来店初回
わたしは死んだら見られないたくさんの未来を見るために生きている。
六本木のキャバクラに勤めてもう三年が経ったがその間で上手くなったことと言えば話を聞くことと愛想笑いだけだった。日に数組接客するが指名は後輩の方が圧倒的に多いし、数少ない常連さんは率直に言って厄介で面倒なひとばかり。やりがいも、仕事に向き合うやる気もない。でもお金がなくて死ぬことだけは避けられるから、わたしは今日もここで愛想笑いを浮かべる。
働くことはあくまで死なないための行為に過ぎない。
店で二番目に人気のある後輩のヘルプで席に着いて、彼女のおこぼれをもらうようにドリンクを飲ませてもらって、お客様の気分を害さないようにニコニコと笑みを浮かべている自分を客観視して、惨めだなぁと思う。この後輩はわたしと違って要領が良いからわたしがいなくてもひとりで回せるのはわかっているだろうに、雇っている側の優しさからか、必要ないであろうわたしが少しでも稼げるようにとわざわざセッティングしてくれる。それをありがたいと素直に喜べないのはきっとわたしがひねくれているせい。
時折グラスに映る自分の顔を見てちゃんと笑えていることを確認する。たまに出てしまう不自然に貼り付けたような笑みが不気味で、一瞬だけ無表情になってしまったことに周りの人たちは気がつかない。だってわたしに一切の興味がないから。
笑顔の浮かべ方を思い出しているとボーイがわたしを呼びにやってきた。わざわざわたしの代理を連れてきたところを見ると珍しくもわたしに指名が入ったようだ。
失礼しますと声をかけて離席する。そのまま他の部屋には見向きもせずバックヤード付近の陰に行きボーイに話しかける。
「いつもの方ですか?」
「いいや、新規さん」
新規で指名を入れるなんてよほどわたしが気に入ったのかな……、いや、それはあまりにうぬぼれすぎか。
「一人客で多分君と同じくらいの女性。新規でVIPフロアに入るようなひとらしい」
「え? 若い女のひとで、新規でVIPフロア?」
珍しい、というか、それこそどうしてわたしを指名したのかわからなくなった。
わたしは身を引き締めるようにドレスの胸元を整えるとその女性がいる部屋へ向かう。
どんなひとだろう……。楽しく会話ができるといいのだけれど、いかんせんわたしは仕事以外で人と話さない。従業員の数がやや足りていないからヘルプは入らないだろうし、どうにかして会話を維持しなければいけないが女性への接客の心得なんてよくわからない……。
そうこう考えている間に近付いてくる部屋の一角でわたしを待つ黒髪の女性は、適当に着てきたような服やつまらなさそうな表情からどこか人生をなんとなく惰性で生きているみたいな、生に頓着していないような人に見えた。
引き返すわけにも行かず、意を決してパーティション囲いの中に踏み入る。ゆったりとした足取りで歩み寄るわたしを彼女の重たい視線が射貫いた。
「いらっしゃいませ。わたくし、シスイと申します。お隣失礼しますね。お名前、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
名刺を差し出し、他の新規のお客様にするのと変わらない挨拶をした。彼女がわたしを指名してくれたお客様だという事実さえあれば挨拶に差を出す理由はなかった。
「名前は雪野銀花」
今まで出会ったことのない珍しい名前にわたしは冬の景色を想像した。星が瞬く夜景の中に広がる野原に雪が降り積もった銀色の世界とそこに一輪だけぽつんと咲いた小さな花。そういうものを彼女の名に思い描いた。
わたしはまた他のお客様に浮かべるのと同じ笑顔を携えながら、「銀花さん、本日はよろしくお願いします」と会釈をし、そして自己紹介から動作を止めることなくメニュー表を開く。
「お飲み物などはいかがなさいますか?」
「適当にシャンパンを頼む。特に好き嫌い等のこだわりもないからきみのおすすめで構わない。可能なら十万以上のものが好ましいかな。きみもなにか好きな飲み物を注文するといい」
「よろしいんですか?」
