交換日記
「ゆきちゃんあのね、彼はいつも決まった場所で診察室に呼ばれるのを待っているのよ。受付から一番離れた長椅子の一番隅っこ。そこが彼の定位置なの。
長い髪を少しだけ結っていて、揃えた足に几帳面に両手を乗せて、俯きがちに座るそのひとに私はいつの間にか目を奪われていたわ。
気がつけば通院するたびに彼の定位置に目を向けていて、彼がいるのを確認すると、声を掛けようかしらと何度も悩んでは止めた。名前も知らないし、何に悩んで精神科を訪れているのかも知らなかったから、そんな私に話し掛けられても困らせてしまうと思った。それに実行に移す切っ掛けもなかったから……。
そんな状態がいつの間にか四年も続いていたのよ。
けれど切っ掛けというものはいつだって突然舞い込んでくるのね。それは精神科の担当医に勧められて今日行った社会復帰支援ディスカッションの会場で起こったわ。
彼が居たの。それだけでも私の胸は高鳴ったのに、何が誰がそうさせたのかマンツーマンのコミュニケーション演習で彼とペアになれてしまった。
とても緊張した。話しかける内容を幾度となく考えていたのにその全てが吹き飛んで、私は名前を告げるのが精一杯だった。
彼は九院能代さんというお名前らしく、歳は私の二つ下で十七歳なのだけど高校には通っていないって言っていた。
長い髪を垂れさせて俯き気味に私を見ない彼の顔をどうにかこちらに向けさせたくて、何か褒めるなり前向きな話し出しをすれば顔を上げてくれるのではという発想で、私は安易にもずっと気になっていたことを口に出してしまったの。「髪の毛、長くてとても綺麗ね」って。嘘ではなく正直な感想だったわ。私は他人の容姿に興味を示さない方だと思っていたけれど彼にだけは違った。腰まで届く彼の長い髪は確かに美しかったの。
だけど彼の反応は私の望んでいたものとは正反対で、まるで嬉しそうではなかった。私は褒めたつもりだったのだけれど、彼は困ったようにより一層深く俯いてしまって、少しばかり私に向けられた視線は鋭く睨みを利かせていた。
彼は「別に、切れないだけ」ってとても素っ気なく私に言い放ったわ。褒められたのに一寸たりとも、愛想笑いの一つも浮かべず、そればかりかそのまま席を立って部屋を出て行ってしまおうとするから私は慌てて彼の手首を掴んだ。
「不躾なことを言ってしまってごめんなさい。気分を悪くさせてしまって……、もうこの話は出しません。本当にごめんなさい」
そう伝えると彼は鬱陶しそうに私の手を払いのけ再び席に着いてくれた。ううん、私が引き留めたからじゃない。彼が再び座ったのは周りの視線が刺さるように私達に降り注がれていたから。
彼は黙りこくり私は戸惑った。どうすれば私とお話してくれるのだろうって。自分でもとても不思議だったわ。こんなにも誰かと会話がしたいと思ったのは私の十九年の人生でこれが初めてのことだったもの。
「あの、実は病院の待合室でいつも見かけていて、それでお話がしてみたかったの」
そんな馬鹿正直な話し出ししか出来ない自分がひどく無力に感じて恥ずかしくなったし、勿論私の言葉は彼に届いていないみたいに無視を決め込まれてしまった。
困ったわ。本当に困った。このままではディスカッションの時間が終わってしまうってとても焦った。この機会を逃したら二度と彼はこうして私と対面してくれない、もしかしたら気分を害して通院の日を変えてしまうかもしれないって、私は思わず頭を抱えそうになった。
そうしてぐるぐる巡る思考の中でふと、後ろで会話をしている女子二人の声が耳に届いたの。それは私に中学生時代の出来事を想起させるには十分なきゃぴきゃぴした甲高い声だった。
ああそうだ、話し合いが駄目なら……ってその時閃いたの。
私は鞄の中からノートを取り出して、何か書いてあったであろう前半の数ページを破り捨て文字を書き始めた。彼の方はよく見ていなかったけれど突然紙を引き裂いた私にとても驚いていたことは確かだわ。
そしてA4ノートにぎっしりと、けれど彼が読むのに億劫にならない程度のサイズで質問を書き連ねて、ディスカッションが終わる直前に力任せに押しつけた。
「痛っ !? なに?」ってとても迷惑そうな顔をする彼に「読んで、返事を書いてください。締め切りは二週間後の木曜日! 嘘は書かないこと!」そう言い残して私は出口へと走り出した。後ろから彼の大きな、それもとても怒っているような「はぁ !? おい! いらないよこんなボロボロのノート! 人にゴミ押しつけんな!」って声が聞こえたわ。鮮明に、よく覚えている。
