとか彗星とかなんとか流星群が見られるとか」

「……いや、なにもなかった。でもその時は空気がよく澄んだ春になりたてのころで、田舎の親戚の家にいたから、特になにがなくても晴れてさえいればよく星が見えたんだ。当時のワタシは別に星に詳しいわけではなかったから、どれが何座の何だとか、どれが一等星でどれが三等星だとかそういった知識は一切無く、しかも望遠鏡なんて物も持ってはいなかったから本当に肉眼で空を、いや星空を仰ぐだけだった。そのまま宙を見上げながら一時間とか二時間とか親戚の人間が迎えに来るまでずっとそこにいた」

 あ、星は別に好きじゃなかったのね、とさっきまで考えていたことを早々に否定されたわたしは自分の察しがそれほど良くないことに苦笑を浮かべそうになる。

 それにしてもなにもない日に星の知識も準備もなしに天体観測だなんて余計になんでそんな行動に出たのかわからない。その日の行動そのものが意外性のあるものだったのかもしれないと話の行く末を聞きながらどこか上の空で想像を膨らます。

「でも話出しから察するに見られたんですよね、流れ星とか」

「そうだね。いつまでも星を眺めているのももう飽きたなって思ったときに丁度良く一筋星が流れていったんだ。ワタシは急な出来事に幸せになりたいだとか現状を変えたいだなんて大した願い事に至らなくてね。ただその時流れた星が偽物や幻ではなく本当にあったものであることだけを願った。そうしたらすぐにでもその願いを叶えるように次々と星が降ってきたんだ。結構降ったんだけど、そのうちワタシがちゃんと自分の願い事を伝えれたのは二つだけだった」

「そのとき銀花さんはなにをお願いしたんですか?」

「…………」

 沈黙が返ってきたことにどぎまぎしながら、わたしのせいで話の腰を折るまいと続きを促す。

「他人には言いにくいことでしょうか? あっ、他人に言ったら叶わなくなっちゃうとかですか?」

「いや、どちらでもないのだけどね。なんとなく内緒だ。まぁ結果を先に言ってしまえばどちらも叶わなかったよ。後から知ったけれど流れ星って落ちていくものだから少し縁起が悪くて願い事には向かないって説もあるらしいね。ものは言いようだ」

 あぁ、叶わなかったから言いたくなかったのかな……?

「それは、残念です……」

「まぁ、仕方のないことだと思っているよ」

「でもいいですね! 生の流れ星! わたしはずっと都会育ちだったもので空気が澄んでいる田舎というロケーションもとても素敵だなと思えるお話でした!」

「ははは、それはよかった。でも散々実際のものの方がいいような話をしたけれどプラネタリウムも悪くないと思うけどね。あれはあれで最高の状態の再現だと思うし」

「でもやっぱり本物に憧れずにはいられません……! いつかちゃんとこの目で流れ星を観ることを夢のひとつに掲げようと思います」

「夢があるのは良いことだよね。全部を諦めているよりよっぽど良い。……――おっと、もう時間だ。話も終わったことだしワタシはそろそろ行くよ」

 壁掛け時計に目を向けると銀花さんが言った通り時間はかなりギリギリで、わたしは「もう少し余裕があると思っていたのに」と肩を落とす。

 銀花さんの話、面白かった。他のお客さんの自慢話やお小言やお世辞なんかより綺麗で純粋な内容でもっともっと聞きたいって思えた。

「あとひとつお話があるんですよね? えっと、花の話」

「そうだね。他にもあるにはあるけれど綺麗な景色っていうと花と星の話しかないよ」

 わたしは続きを欲した。

「……では、」

「二週間後も、また来るよ

 彼女はただ、まだ話を聞いてもらいたいだけなんだと思う。そんな自らのための選択でも、結果的にわたしの期待に応えてくれたことがとても嬉しかった。

 今日はわたしの方から小指を差し出した。前回したように〝またね〟の約束を交わすために。それを見て、彼女はなにかに納得したように小さく息を吐くと寄せられた指に自らの小指を絡ませた。

「再来週ここに来ることもまた運命ですか?」

「あぁ、たぶんね」

 あっ、またこの人はいじわるなことを……。

「もう。前回は言い切ったのに、今回はたぶんなんですね」

「きみはある程度いじめても大丈夫だとわかったからね」

 そんなことを言われて黙っていられるわたしではなかった。眉をたれさせ口をつぐんで頬を膨らまし軽く背を丸めて、どんなに鈍感なひとでもわかるくらいにわかりやすく拗ねている様子をアピールしながら一言「次こそは、いじめられたらかわいい反応を返せるようにしておきます」と宣言する。

 そんなわたしは滑稽だったのだろうか、彼女はクスリと小さな笑みを携えながら踵を返してエレベーターに乗り込むと店を後にした。

 今日も銀花さんは、スマートで、いじわるで、でもロマンチックな謎の人でした。

   ▼

「さっきのお客さんとは随分楽しそうだったね」

 バックヤードに戻ると偶然居合わせたオーナーに話しかけられた。苦手ではないけれどあまり話慣れている相手ではなかったから、わたしは驚いて肩を跳ねさせた。

「え、はい。そう見えましたか?」

「違ったのかな?」

「い、いえ……楽しかったです」



「他のお客さんにもああいう接客ができるようになるといいね。きみはもううちで働きはじめて数年が経つけど、まだぎこちないところがあるから」

 怒っているふうではなかったが、わたしは責められている気分になってしまう。

 それだけ言って去って行ったオーナーの後ろ姿を見送って、今日の自分の接客を振り返る。

 そういえば、さっきは全然笑顔を意識しなかったけどそうしなくてもちゃんと笑えていた。

 また会ってくれるという約束も、きれいな景色の話を聞かせてくれるって約束も銀花さんは守ってくれた……。その事実はわたしに一層彼女の言う運命を信じ込ませる。

 それに今日も次の予約を入れていってくれた。口ではいじわるなことを言っていても、少なくともさっきまでは確かにまたわたしに会ってもいいかなって気持ちになってくれていたはず。わたしはまた二週間後が待ち遠しくなる。

 そういえば顔の傷、本当に大丈夫なのかしら……?

 わたしの反応を見たくて大げさな手当をしてきただけだって言っていたけれど、ガーゼの下を実際に見たわけじゃないからそれが本当なのか嘘なのかがわからない。

 どちらにせよ早く治るといいな。だって顔に傷が残ったらきっと世の中は生きづらい。

 いかに生きるかしか考えられないわたしにはそれしか考えられなかった。

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