確認するようにそう聞いてメニュー表の料金欄を見つめる。『十万以上のおすすめのシャンパン』といっても数種類該当する。その中から最適解を導き出せる自信は、正直ない。
悩んだ末クリュッグのロゼとカクテルを注文させてもらった。注文前に確認をとったが、好きなものを頼んで良いと言った通り彼女はわたしの注文に苦言を呈することはなかった。
「ここでは女の客は珍しいのかい? いやぁ外の看板には女性も楽しめますみたいなことが書いてあったのだがね、キャッチには驚かれてしまったものだから」
わたしが口を開きかけたとき、彼女が先に言葉を発した。まるでわたしの口の動きを見てから話し始めたようにも感じられるタイミングで、わたしは少し開いた口をそのままに彼女の言葉に耳を傾けた。彼女は飄々とした態度で心の読み取れない笑みを浮かべていた。
「いえ、団体で男性の上司の方に連れられた方や他店のキャバ嬢はそれなりにお見えになりますよ。ですがわたしが担当した中では女性でお一人のお客様は銀花さんが初めてです」
正直に説明すると彼女はあの掴みどころのない笑みを浮かべたまま「そうか」と相槌を打った。わたしはおずおずと「こういうお店は初めてでしょうか?」と問いかけた。一応聞いておくべきかと思ったのだ。彼女はわたしの問いに静かに頷いた。
「うん。初めて来た。なんとなくふらっと寄ってみてしまったんだ。看板も女性歓迎を謳っていたし、キャッチも大丈夫だと言っていたからね」
「あぁ、あの、ダイヤみたいな電飾の看板ですか?」
外の看板を思い出して、一見よくものを考えそうな彼女があのギラついたいかにもな看板に釣られるなんてなんだかおかしな話だなと思った。多分、女性歓迎の看板を掲げていればどこの店だってよかったのだろう。わたしを指名したのも同じで、きっと誰を指名してもよかったところに偶然わたしが目についただけだ。
「そうそれ。歓迎を謳うくらいだからワタシが行ったって構わないだろうと思って」
冷めた思想を抱きながら、わたしはそれでもお客様に楽しくお話ししてもらうことを仕事にしているから、彼女の言葉に小さく吹き出す演技をした。彼女は「ワタシの話は面白かった?」と問う。わたしはまた作った笑みを浮かべながら「なんというか、あの看板にも集客効果があったんだなって」と声を抑えて笑ったふりをした。
「ははは。まんまと釣られた身としては少々恥ずかしさを感じなくもないが、まぁなに、きみのお小遣い分くらいは飲み食いさせてもらうよ」
わたしはその言葉に居住まいを正す。彼女が女性歓迎を謳う店をわざわざ選んでこの店にに訪れたということは誰か同性に、それもそれを仕事として行う人間に話を聞いてもらいたかったのではないかとわたしはあたりをつけた。お酒を飲みたいだけだったり話を聞いてもらいたいだけなら他にも店はある。その中で彼女がこの店を選び、またわたしを選んだ理由がその話をしやすそうだったからであるのなら、きっと今回きりになってしまうだろうこの女性の接客にちゃんと向き合っても罰は当たらないだろう。
わたしは「女性の方への接客は不慣れで、ちょっとぎこちないかもしれませんが、どうぞよろしくおねがいします」と小さく頭を下げる。
「気にしないでくれよ。きみはワタシの話を聞いて相槌を打ってくれさえすればいい」
「相槌……ですか? 銀花さんはお喋りがお好きなんですか?」
「なんだろうね。会話は苦手だけど一方的に話すのはかなり好き」
彼女の返答は遠慮がちだったが正直だった。だからわたしは余計に彼女は心から吐き出したいなにかを抱えているのだと感じた。
「今わたしとしているお喋りも苦手ですか?」
答えはわかっている。そんなことないって言う。このひとは初対面の人間を否定できてしまうほど失礼な人間ではないだろう。それがわかっていても聞いてしまうのは聞かないと不安だから。でも不安を悟られるとその程度だと思われてしまうから、そうならないように虚栄心だけを頼りに接客の顔を繕う。
「それが不思議と、きみと話すのは嫌な感じがしないね」