私はバス停へ着くまでそのまま走って、彼が追ってきていないことを確認して雪崩れるようにベンチにへたり込んだのだけれど、その後もずっと、「どうしましょう。ゴミって言われてしまったわ。読む前に捨てられてしまうんじゃないかしら……」って、どうしましょう、どうしましょうと悩みながらバスを待った。
結局バスはその後二十分遅れで私が悶々とするバス停に来たわ。遅れすぎよね」
― * ―
木曜日の午後、無言で私に突き返されたのは二週間前のノートだった。彼は忘れたり無視したりすることなく、ちゃんとあの日のノートを私に手渡してくれた。
押しつけるように返されたそれを受け取ると彼はまたいつもの定位置に腰を下ろした。普段と違うのは時折こちらを窺うようにちらりと視線を向けてくれること。
私は急いでノートを開く。もしかしたら返事はないのかもしれないなんて思ったけれど、そんなことはなく、紙上には几帳面かつ少し硬い文字で、私の質問に短く、だけど全てに返答を書いてくれていた。約束通り嘘は書かないでくれたみたい。端がくしゃりと潰れていたり、何度も消した痕跡の残る紙面を見て思わず顔が綻ぶ。初めてだった。他人の文字で笑顔になれたのは。
「ふふ」
彼はかなり律儀なのかも。私が危惧したとおり無視したり捨てることだって出来たはずなのに。
私はその場でまたノートに文字を書いた。一瞬だけ彼の方に視線を向けると丁度彼も私を見たタイミングだったみたいで、ノートにペンを向ける私を見てギョッと目を見開いたかと思えば口をぱくぱくさせながら何かを伝えようとしていた。多分返事を書くなというような事を言っている。けれど私はそれが伝わっていないフリをしてかわいこぶって首を傾げてみせた。そんな私を見た彼は眉間にしわを寄せながらいつもの特等席を立ってツカツカとこちらに歩み寄る。
「いらないってそれ」
「ちょっと待っていて下さい。あと少しで書き終わりますから」
「だからいらないって。ひとの話を聞けないのか」
その時丁度良く診察室の方から私の名を呼ぶ声が聞こえてくる。私は席を立つ時に二週間前と同じように、だけどあの日より優しく彼にノートを手渡した。
「あなたが触れられたくないことに無理に踏み込むつもりはないです。でも能代さんのことをもっと知りたいから今日もこのノートを手渡させて下さい。このノートの名称は交換ノートではなくて交換日記にしましょう。日記だから日々のことを書いて、あまり知られたくない過去のことだったりはこのノートに書かなくて良いです。でもその日書きたいことが過去のことだったら書いても大丈夫、そんなのんびりした日記にしましょう」
「そんなのどうでもいいけどなんで続行する流れになってるの !? だからこれはいらないって」
私はそんな彼を無視して小走りで診察室に移動する。一瞬だけくるりと振り返ると彼は仕方がないといった風にノートを鞄に仕舞っていた。その姿がとても愛らしくて、診察室へ向かう踵を返して抱きしめに行きたくなってしまう。
私が一方的に申し込んだ交換日記だけど、何年も何十年もずっと続けばいいななんて大げさすぎる望みを懐いてしまうくらい、彼という存在は私の心を浮かれさせてしまう。こんな気持ちは初めてだった。
九院能代さん。彼のことがもっと知りたい。精神科になんて通っているのだからきっと心に傷を負っているのだろう。私みたいに。交換日記を通じて少しずつでも彼のことを知っていけたのなら、いつか、彼の心の傷を私が癒やすことも出来るかしら……。それこそ大それた望みだけど。
また日記が巡ってくるまで二週間ある。その二週間の間に次に書くことを沢山探そう。こんなに心躍る日々が来るなんて思ってもみなかった。彼もいつか私と同じように日記を待ち遠しく思ってくれる日が来るかしら。そうしたらどうしましょう、きっと嬉しくて今以上にはしゃいでしまう。まだまだずっと先だと思うけれど、そうやって彼の楽しみのひとつに私がなれれば幸せに違いない。
家に帰って一目散に庭へ赴いた。そして二週間前みたいに私の唯一の家族に一番に報告をする。
「ゆきちゃんあのね、今日は能代さんが交換日記を持ってきてくれたの。凄く嬉しくて、思わずその場で返事を書いてしまったわ。彼は口では嫌と伝えてくるけど私が食い下がると渋々応じてくれるの。彼はとても優しくて良い人なんだと思う。私、彼ともっと仲良くなりたい」
一部分だけ微かに種類が違う土に向けて私は嬉々として今日の出来事を話す。姉と母はそれを見て嫌な顔をしながら奥へ引っ込んで行った。
土に埋まったハムスターの死骸は今日も返事を寄越さない。