未来誓う午後

 翌日わたしが目を覚ましたのは十六時を過ぎた頃だった。

 随分寝過ぎてしまったと、サブディスプレイに時刻を表示する携帯電話を片手に持ったまま眠たげに目をこすり上体を起こした。横から「やっと起きた?」と優しい声が聞こえる。

 声の先に顔を向けると銀花さんがパソコンに向かってなにやら調べ物をしている姿が目に入った。わたしはベッドに座ったまま彼女が見つめる画面を覗き込む。そこにはひまわり畑のサイトが表示されていた。

「ご旅行ですか?」

「うん? まぁそうだね」

「いいなぁ」

「え?」

「うん?」

「きみも行くんだよ?」

「ご一緒してよろしいんですか?」

「なに言ってんの? 約束したじゃないか。八月十日に宿を取ったから他の予定を入れないように。木曜日だから出勤日でしょ? 仕事も休んでね」

 てきぱきと指示を出す銀花さんは「それと」と付け加えて机に置かれていた封筒をわたしに差し出した。封筒には『給料』と印字されている。

「えっと……こちらは?」

「ワタシが店に行かなくなってから今日の早朝寝るまでにきみがワタシのために働いた分の給料だ」

「わたし働きましたっけ?」

「じゃあいらない?」

 銀花さんは今まで見たことないくらいニコニコと良い笑顔を浮かべてゆっくりゆっくり封筒を引っ込めていく。わたしはすかさずその手を掴んで「いります!」と封筒を受け取った。

「まぁ中を見てみなよ」

 促されるまま封筒の口を開けると、中には一枚三つ折りにされた用紙が入れられていた。

 その白い用紙を広げて内容を確認する。複数の罫線が引かれたその紙は左上にはっきりと『婚姻届』と明記されている。

「こ、婚姻届け……!?」

 すでに銀花さんの情報が記入されているそれに仰天しているわたしのことなど放置して、彼女はひまわり畑のサイトを閲覧している。

「なかなか良い出来だろう? きみが寝ている間にこしらえたんだ」

 しかも自作!

「A3用紙がなかったからA4だし、このご時世じゃどうしたって出せないけどね。まぁこういうのも一興だろう。――それにしても、なにをそんなに驚いているんだ? 先にプロポーズまがいのことをしたのはきみの方じゃないか。今後はワタシと一緒に生きるんだろう?」

 寝起きの頭にいろいろな情報を叩き込まれて目を回していたが一つ一つを飲み込んでいくたびに実感が胸に染みこんでいく。

「あの、この場合銀花さんが言った通り先にプロポーズしたのはわたしってことになるんでしょうか?」

「そうだよ。え? そうでしょう?」

「記入済みの婚姻届けを渡す方が遙かにプロポーズらしいと思いますけど」

 無言の見つめ合いが続く。銀花さんは黙ったままずっと口元に笑みを浮かべていた。

 その笑みを受けて、先に折れたのはわたしの方だった。

「銀花さん!」

 なんだい? と彼女は小首を傾ける。わたしは大きく二回深呼吸をした。

「今から改めてプロポーズをさせてください」

 宣言して、ガチガチに緊張しながら自分の中の少ない語彙をかき集める。その様子を、彼女は楽しそうに眺めている。

 わたしは今から今後銀花さんと人生を共有するために必要なことをする。一生のうちにそうない、すべてを賭けて望まなければならない場。

 長く語ることはきっとできない。短すぎても誠意に欠ける。格好付けてキザなことを言う器量はわたしにはない。だから飾らず、わたしのままの言葉で。

 数秒後、よし、と気合いを入れてわたしは口を開いた。

「わたしと銀花さんが出会えたのは間違いなく運命という事柄です。あなたがあの日あのお店に来店したことも、わたしを指名したことも、ちょっとしたいじわるをしたことも、いろんなお話をしてくださったことも……他のことも含めて全部全部運命です。これから先、何度も死にたくなることがあるかもしれませんけれど、それでもいいです」

「再三言うけどワタシはまだ死にたいよ。きみが死ぬまで生きるだなんて宣言したけれどそれを反故にしてしまうことだってあるかもしれない。ワタシは無力なクズだから、きみの願いを極力叶えようとする意思はあってもそれを実行する力を持っていないことがほとんどだろう。ワタシ達の間に永遠はないから、終わりは絶対にあるよ。それでも――」

「構いません。わたしも、あなたとの出会いが運命であることやあなたと過ごすこれからの未来を誓えても永遠は誓えそうにないです。わたし達の関係はいつか終わります。それはどちらかが死んだときに訪れる永遠の別れかもしれないし、性格の不一致で生じる別れかもしれません。それでもそれまでに迎えるこれからの未来をあなたと過ごせるのなら本望です!」

 銀花さんは声を上げて笑った。そして椅子から立つとベッドの脇、わたしの隣に腰掛ける。

「どうしてもワタシとの未来を生きたいきみがワタシは好きだよ。せいぜい終わりがくるそのときまでよろしく頼む」

 そう言って小指を差し出す銀花さんにならってわたしも小指を差し出した。カーテンが開け放たれ窓から明るい外光が差し込む世界でわたし達は小指を繋ぐ。

 二〇〇六年七月七日、わたし達は不確かな未来といずれ訪れる別れを共有する約束をした。

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