否定されなかったこと、自分の見立てが間違っていなかったことにわたしは内心ほっと胸を撫で下ろした。
「ふふ、それはとても嬉しいです。ありがとうございます。もしよろしければ銀花さんのお話聞いてみたいです。とても知りたいんです、どんなお話をなさるのか」
興味本位でしかなかった。少し前に得た安心により身構える姿勢を崩していたわたしはなぜだかどんな話が飛んできても応えられる気になってしまっていた。だから彼女の口から出てきたその文言に固まる他なかった。
「そうだなぁ。きみは、突然自らの手元に大金が現われたらどうする?」
なにその質問……とわたしは怪訝に思った。全然そんなふうには見えなかったけれど彼女はもしかしたらそういうなにか危ないものの勧誘とかだったりするの? と一抹の不安を覚えたが、最初に彼女が言った『きみは話に相槌を打てば良い』という発言が嘘だったとは思えなかったから、わたしはすぐに返答を思案し始めた。けれどそんな突飛な話の答えが易々出てくるような頭をしていないわたしは困ったように繋ぎになりそうな言葉を吐く。
「……――と、そうですね。大金が突然ですか、なんの前触れもなく?」
「いや、前触れはあるんだ。けれど突然の出来事と言えばいいかな」
余計にわからないわ。前触れがあることをひとはあまり突然とは言わないだろう。この場合は、その前触れに気がつかなかったあるいは気がつけなかったと捉えるべきだろうか。
「例を出そうか。じゃあ宝くじに当たったとしよう。一等の当選金額は破格の四十億とか、あほらしい値段設定にしておこう。きみは前述の宝くじの一等に当選し一夜にして四十億を手に入れた。勿論仮定の話だけれど」
四十億って、一体どのくらいだろう……。わたしの稼ぎじゃ一生かかっても手に入らない額だということしか理解が及ばない。一生かかっても手に入れられない額だということは、わたしが生涯必要になる金額よりも大幅に上と言うことになる。それならば――
「わたしだったら働くのをやめてのんびり隠居すると思います。金額の規模が大きすぎて全くイメージが湧きませんし、それに年齢的にまだ隠居には早いかと思いますが、四十億だなんて大金なら一般的な範囲でなら遊んで生きていくのも可能かなと感じますしもっと平凡な暮らしを志せばより長くそれなりな生活を営めるかなって」
つまらない返事。もっと夢のあることを言えば良いのに。多分お客様もそういう返答を期待していたはず。こういうときほどわたしはこの職業に向いていないと実感する。
お金の話ってそのひとの生活水準なんかが見えるからあまり得意じゃない。わたしはどちらかというとケチで貧乏くさいタイプだから、余計にそう感じるのかも。
「銀花さんは……、銀花さんだったらどんなことにお金を使いますか?」
「え? あぁ、ワタシかい?」
わたしの質問に彼女はほんの少し驚いたような素振りを見せ、顎をさすりながら答えを探る。間は些細だったけれどわたしにはなぜだか長く感じた。もしかしたら彼女の考えが気になって、それを聞くのが待ち遠しかったのかもしれない。
「……きみに使うかなぁ、シスイ」
わたしの真面目な期待などよそに、彼女は冗談めかした様子で返事をはぐらかした。少し裏切られたような気持ちになってわたしは寂しさを感じたが、今日初めて訪れたお客様に裏切りもなにもないと思い直し、冗談を笑って受け入れられる女を演じた。
「ふふ、もう……また来てくれるってことですか?」
「もちろんだよ。きみはきれいでかわいいからね」
「ありがとうございます」
同性から容姿を褒められる経験なんてお世辞や馴れ合いみたいなものしかなかったから、彼女の一言もわたしにとってはそれと同等のものだと解釈されていた。けれど彼女はそれを感じ取ってあまつさえ何か思うところがあったらしい。すかさず「きみはなにか誤解しているようだ。ワタシは容姿だけの話をしているんじゃないよ? きみは心がきれいで笑顔がかわいいと言いたかったんだ。きみのような生真面目な娘はとても好きだよ」そう言って華奢で血色のあまりよくない指先でわたしの手の甲を撫で、自らの右手の小指を差し出す。
「次も来る。必ず。……きみはきっとワタシのことを胡散臭いだとか得体が知れない人物だと思っているだろうから、ワタシの言葉が真実であることを証明し、きみの笑顔をまた見るためにここへ来るよ。だからまた会おう。次は下世話で意味不明な金の話なんかじゃなく、ワタシが見た景色の話をしよう。約束だ」
彼女の瞳に射貫かれて目が逸らせなくなった。おずおずと、けれどまるで命令されたみたいに逆らえない様子で、わたしは彼女から差し出された小指に自らの小指を絡ませた。
「二週間後、必ずワタシはここできみと会う。それは決定したことであり、また運命と呼ばれる事柄だ」
わたしは頷く。その発言のあまりの真っ直ぐさに、彼女の言葉はすでにわたしの中で得たいの知れない胡散臭いものなんかじゃなくなっていた。
「わたし、運命とかロマンチックなことがとても好きなので、銀花さんの言葉を信じていますね。二週間後、また会いましょう」
その言葉が終わると同時にふたりの小指は解かれた。
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彼女の見送りをしてからバックヤードに戻ると二週間後の木曜日に入った指名の予定を自分の勤務表に記入する。本指名なんて久しぶりだったわたしは早くも浮かれた調子になっていた。
「でもまだ二週間もあるし。それに途中で気が変わって来ないことだってあるわよね……」
急に弱気になって、それを誤魔化すように心の中で言い訳をして、なんだかわたし変だわ。
それにしても……。
わたしは会計時のことを思い出す。合計十八万ほどの支払いをする際、ちらりと見えた彼女のお財布には札束と言って差し支えない程の大金が入っていて、わたしは心の中で驚いた。
この店に勤めていて数百万単位のお金を費やす人を全く見たことがなかったわけではないが、それでも皆いかにもお金を持っていそうなブランド物で身を固めているステレオタイプなお金持ちのテンプレを当てはめたような見た目をしていたり、会話の内容も業績のことやたくさんお金がかかりそうな趣味の話だったり、わかりやすくお金がある雰囲気を纏っていた。だが銀花さんはそうではない。ゆったりとしたTシャツにパーカーを羽織ってジーンズを履いている、極めてラフな恰好で、話す内容も今まで見たお金持ちの方達とは全然違った。
もしかして今日話してくださった宝くじが当たったらという仮定の話は冗談なんかじゃなくて本当に起こったことなんじゃないか? 実はその自慢話を聞いてもらいたかったのではないだろうか? 今後彼女がわたしを気に入ってくれて、常連さんになってくれたなら……。
わたしは数々の邪な妄想を消し飛ばすように頭を振った。そうしなければ脳がパンクしそうだった。
わたしは一度頭をリセットさせようとバックヤードの窓にかかったウィンドウシャッターの隙間から外の世界を見下ろした。ネオンやビル群の明かりが広がる街並みはキラキラしていて幻想的だけど、わたしの胸はときめかない。
そういえば彼女、次に会ったときはきれいな景色の話をしてくれるって言っていた。きれいな景色ってなんだろう。そもそも話を聞いたところでそれを想像する力がわたしにあるのだろうか。
去り際の彼女の言葉をもう一度思い出す。
『二週間後、必ずワタシはここできみと会う。それは決定したことであり、また運命と呼ばれる事柄だ』
彼女の言う運命がどう転ぶかはわからない。けれど運命だと言われてしまうとそれを信じずにはいられない。夢見がちもほどほどにしなきゃと思いながらわたしは小さな窓の奥一面に広がる夜景から目を逸らす。生きるために必要な気分転換は充分にできたから、もういい。
どうか彼女の言う運命を信じたわたしが馬鹿をみませんように。
願うことしかできない無力なわたしが明日も生きられるますように。
少なくともわたしの元には存在しない神様に祈りながら、またホールに出て行く。
だって働かなければ生きられないから。生きるために必要だから。わたしは生きたいから。